「前田利家」

pp. 180-182,188-189,196-205

戸部 新十郎 著
毎日新聞社 発行

(pp.180-182)
 この春、成政は富山城中に、新たに馬場を作り、一帯に桜樹を植えておいたが、花開くころ、諸将を招いて宴を張った。菊池入道も招かれていたが、興に乗じて、自ら帯びる刀を成政に献じ、
「これはかつて謙信公より賜わったもので、鬼神大王の宝刀です。いまこれを謹んで呈上いたします。願わくば、とのよ、この刀をもって北国鎮定をなされよ」
といった。
 少し、酔っていたのかもわからない。そして、かねて圧迫されているわが身をかこちながら、桜花のもと、ついつい追従する気になったのだろう。成政はしかし、もっと酔っていた。せっかく呈された刀を投げ捨てたばかりか、
「うぬなどわが大志を知るまい。われは天下に覇たるをもって、大願とする。北国如きは、わが眼中にない」
と喚いた。
菊池入道は面目を失った。酔興とはいえ、自らの追従にも嫌気がさした。打ちしおれて、阿尾の城に帰ってくると、門前に、子の十六郎安信がにこにこと出迎えていた。傍らに、見知らぬ武士が立っている。
「何者か」
入道が訊ねると、十六郎は、
「手前が兵法の師です」
と答えた。
 十六郎がかねて兵法に励んでいることは知っている。また怪しげな廻国の修行者でも引き入れたかと思い、黙殺して城内に入ろうとするのに、十六郎は入道の馬側に寄って、ささやいた。
「この仁は、中条流宗家、富田治部左衛門景政どのです。お話なされてはいかがか」
「なに」
 前田家の武将、富田景政の名は聞いている。
「会おう」
 入道は馬上から、会釈した。景政は例によって、厳めしく会釈を返した。このとき、入道武勝の寝返りが決まったといっていい。 ちょうど、利家が大坂から金沢へ帰着したとき、菊池入道からの誓紙が届いた。利家からも、誓紙が送られた。
 その第一条に、
〈妻子御きもいり第一のこと〉
とあった。
 こんなことは隠密にすべきことだが、たいがい女子供から露顕する畏れがある。逃がすにしても、人質にするにしても、よくよく心得ておくことをさとしたものである。そのうえで、本知行ほどは進上すべきことなどを、約束してある。委細は景政によることも明記してあった。こうしておいて、七月、村井長頼は阿尾に兵を進めた。約束に従って、菊池一党は城を開けて降った。
「だれを入れますかの」
 たぶん、逆襲があるに違いない阿尾の城主につき、景政が案じていった。
「そうさな」
 利家は少し考え、
「慶次郎はどうか。あいつにも、城の一つぐらい、もたさにゃなるまい」
といい、独りでうなずいた。
 慶次郎はこのころ青年というより、壮年に近い。年そのものより、容貌骨柄、たいそうな豪儀で、もののいいよう、考え方が枯れたようになっている。枯れた、というのは単なる形容で、ありようは、一種の拗ね者じみていて、気の合う豪士どもと、酒を飲み、天下の有様をこきおろし、ときに詩歌舞踊に溺れる、といった日々である。けっして、いい傾向とは思えない。たぶん、利家をけなしてもいることだろう。不平不満の徒はいつの世でもいることだし、それらはまた、実戦に役立つことも知っている。が、いまや甥が叔父をけなすだけではすまない。加賀・能登二州にまたがる太守とその家中をないがしろにすることになる。
〈前田家〉
という組織を保つ空気が大事だった。
〈城主にすれば、あれも変わるかもしれない〉
 利家はそう思ったのである。
 慶次郎、そのころ利益と名乗っていたが、入城すると、毎日、櫓に登り、高いびきで昼寝するのが仕事だった。つけられた高畠九蔵は、はらはらしながら注意するが、利益は眼下に拡がる越中の海上から吹く風に髭をなぶらせ、心地よげに眠っている。
 果たして、菊池離反に激怒した成政は、神保氏張に阿尾城を攻めさせた。利益は櫓を下り、武具も着けずに槍を揮い、おりから来合わせた村井長頼の隊とともに、敵を退けた。そしてまた、櫓の上で昼寝を楽しむのだった。利益の挙動は困ったものだが、それをのぞけば、なにもかもうまくいっていた。

かぶき御免
(pp.188-189)
 ただ一人、倣岸に構えている男がいた。慶次郎である。首筋をぐいと伸ばし、秀吉を見つめている姿は、なにか鎌首をもたげた蛇のようだった。
「あれは、何者か」
 秀吉は利家に訊ねた。
「利益と申します。利久が伜です」
 利家はことさら改まった名でよんだ。が、
「慶次郎か」
と、秀吉はいった。
だいたい、利久が養子である慶次郎を、前田家のあとつぎにしようとしたことから、信長の命で利家の相続が決まった。いわば、騒動の本人である。ずっとむかしのことだが、秀吉はちゃんと覚えている。
「おことの甥御だな」
 秀吉は念を押した。滝川という血統の違う内情を知りながら、単に、
〈甥〉
という言葉で念を押している。
「おもしろそうな男だ」
「おもしろすぎます」
 苦笑まじりに利家が答えた。
「いま、いずれに」
「越中阿尾五千石をとらせてあります」
「ほう、顔を見なかったな」
 秀吉は小首を傾げた。
 前田家の重だった者は、ほとんど越中で秀吉の本陣に伺候し、目見得を許されている。が、慶次郎はこなかった。
「少々、ふくれているのですよ。お身さまが大軍を率いて見えたから、出番がなくなったと申して」
「かぶいた男だな」
「さよう、なかなかのかぶき者です。ちょうど、手前の若いときのように」
 利家はこういった。自分の若いころと同じようだ、というあたり、ふらちながら、可愛く思っている心根がうかがわれた。
「いまははやらぬことだな。が、一度、大坂へ連れてくるがいい。酒でも飲ましょう」
「かたじけのうございます」
 その間、慶次郎はずっと鎌首をもたげたままだった。
 じつは近ごろ、利家をもてあましている。党を作り、ちょっとした不平不満を、代弁するようなかたちで、重臣のだれかれにぶつける。それでいて、利家の顔を見ると、にこにこ笑って、邪気がない。いまも、秀吉に慴伏しているさまを、内心なじっていることだろう。そんな眼の色だった。

三(pp.196-197)
 二十日、利長が三千を率いて先発した。岡島一吉、長連竜、奥村永富、山崎長徳ら、老練で、他家にも関こえた連中がついている。なかには、頭から足まで銀ずくめに着飾った大兵の男が、眼だけのぞかせ、見送る利家をからかった。
「ゆるりと、茶の湯なぞでお過ごし下され」
 慶次郎の野太い声である。かれ以外に、いまの利家をからかう者はない。
「へらず口をきくより、死んでこい」
 利家がいい返すと、
「さあ、死ねますかどうか。これは南蛮物ですからな」
と、鳶口になった兜の口を開閉したり、鳩胸の鎧を叩いたりして見せた。当時はやり出した南蛮鎧である。
「唐でも、南蛮でも、弱いやつは死ぬる」
「死ねませんな。この注釈が仕上がるまで」
と、慶次郎は腰に吊した袋を指さした。
 袋の中身は、『伊勢物語』の一帖である。近ごろかれはそんなものに凝っている。戦をしながら、注釈を加えようというのだろう。
〈妙な男だ〉
と思いながら、利家は見送った。
 骨柄といい、弁舌といい、いかにもひとを圧する風貌だが、考えてみると、武功はあまりない。どちらかというと、女々しい文の道に、進んで溺れているようだ。
〈哀れな〉
とも思った。資性をゆがめたのは、この自分にあるのではないか、と。が、陣列に加わって進む慶次郎の姿は、ただ豪快で珍妙だった。南蛮鎧の腰に、『伊勢物語』一帖が揺れている・・・・・・。

(pp.198-200)
 利長らは、なお大隈に進軍して制圧したし、秀吉の本隊は大軍を薩摩に進めたので、さすがの島津義久も頭を丸めて降参した。入道名を竜伯という。これが五月七日のことで、諸勢は初夏の風吹きそめる京都に、ぞくぞく凱旋してきた。慶次郎はしかし、戦死者のなかにも入っておらず、武功者の名からも洩れていた。利家はもう、家臣の一人一人に、ひいきがあってはならない立場である。利長から改めて戦況の模様を聞いたときも、とくに慶次郎のことを問いはしなかった。利長もまた、慶次郎の働きに触れなかった。どちらかというと、この従兄弟同士は、仲があまりよくない。別に争うわけではないが、どこかよそよそしいところがある。律儀者の利長にとって、
〈かぶき者〉
の慶次郎は性に合わないのである。
 慶次郎だけではない。やはり従兄弟の大田但馬とも合わないし、可児才蔵といった豪士などとも、なじまなかった。こんなことは、互いにのみ込んでいると見え、ひそやかな党のようなものができあがっているようだった。
 かれらは、利長のことを、
〈柔弱でなじめない〉
と思っているし、利長は利長で、かれらを単に、
〈横着で、乱暴な連中〉
だと思っている。
 じつは、それらの批判はあまり重要ではない。問題はどこにでも起こりがちな、
〈二代目〉
ということだった。
 二代目は難しい。常に創立者と比較されるし、創立者の作った名声、路線に逆らってならず、そうかといって、ただ律儀だけでは面白味がないと指摘される。ことに、いつでも存在する不平不満の徒からは、本来かれが負うべきでないことがらでも、非難される。
 可児才蔵の如きは、
「窮屈だ」
という言葉を残して、すでに退散してしまっていた。
 はじめて、二代目を眺める利家も、内心困ったことだと思っている。まだまだ、横着、乱暴者といわれる連中が必要な時世なのだ。そして利家自身、さほど非難されるべきところはない。武勇もある。風流の道にも達している。秀吉やほかの諸大名のうけもいい。満足すべき二代目だと思っている。
 が、利長にしても、好かぬ者を好かぬのは当然なことで、慶次郎にいくらかの武功があっても、黙殺したに違いない。それも一つの判断ではある。利家は黙って、利長の報告を聞いた。しばらくして、近臣の篠原勘六が、慶次郎の九州での模様を聞いてきて伝えた。なんでも、慶次郎は戦功をあせらず、悠々とした振る舞いで、ときに大声で和歌を朗唱したそうだ。
 「思う甲斐なき世なりけり年月を あだに契りつ我や住まいし」
勘六はこんな歌をうたい、
「女に去られた男が、むかしの二人の仲を思い起こしながら、物思いにふけっているのだそうでございますね」
 といった。『伊勢物語』中の話である。
「慶次郎さまからいやほど講釈を受けた人が、手前に教えてくれたのです」
 利家は笑った。いやほど、というのが面白い。その男の迷惑顔が浮かぶようだった。
「しかし、慶次郎さまの働きは、たいそう素晴らしかったそうです。一人で敵勢の中へ入って行って、なぐったり、蹴ったりして追い散らされたというのです」
「なぐったり、蹴ったりか」
 槍や刀剣は使わないらしい。
「はい。功名手柄は余人におゆずりになるつもりなのでしょう。首級一つ、あげていません。そのあとを一同が攻め込むわけですが、勝利の道を開いたものとして、心ある人はたいそう賞めそやしています」
「なるほど」
 利家はうなづき、すでに名声や功名手柄から離れたがっている慶次郎の姿を思った。
「しかし勘六よ」
と、利家は声を強めていった。
「心ある人がどういおうと勝手だ。武士というものは、いつでも功名手柄をめざして働くべきものだ。慶次郎の真似はしてはならん。あいつにはあいつだけの生き方がある」

四(pp.200-201)
 人物、人柄の差というには、あまりに非情な戦国の運命だといわねばならない。八月には、兄利久が死んだ。慶次郎の父親にあたる。それはまた、不遇の一生だった。信長によって、前田家当主の地位を、利家にゆずって以来、流浪もした。たぶん、世をはかなんだことだろう。が、利家が能登一国の領主になると、ようやく和睦してき、俗に、
〈ご隠居〉
とよばれ、隠居高七千石をもらっていた。うち、五千石は慶次郎に渡し、あといかにも閑々たる暮しぶりだった。その法名を、
〈真寂院孤峰一雲居士〉
という。
 孤独でさびしい生涯を暗示するものである。これまた、戦国の一つの歩みといわなければならないのだろう。利家はこの不幸な兄のため、自ら喪服を着け、葬地野田山まで赴いた。慶次郎は存外、神妙な面持ちで歩いていた。そうかといって、通常、親に当たる人の死に見せる感慨はとくになさそうだった。ふと、利家と視線が合った。
「人それぞれですから。だから、世の中はおもしろい」
と、つぶやいた。
 たしかに、人それぞれである。較べるには、あまりに大きな存在になってしまったが、関白、太政大臣で、豊臣の姓を受けた秀吉は、かねて建造中の聚楽第を九月に完成させ、大坂城から移住した。

(pp.202-205)
 慶次郎を前田家の京都屋敷においた。思いのほか、文人、茶人、能楽者、連歌師などに知り合いが多く、なにかと便利だったからである。顔が広いということは、もともとそうなのでなく、一見の者でも、即座に友人になれる教養や人柄をもっているということである。慶次郎はじっさい、かれの風貌、骨柄とはうらはらに、風流人に好かれた。風流人の多くはすね者であり、強烈な個性の持ち主である。かれらはなんの度胸も腕もないやからが、神妙ぶって、武辺とか忠義を語っているのを見ると、胸くそが悪くなるのだった。慶次郎の京住まいは、利家にとって有用だったばかりでなく、慶次郎にとっても性にあっていた。束縛のない自由がある。書物を読み、連歌を作り、茶に親しみ、碁や将棋を楽しみ、ときに町へ出てひょうげたる振る舞いをして、よく話題を作った。
 たとえば、こうである。
 銭湯風呂へ入るのに、小脇差を鷲づかみにしていた。人は怖れて、みんな出てしまった。そこで慶次郎は、板の間へ上がり、ずばっと脇差を抜き、垢を掻きはじめた。よく見ると、それは竹べらであった。
 京都町通りを歩いているとき、呉服店でよく肥えた男が、片足を道ばたへ投げ出して、なにやらしゃべっていた。慶次郎はその足をしかと掴み、店の亭主に、
「この足はいかほどか」
と問うた。亭主は戯れに、百貫で売りたい、といったので、慶次郎は従者に命じた。
「屋敷へ行って、金子百貫をもって参れ。この足を買うた」
 足を押さえられた者はもとより、亭主も怖くなって、いろいろ詫びたが、慶次郎は許さない。だいいち掴まれた足は、磐石のように動かない。町役人が総出で詫びたので、ようやく許したが、以後、道ばたへ足を投げ出すことは禁制になった。
 この慶次郎が聚楽第へ上がったのは、九月九日の重陽の節句である。かねて、慶次郎の奇行を聞いていた秀吉が、とくに召したものだが、以前、富山陣のおり、上方へ参れ、といって、そのままになっているといういきさつがある。
 さて、秀吉の前へ出るとき、慶次郎は大鎌髭で、虎の皮の肩衣、袴も風変わりなものを着けていた。次の間にひかえているとき、浅野長政や猪子内匠らがこれを見て、
「これはいかがか。鎌髭でのお目見得は許さぬこと」
「されば」
 慶次郎は鎌髭に手をやると、するりととった。下からは、青々と剃りた立ちの面魂が出た。付け髭なのだった。
 さて、
秀吉の前へ出たとき、頬を畳にすりつけて平伏した。珍妙な仕草に、居並ぶ大名衆のなかから、笑いが洩れた。利家はただ、
〈ああ、やってるな〉
と思って眺めた。
 つまり、秀吉などにまともに拝礼するのを拒否する姿勢である。それ自体は無礼だが、ある心の発動はやむを得ないことだし、だれでもあることだと理解している。
 秀吉も笑った。しかし、すかさず、
「傾く髷とは無礼よな」
と大声を出した。
 生来の大音だが、人臣を極める官位を背に、その声は、いまでは威さえあって、みな畏れたものである。
 慶次郎はしかし、畏れるふうもなく、
「曲がっておればこそ、マゲと申すのです」
と答えた。
秀吉の威嚇は、肩すかしを喰った。
「さても、かぶいた男だな」
と、大盃に酒をとらせたあと、
「一とさし舞うてみよ」
と、舞いを所望した。
「されば」
 慶次郎は立ち上がり、自ら謡い、舞いだした。
赤いちょっかい革袴、鶏のとっさか立烏帽子、お猿の尻べたまっかいきん・・・・・・
 かれは舞いながら、ときどき腰をかがめた。すると袴のうしろが割れるようになっていて、割れ目から赤い切れがのぞいた。
 明らかに、
〈猿面冠者〉
の秀吉を風刺したものだった。が、手の舞い足の踏みがなかなか滑稽で、諸大名が笑い出すのに、なんの抵抗もなかった。赤い尻は秀吉からは見えない。で、秀吉も一緒になって、滑稽な慶次郎の舞いに興じて笑った。舞いが終わった。また、大盃がさされた。
「以後、心のままにかぶいて暮らせよ」
 秀吉がいった。
 いわば、かぶきの天下御免といったところである。もっとも、秀吉としては、そんなことでも許して、天下人の威を示すよりほかなかっただろう。
聚楽第からの帰り、慶次郎は利家に従って黙々と歩いていた。突然、利家が笑い出した。いまになって、赤い尻の趣向がおかしくなってきたのである。
「あの男、見ないようなふりをして、ちゃんと知っていたぞ」
「そうでしょう。だからいたずら甲斐があります」
慶次郎はすまして答えた・・・・・・。

作成2002/03/24

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