御気楽観戦記特別企画
1998年、10月19日・午後5時。
後楽園ホール、5Fのエレベーター前
今日はH君の試合がある。
昨日時間がなく数分の突貫工事で描きあげたH君応援用の垂れ幕を飾る場所を確保する為、開場前に並んで待つ。
しばらくするとインターネットで知り合った同好の仲間達もやってきた。雑談しながら開場の時間をつぶした。
それから間もなくエレベーターから降りてきたH君が我々の視界に入ってきた。爽やかな顔立ちの彼は背が高いので人ごみの中でもその姿を見つけるのに、さほど苦労はしない。
「どうも!」
私が声を掛けると
「やっぱりダメでした・・・なんとかお願いしてみたんですが・・、履きたかったんですれど・・・」
この日の彼の試合が決ってから私達仲間内で彼の試合用オリジナルのトランクスを贈る計画を立てた。もちろん彼に内緒で・・
彼の好きな黒をベースにデザインしたトランクスだったが、今回彼は赤コーナー側からの出場となるため黒色のトランクスは許可されなかったのだ。
「ごめんね、どっちのコーナーからでも良い様に2枚セットで贈ればよかったのに・・・」
ほんと、どこか抜けてる私である。しかし、彼は
「でも今日、そのトランクス持って来ましたよ」
履くことの出来ないトランクスを彼は律儀にも、持って来たと言うではないか・・・
きっとお守りのように我々の応援する気持ちをいつも、持っていたかったのだろう。
「1階級上げたおかげで調子はいいです。」
たしかに顔の色艶もよく、調子は良さそうに見えた。心なしか余裕すら感じられた。
「がんばってね!」 「がんばります!」
我々はエールと共に彼をホールの中へと送りだした。
午後9時過ぎ。
ホール東側、バルコニー立見席
私の目の前には日本バンタム級で屈指の強打を誇るホープが、フィリピンからやって来た技巧の東洋太平洋王者にいいようにあしらわれていた。
もはや、この日本で彼に敵う者はいないのでは? 日本王者のYも、西のホープNでも彼には勝てんかもしれない・・
などと思っていると後ろから聞き覚えのある声がした。
「どうも・・」
振りかえると先ほどまで激戦を繰り広げていたH君が立っててた。
「すいません、負けてしまって・・・・もう、引退します。」
相変わらず、その爽やかな表情から発せられるとは思いも付かぬ言葉に私の思考回路は混乱した。
「この試合の前から決めていました。負けたらもうボクシングは止めると。」
たのむ、そんな爽やかな顔してそんなことを言わないでくれ・・・
「みんなから貰ったトランクス、結局履く事のないままで終わってしまいました。どうもスイマセン」
スイマセンって言われても・・・
「トランクス、履きたかったなぁ・・それだけが心残りです。」
ちょっ、ちょっと待ってくれよ!私はそんなときどんな言葉を掛けてやったらいいんだ?
か・考えさせてくれよ・・・・
「まだ他に挨拶をしなければならない人がいますので・・・また後ほど。」
「と・とにかくゆっくりと休んでください。おつかれさま」
さんざん考えて出た言葉はこれくらいのものだった。
午後10時半ころ、
近くの居酒屋
ホールに行けば誰かしら必ずいるので、試合観戦後この店でその日の試合を肴に一杯やるのが常となった。
今日はやはり、H君の試合ということもあって大勢集まってのボクシング談義と相成った。
もちろんH君の試合の事も。
S「相手の右、よく食ってたね・・」
I「右ジャブに威力がなかったよ・・・あれじゃ、入ってくるわな・・」
K「うん、たぶん、自分の大砲である左をブチ込む為のリズム作りをしようとしてたんだと思う。しかし、その大砲を当てる前に相手の右をもらって、ぜんぜんリズムに乗れてなかったみたいだったね・・・」
「もう、ひとクラス上げた方がいいんじゃない?」と誰かが言った。
その意見には私的には??と思ったが、あながち否定は出来ない。大和田正春の例もある。
K「彼はまたクラスを上げる事は嫌がるでしょうね、今回やっとのことで1階級上げたけど、その前は『逃げるみたいで嫌だ!』って
なかなか上げなかったんだから。」
やがて話題はH君の試合のことから、メインのOPBFバンタム級王者のこと、これから行われる試合の展望などに移っていった。
H君登場
「あっ、どうも」
相変わらず表情は爽やかにH君がやって来た。
顔は激戦を物語るようにハレや目の下には痣も見える。
さっきまで和やかに宴を繰り広げていた我々も急に静まり返り、H君の話に耳を傾けようとする。お通夜じゃあるまいし・・(笑)
しかし、その場の雰囲気を察したのかH君、淡々とあくまで普通に話し始める。
「応援しに来てくださったのに、情けない試合してホント、申し訳無いです。
前から決めていた事なんですけど、今回、負けたら引退すると、・・・・
このあたりでぐずぐずしてるようじゃ、先ものぞめないし・・・」
「U(今回の対戦者)も大したことないです。パンチも無かったし、上手いとも思わなかったし・・・・
しかし、その大したことない相手に負ける自分は、さらに大したことない奴だって・・・」
H君は自分が止めようと思ったいきさつを我々に話し続けた。
思わず私は
「でも、今日の試合、相手をストップ寸前まで追込んだ場面もあったじゃない。」
すると彼は
「いえ、前回の時もそういう事があったにもかかわらず、結局そこで詰められなかったのは
自分の実力が無かったからです。チャンスがあってもそれを生かしきれないで負けてしまうようでは・・・」
「まっ、とにかくこれからのことはゆっくり休んでから考えれば・・・」
誰かが言い、ひとまず彼の引退演説はおちつき、雑談へと移る。
雑談の中で彼は
「ここで止めてしまって、後からきっと後悔するでしょうね」
「この先、何をやっているにせよ、『あそこで、今一つ頑張れなかった』と思いながら生きていくんでしょうね・・」
その言葉から、まだ彼がほんの数時間前に出てしまった結果に対しての
気持ちの整理が出来ていない様子がありありと感じられた。
そりゃ、そうだ。「負けました」「はい、では止めます」と簡単に割り切れるほど、彼と云う男は単純な頭の構造はしていない。
「トランクス、履いてリングに上がってみたかったです。」
先ほどと同じ台詞、贈り主の私達を気遣っての台詞ではない。まっ、少しはソレもあるだろうけど・・
本当に、心底あのトランクスが気に入りそれを履いた姿で脚光を浴びたかったのだろう。
俯き加減で、力なく「ボソボソ」といった感じは見せず、遠くを見るような眼で自分のその姿を想像しながら、なにか
「こうなったら楽しいだろうな」という感じで放ったその台詞に、私はかえって胸を締め付けられる思いがした。
もう、その夢は叶うことの無い夢なのだろうか・・・・
とにかく今は何も考えず、ボケーっと疲れた体を休ませてほしい。
そして十分休んだ後、本能の赴くまま、自分に正直に結論を出すのが最善かと思う。
H君がどちらの選択をしても、たとえボクサーでなくなったとしても私達との関係に何の変化もないはずだから・・・
もし、このまま止めようと思うのなら、こんな言葉を君に贈ります。
「自分の意思で止められたボクサーは幸せだと思う・・・」
そして、現役を続けるのなら、
「キャリア前半を、勝ったり負けたりしながら『名チャンプ』になった選手もたくさんいます。」
午前0時少し前、
居酒屋から出て、H君、と私達5人は水道橋駅のホームにいた。
宮城から駆けつけたSさん、高崎から来たT君、明日仕事が休みだというS士さん、そしてH君。
いつもH君の試合のある日はこうしてH君ともども上野のサウナで一夜を明かすのが常となっていた。
K(私)は彼らをそのサウナの前まで見送ろうと思ってみんなと電車の来るのを待った。
またH君があの遠くを見るような眼で楽しそうに例の台詞を言った。
「あのトランクス、履いてみたかったな・・・」
その声は深夜の駅のホームに消えていった。
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