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ここでは、アニメ・原作の区別なく、009の各エピソードについて、七月なりに思うことを時にはシリアスに、時にはおちゃらけながら綴っていきたいと思います。
何分にも、典型的なB型気質の七月のことですから、本筋から脱線することがしばしばだとは思いますが、どうか気長におつきあい下さいませ。ご意見・ご感想はkulara@d6.dion.ne.jpまたはkulara7@mx9.freecom.ne.jpまで。
(ちなみに、ここの壁紙もまりーさんのところからいただいたものを使用してます)
七月がこのエピソードを初めて読んだのは、高校生の時でした。
犬好きな七月にとって素直に感動できないところはあるものの、クビクロの行動も、ジョーの心情も納得ができましたし、釈然としない部分がある分だけ、心に深く残ったエピソードでした。
それから10年以上経った今、よくありがちな「お涙頂戴」の感傷的な話ではなく、犬の飼い主や親に対する愛情、人間のエゴイズムなどを的確に描ききったこの作品の良さがよく理解できるようになりました。
脳を改造された両親から生まれたことから通常の犬を遙かに超えた知能を持ち、念力によって発火現象を起こさせるという能力を持ってしまったクビクロは、両親や飼い主の老人を轢き殺されてしまったことから人間に対して憎悪を抱くようになり、遂には野犬の集団を率いて人間たちに復讐するようになります。
そのことを知ったジョーは、クビクロの能力に気づかなかったことへの自責の念にかられながら、自らの手でクビクロを“始末”し、その亡骸を抱いて「神よ……!!、なぜこんないたずらをなさったのです?」と、激しく慟哭します。
恐らくジョーはクビクロを、「黒い幽霊団」に改造されて戦闘用サイボーグとなってしまった自らの姿に重ね合わせていたのでしょう。
だからこそ「あのとき、あいつをたすけなければよかったのだ……」と独白したのではないかと思います。
クビクロの両親の飼い主だった老人は、生活のため、少しでも多く客を集めるために飼い犬の脳に改造手術を施したのでしょう。
恐らく老人は、それが生まれた子犬に影響するとは考えていなかったのだろうと思うのです。
が、動機に悪意がなくても、それが自然の法則、すなわち神の意志に反することだったために、最後にはとんでもない悲劇を引き起こして、ジョーの心に深い傷を残すことになるのです。
また、クビクロがジョーの許を離れたそもそもの動機は単純に両親と飼い主に復讐することだけだったのだろうと思いますが、それが野犬収容所や精肉店、豚を輸送中の貨物列車を襲うまでに至ったのは、ジョーの許を離れた後、一頭の野良犬として生きていく中で、人間の身勝手さや醜悪さを嫌というほど見聞きしていたからではないでしょうか?
ジョーは「神のいたずら」といっていますが、七月には、神が人間の思い上がりに対して与えた罰であったように思えます。
それから・・・。
蛇足ではありますが、ちょうど「クビクロ編」を読んだ頃に平井和正先生の『狼の紋章』を読んだせいでしょうか。
なぜかクビクロが『シートン動物記』に登場する気高いオオカミ王・ロボの姿に重なるような気がして仕方ありません。
このエピソードの主人公は、アフリカの小国のマラソン選手であって、ピュンマが語り手、他のメンバーは聞き手(要するに読者と同じ立場ですね)を務めるという、異色作です。
主人公のザンジバル少年が、戦争、つまり暴力という手段ではなく自分なりのやり方で、自分たちを抑圧してきた白人に対抗する、という姿勢にとても心を打たれました。
が、ストーリーの本筋とは別に、00ナンバーたちが冒頭の導入部分でスポーツやオリンピックの有り様について語り合うのですが、ここで交わされる会話の内容にも、かなり考えさせられるものがあります。
特にハインリヒがいった「いいやオリンピックは平和のシンボルなどじゃない… スポーツそのものが元来闘争本能からスタートしている血腥いものなのさ!」というセリフなどは、「あんた、それをいったらおしまいよ」という気がしないでもないのですが、先日、ソルトレーク五輪のフィギュアスケートのペアのジャッジに不正があり、2位の選手にも金メダルが授与されるということがありましたので、余計に身につまされるようなところがあります。
オリンピックに限らず、サッカーのW杯にしても国際的規模のスポーツイベントというものは、元来国際親善を目的として開催されてきたものなのですが、いつの間にか政治や金儲けの道具として利用されてしまっていて、絶えずそのことが論議されています。
また、日本に特に顕著なことなのですが、選手をタレント扱いしてせっかくの才能を潰してしまう、などということもあります。
プロ野球にしろ、男子バレーにしろ、大相撲にしろ、レベルが大いに下がってしまったのは話題性ばかりを優先させて、本筋を大きく逸脱してしまっているマスコミの報道のあり方と、ろくに見る目もないのに大騒ぎだけするファンの責任が大なのではないかと思います。
こんな風に当事者の理想が、第三者のエゴによって台無しにされてしまう、ということはスポーツに限らず、芸術や福祉の世界でも珍しいことではありません。
ですが、こうした現象はNスペの「世紀を越えて」でよくいわれてきたことですが、20世紀の物質文明・消費経済の発展がもたらした弊害の最たるものであるように思います。
消費経済の発展は人間が「個人の欲望に素直になること」と美徳とし、それを奨励すらしてきました。
が、結果的にそれは他人を、ひいては人間そのものをおろそかにし、自らの危機を招き寄せたことになってしまったように思います。
人間が平和に、そして本当の意味で幸せに暮らしていくために、「理性」は不可欠のものであることは、太古の時代に釈尊やイエス・キリスト、孔子といった聖人たち、多くの哲学者たちが絶えず指摘してきたことなのですが…。
えー、009とは全く関係のない話なのですが、先日、中古LDショップで念願の「ボルテスV」のLD-BOXを購入しました。
それでやっと今まで見られなかった話(といってもほとんどがそうなのですが^^;)を見ることができました。
で、思ったのですが、全40話もあると、どうしても約半分ほどはヘタレた話があるのですが、基本的に一話完結形式で作ってあるせいか、どれもきちんとまとまった話にできてますし、作画も大崩してないので、安心して見られました。
さすが長浜忠夫監督の名人芸だな、と感心しましたが。
ひるがえって新ゼロはどうだったかなーと考えてみて、作画は良かった回と崩れた回の差が大きすぎるし、いろいろテーマとか詰め込み過ぎたり、広げすぎたりしてヘタレていた話も多かったなあ、と(フェアリー号の話なんかは、前後編にすれば良い作品になったと思うのですが)思いました。
七月が思うには、「あばけ三兄弟の秘密」に始まるネオブラックゴーストとの最終局面になってやっと鑑賞に耐える作品になったんじゃないかなあ、と思います。
まあ、当初の予定では、この後にミュートスサイボーグ編が用意されていたとのことですから、ようやくエンジンがかかってきたところでうち切られちゃった、ということなのでしょうか。「ヤマト」や「ガンダム」、「ガッチャマン」などと見比べるとよくわかるのですが、1回30分の放送で一年間のシリーズアニメを作る場合、テーマというのか、主人公のカタルシスが確立されてないとダレてしまう、というお手本のようなものだと思います。
モノクロ版は確かに、特定の敵は出てこなかったものの、徹底した1話完結式で作っていたということ、そして「世界の平和を守るサイボーグ戦士たち」という方針がはっきりしていたことから、名作になり得たのではないかというのが、七月の分析です。
まあ、どうでもいい前置きはこの辺で置くとして。
このエピソードは、新ゼロのシリーズの中で七月が一番お気に入りのお話です。
率直にいってナレーションで助けられている観の強い「大森林からの脱出」と違って、ジョーとフランソワーズの微妙な心理とか表情がよく描けてると思います。
まあ、このエピソードに関しては、レンタルビデオに収録されてるので、見たことがない、という方にはご自分の目で見てもらった方がいい、と思いますので、ここで多くに触れることはしません。
まあ、少女マンガ色の強いエピソードですので、アクションがお好みの方にはもの足りないかもしれませんが。
・・・まあ、ホテルの部屋でフランソワーズがジョーの胸にすがって泣くシーンに関しては。
何かあったかもしれないな、と匂わせるような演出をありがとう、とだけいっておきましょうか(笑)
今だったらキスシーンの一つや二つぐらいはあったのでしょうが、まあ、20年も昔の作品ですからね。
平成版に期待しましょう(笑)
久々に新ゼロのエピソードを取り上げます。
単なる009ファン、という方にはあまり気にならないことなのでしょうが、ヒライスト・七月にとって、このエピソードにはどうしても許せないことがあります。
まあ、察しの良い方はとっくに見当がついているだろうと思うのですが、七月が許せないことというのは他でもない、このエピソードでの狼の扱いです。
一度でも『狼男だよ』『狼の紋章』のいずれかをお読みになられた方ならおわかりかと思うのですが、狼というのはもっと知性の高い動物なのです。
アマラとカマラの例を出すまでもなく、野生の狼は決して攻撃でもされない限り人間の赤ん坊を襲ったりせず、森林に捨てられている赤ん坊に乳を与えて我が子として育てることさえあるぐらいです。
原作でも、石ノ森先生が平井先生と『幻魔大戦』でご一緒に仕事をされていたこともあって、決して狼を凶悪な動物として描いておられたことなどないのですが・・・。
「エッダ編」で魔犬ガリアという凶暴な犬が出てきますので、ここで登場する狼は、きっとその魔犬ガリアを基にしたものだと思います。
狼は家族単位で行動することはあっても、決して群れで行動する動物ではないのですが、ここに登場する「狼」は、群れで行動していますので、多分、狼ではなく「山犬」というのか野犬を改造した類のものなのでしょう。
それから、もう一つ文句があるとすれば、このエピソードに限ったことではないのですが、チベットやヒマラヤの現地の人々のネーミングとか風俗といった生活文化の描き方がとてもいい加減だということでしょうか。
20年も前のお子さま向けにそこまでのことを要求するのは酷なことなのかもしれませんが、今放送中の最新シリーズでは、この辺りのこともちゃんと気をつけて描いてほしいですよね。
・・・とまあ、こき下ろすのはこのぐらいにして。
このエピソードの見所は、赤ん坊に変身したグレートを、村人の赤ん坊の中に紛れ込ませた張大人の中国四千年の知恵と、いつもは冷静沈着なピュンマが「奴隷」という言葉に強烈に反発して熱くなる、というところでしょうか。
新ゼロのスタッフの良いところは、こういう各キャラの個性をしっかり把握してくれているところですよね(^-^)
それからまあ、蛇足ではありますが、ラスト近くで、フランソワーズがナイフを投げつけられた村人の女性を庇って怪我をするところなのですが。
手術が終わった後、ジョーをはじめみんなが喜び勇んで手術室に駆け込んで行きましたが。
もしかして、その時のフランソワーズってヌードだったんじゃないでしょうか???
・・・フッ、ジョーってやっぱりムッツリスケベだったのね(笑)
七月がとても好きな詩の中に、高村光太郎の「ぼろぼろな駝鳥」という詩があります。
何が楽しくて駝鳥を飼ふのだ。
動物園の四坪半のぬかるみの中では、
脚が大きすぎるぢやないか。
頸があんまり長すぎるぢやないか。
雪の降る国にこれでは羽がぼろぼろ過ぎるぢやないか。
腹がへるから堅パンも食ふだらうが、
駝鳥の眼は遠くばかり見てゐるぢやないか。
身も世もない様に燃えてゐるぢやないか。
瑠璃色の風が今にも吹いて来るのを待ちかまへてゐるぢやないか。
あの小さな素朴な頭が無辺大の夢で逆まいてゐるぢやないか。
これはもう駝鳥ぢやないぢやないか。
人間よ、
もう止せ、こんな事は。(高村光太郎『高村光太郎詩集』新潮文庫より引用 仮名遣いは原文ママ)
このエピソードは、SHOTARO WORLDの23巻で初めて読んだお話ですが、最初に読んだ時、この詩が頭に浮かびました。
高村光太郎は、東北に縁の深い人ですから、石ノ森先生がこのエピソードを描かれた時、この詩を念頭に置いて描かれたのかもしれません。
本来なら、アフリカの大草原の中で、自然の摂理に従って生活しているはずの多くの野生動物たちを狭いオリの中に閉じ込め、栄養バランスはとれていても、合成添加物漬けの味気ない餌を食べて生活している動物たちを、私たちは呑気に見ていますが、よくよく考えてみると、動物園の動物たちというのは、皆死んだような眼をしているんですよね。
自らが望んだわけではなく、周囲の見栄やエゴによって強制された受験勉強に明け暮れる生活の中で、精神を消耗してしまった少年が、そんな動物たちに己の姿を見いだすのは、無理もない話なのかもしれません。
結局、少年によって檻から解き放たれたライオンは銃殺されてしまうのですが。
イワンのテレパシーによってライオンは、故郷の草原を疾走する幻影を見せたのではあるのですが。
最後には人間のエゴが優先されてしまうのですね。
悔しいけど、悲しいけど、それが現実なのですね。
本当に久々のテキストページ更新です。
イワンが主人公のエピソードには、必然的にフランソワーズが絡んでくるんで、好きなお話が多いのですが、このエピソードもその一つです。
そういえば先日、アメリカで七ツ子が誕生したというニュースがありましたが、七ツ子がほとんど全員未熟児ではあるものの、一人も欠けることなく誕生できるまでに、医学は進歩したんだなあ、と感銘を受けました。
その一方で、医療ミスが後を絶たないことを考えると、たとえ技術や知識は進歩しても、その分だけどこか後退する部分ができてくる、つまり人間というものは決して「永遠の命」、すなわち「理想」には到達することができないのかもしれませんね。
でも、だからといって「理想に近づく努力」を最初から放棄していい理由にはならないと思うのですが。
そんなことはともかくとして、このエピソードが描かれた当初はあまり知られていなかったことなのかもしれませんが、胎児の脳が人間として、ほとんど完成状態に近いということがイワンの言動を通して描かれています。
七月は、大学時代、発達心理学や保育原理といった教職課程の必須科目を通じてこのことを学んだのですが、この時、このエピソードを思い出しました。
誰の言葉だったかは忘れましたが、教育学者だったか、心理学者だったかの言葉に「個体発生は系統発生を繰り返す」という言葉があります。
大学時代に学んださまざまな授業で、七月は、受精卵が胎児となり、母胎から分娩されるまでの過程はもちろんのこと、新生児が乳児となり、幼児となり、やがては大人へと成長していく過程は、ほとんどそのまま、地球上の生物が進化していく過程と同じである、ということに気づかされました。
もちろん、世の中のほとんどのお母さん方は、このことを「身をもって」体験しているはずなのですが。
多くの方々はそのことをいつの間にか忘れてしまっているようですね。
もし、そのことをよく理解していれば、「早期教育」というものがいかに無意味なことであるのか、すぐにわかるはずなんですが。
イワンは、お母さんの心理状態を赤ちゃんは敏感に感じ取る、といってましたが、これってさらっと読み過ごしてしまいがちですが、本当に大切なことなのです。
赤ちゃんほど敏感ではありませんが、子どもというのはみんなそうなのです。
だから、小さなお子さまをお持ちのお母様方は、ご自身のお子さまが不安に陥らないように、精一杯の愛情を注いであげてください。
もちろん、「愛情」と「甘やかし」はまったく別個のものです。
でも、「厳しさ」と「親の身勝手」も混同されてしまっているように感じることも多いです。
たとえば、個人的な話で申し訳ないのですが、七月は、幼い頃、ほとんど両親の愛情を受けずに育ちました。
弟たちと年が近かったせいで、母親が弟の世話にかかりきりだったこと、それから父親が仕事人間であったこと、父方の祖母と同居していたことから、母親と祖母の嫁姑の確執の狭間に置かれていたことなど、いろいろな理由があります。
でも、最も大きかったのは、母親が勝手に「この子は聞き分けがいい子だから、放っておいても大丈夫」と思い込んで、七月に目を向けることを怠っていたことでした。
そのことのせいにするわけではありませんが、七月がこの時から抱えていた、両親への不信感は未だに消えることがありません。
両親は、七月が成人してから、娘が自分たちをまったく信頼していないどころか、敵意さえ抱いていることに気づきました。
それで今になって慌てていろいろと埋め合わせをしようとしていますが、長年の間に蓄積されてしまった不信感が消えることはありません。
ですから皆様、手遅れにならないうちに、親子の信頼関係を築くようにしてください。
そういうことを含めて、このエピソードは子どもを持つ人はもちろんですが、これから親になろうという方すべてに読んでいただきたいですね。
現在、石森プロを中心に、アニメの新シリーズの制作が進行中、とのことですが、まだ正式な発表がまだのようなので、待ち遠しいです。
七月の個人的な考えを述べさせていただくと、今回は、「原作」のストーリーを忠実に再現する、ということですので、楽しみにしている一方で、「オリジナルストーリーでいくと、古いファンの反発が大きいだろうということは予想がつくけれど、原作を再現する、というのもかなり難しいことなんだろうなあ」などということも思ったりしています。
実写映画だろうと、アニメだろうと、また原作が小説でもコミックでも、映像化する場合、本当に原作のファンを納得させるものを作るのは、大変なのだろうなあ、と、いろいろな映画やアニメを見てつくづく思います。
基本的に、「原作」を超えたものだけが、ファンを納得させることができるのだろうと思うのですが、「一体、どういうものが原作を超えたといえるのか」ということが漠然としていてつかみ所がない以上、よくわからないです。
七月が知ってる限りでは、「原作」を超えたアニメ作品と呼べるものは、「銀河英雄伝説」と「宇宙戦艦ヤマト」シリーズぐらいなんじゃないかと思います。
009にしても、石ノ森先生ご自身が『THE 石ノ森章太郎 PART2』の中で「満足した作品はない」と述べられているくらいですし、最も水準が高いといわれるモノクロアニメ版でさえ原作を超えているとはいえないんじゃないかな、と思います。
七月の個人的な意見を言わせていただくと、ストーリーが一番面白いのは、全部を見たわけではないですが、やはりモノクロアニメ版だと思いますが、ジョーのキャラクターの描かれ方が原作に一番近いのは、どうも「超銀」なんじゃないかな、と思います。
ファンの多くの方が「超銀」のジョーは生意気だ、とおっしゃっておられるようなのですが、七月が思うに、「新ゼロ」と比較するからそう見えるのであって、モノクロ版、それから初期の劇場版2作のジョーというのは、「超銀」のジョー以上にリーダーとしての性格を前面に押し出して描かれていて、原作でのあの繊細さは随分影を潜めているような印象を受けます(それこそ、「ガッチャマン」の大鷲の健をほうふつとさせるような・・・という印象を受けるのですが・・・)。
まあ、その中庸を行くのが「超銀」のジョーかな・・・なんて思っています。
その他のキャラクターに関しては、フランソワーズは例外として、「新ゼロ」と「超銀」(作画は大きく異なりますが)では、性格的な描かれ方は、それほど原作とは違わないんじゃないかと思いますので、新作もこれを踏襲されるんじゃないかと思います。
フランソワーズは、「超銀」の方がビジュアル的には美しいんじゃないかと思うのですが、性格的な描かれ方は、「新ゼロ」の方が原作に近いんじゃないかな、と思っています。
アニメではそのシリーズでもあんまり目立ちませんが、原作ではジョーも戦闘中にグレートや張々湖と軽口叩きあってるようなところがありますし、フランソワーズも、それを見てクスッと微笑んでるようなところもありますので、今度のアニメでは、今までよりもこの二人がラフな姿を見せても良いんじゃないかな・・・と、個人的に思っています(・・・ということは、七月や皆さんが書いてるジョーやフランソワーズに近くなる・・・ということなのか???)。
「超銀」の作監だった山口泰弘氏は、フランソワーズがかなりお気に入りだったのか、それとも女性を描くのがお得意だったのか、どちらなのかはよくわかりませんが、七月は新ゼロの芦田豊雄氏よりも山口氏の絵柄の方が好きです(芦田ファンの皆様、すみません;;; 金山明博氏といい、荒木伸吾氏といい、村瀬修功氏といい、線が柔らかくて瞳が綺麗な絵が、七月は好きですので・・・)
まあ、そんなことはともかくとして。
今度のアニメにしても過去のアニメ作品にしても、基本的には「サイボーグ009」という作品を愛している方が作られる、ということには違いないと思います(もしかして、このことについてあんまり考えていらっしゃらない方もいらっしゃるのかもしれませんが、これって重要なことなんですよ!)ので、七月は楽しみに待っています(^^)。
えー。
前にも書いたと思うんですが、七月は「ヨミ編」よりもこっちの方が好きです。
まあ、画面に書き込みが少なくて、明るい、というのもありますが、やっぱりヘレナの存在が大きいんでしょうね。
ジョーと敵として出会いながら、彼の優しさに触れ、瀕死の重傷を負ったジョーを助けようとして仲間を裏切ってしまう。
そして、最後にはジョーの命を救おうと、弟のアトラスを道連れに、海に身を投げてしまうのですが、ここに至までの彼女の心の動きが微妙に描かれていて、とても素敵なストーリーだと思います。
ヘレナのジョーに対する気持ちは、あまりにも儚すぎて、恋と呼べるほどには育たなかったかもしれないけれど、ジョーの心の中には永遠に美しい思い出として生き続けているのではないでしょうか。
だからこそ、「怪獣戦争」のヒロインとなって蘇り、今も多くのファンに愛され続けているのだと思います。
フランソワーズのファンの中にも、彼女が好きな人は決して少なくないのではないでしょうか?
確かに、このエピソードは、「ヨミ編」に比べると絵柄もストーリーも荒削りですが、そこがかえっていいんじゃないか、と七月は思います。
それから、やっぱりこの話の良いところは、ゼロゼロナンバーの生死がわからない、というラストになっているところでしょうか。
「ヨミ編」のラストは、確かに美しいのですが、犠牲になるのがジョーとジェットだけ、というのがどうも納得できないのです。
やっぱりゼロゼロナンバーは「死ぬ時は九人一緒」でいて欲しい。
そう思うのです。
このコーナーで取り上げたエピソードはほとんどが原作後期のものばかりですが、七月は決して原作前期のエピソードが嫌いなわけではありません。
009はごく一部のアニメのエピソード(それも2、3作だけですが)以外はどれも大好きです。
ただ、それぞれのエピソードをどこで区切っていいのかわからないのと、あと、おちゃらけられるエピソードがほとんどないので、あまり取り上げることがありません。
でも、ジョーの活躍だけが突出している前期よりも、後期のエピソードの方が、他のゼロゼロナンバーが魅力的に描かれてるんじゃないかなあ、とは思います。
平井和正先生が小学館文庫の解説で、「009以外のメンバーがなおざりにされている」と指摘されておられましたが、石ノ森先生は、後期ではそこを補われたんじゃないか、と七月は愚考いたしております。
かのエラリー・クイーンの作品に、『Xの悲劇』というのがありますが、それはこのエピソードと全く無関係です(←わかってていうな!)。
そんなアホなことはともかくとして。
えー、ストーリーをかいつまんで説明すると、世界のVIPたちが「麻薬X」(センスのないネーミングだなあ、などというツッコミはやめましょうね)に心身を蝕まれ、ゼロゼロナンバーたちがその根源を突き止めようとしたら、フランソワーズの親友で、世界的なプリンシパルでもある大久保ミナの父親がその元締めだったんだねー、ということになるのですが。
麻薬Xの製造工場に仕掛けられた戦闘蜂やら、麻薬を運ぶサイボーグ蜂などを見ていて、「これって、設備にすんごいお金使ってるよなー」と思いました。
・・・ということは。
ヤクの値段も相当高い、ということなのでしょう。
成分自体は、恐らくヘロインとか覚醒剤とかLSDとか、ごくありきたりなものをベースにしたものなんでしょう(中毒者の症状から察するに、『狼の怨歌』(By平井和正先生)に出てくるナルコティック8000みたいに一発で人を廃人にするほど超強力な麻薬ではないらしい)が、きっと「サイボーグ蜂による宅配システムによって、所持してることがサツにバレて摘発されるよーなことはありません」とかいうシステム自体が売りになってるんでしょう。
確かに、不法滞在の外国人とか、暴力団とかいった入手ルートだと、怪しすぎて、いつ足がつくかわかりませんもんねえ。
社会的地位とか名声とかを気にする面々にとっては、この「絶対に秘密はバレません」というシステムが受けたのでしょうねえ。
大久保パパって、さすが財閥の総帥だけあって、すごい商才の持ち主だわ、と、妙なところで感心してしまいました。
この着想と実行力なら、NHKの「プロジェクトX」に登場される方々に、決してひけはとりません。
・・・そう。
その着想を麻薬の密売じゃなくて、もっと違う方向に活用していれば良かったんですけどね。
(ふう・・・久々に七月らしいコラムが書けたわ・・・)
先日、父上の代理でとある福祉関係のシンポジウムに出席したのですが、その時、ふと「そういやあ、009に障害者に関するエピソードってあったっけ」と考えました。
一口に障害者といっても、身体障害者や知的障害者など、いろんな種類の障害があるのですが、デリケートな問題ですので、石ノ森先生も扱いにくかったのでしょうか、原作を読み返したら、このエピソードと暗殺者編の0013のエピソードの二編だけでした。
最近、テレビで『五体不満足』の著者の乙武匡彦さんが出演されていますが、彼が身体に障害を抱えているにもかかわらず、明るく快活に生きている姿に感銘を受ける人は多いと思います。
が、その一方で、「彼を見ていると、障害者は皆、前向きに生きなくてはいけないかのような印象を受けて不愉快だ」と批判する人がいたりして、七月は「別にそういうわけではないだろうというのに、残念だなあ」と思います。
そういうことを偉そうにいう人は、本当に障害を持つ人と実際に接したことがあるのだろうか、と七月は思います。
大学1年生の時の夏休み。
七月は、自分よりも1つ年上で、手が不自由な方とお話することがあったのですが、その方は短大の家政科に通っているということを聞かされて、七月は驚きました。
文学部なら、手が思うように動かなくても、友達の協力でなんとかフォローできるかもしれないですが、家政科の場合、いろいろ実習があるので、より大変なのではないか。
そう思ったのですが、七月以上に熱心に勉強し、大学生活をエンジョイされていることが話を通じて伝わってきて、大変感銘を受けたのでした。
こういう方々を見ていると、やはり、確かに、目に見えないところでいろいろと御苦労されているのだと思うのですが、周囲の方々との間にしっかりとした信頼関係があり、彼らの理解と協力が、本人を物心両面で支えているんだなあ、ということがわかります。
また、「ビューティフルライフ」や「星の金貨」などのドラマを見て、「身体障害者はみんながみんな、美しい心の持ち主だとは限らない」などと、心無いことをいう人もいますが、そういう心無い人の差別や偏見などで人一倍心を傷つけられ、また、その一方で、暖かい心を持った人の親切に触れたりすることが多いからこそ、こうした方々は、おのずから人一倍、他人を思いやれるようになるのではないかと七月は思います。
話が本題から外れてしまったので元に戻しますが、このエピソードは、視覚障害者の息子を持った父親の愛情、そしてその父親に厳しく育てられたために父を憎んでいた少年が、父親の愛情に気づき、初めて感謝する、という過程が描かれています。
ごく短いエピソードなので、それほど深く突っ込んだことは描かれてはいませんが、このエピソードに登場する少年の父親は、どんなに自分が厳しく息子に当っても、いつかはそれが息子への愛情故のものであることを理解してくれる時が来ることを信じていたのだろうな、と思います。
もしかすると、息子に自分に対する不信感が根強く残ってしまうかもしれない、という気持ちも少しはあったのでしょうが、それだけ自分の愛情やら信念に自信を持っていたのでしょうし、また、自分が男手一つで育てた息子が、障害に負けない、強さと本物の人の思い遣りや愛情を理解できる素直な心を持った少年に成長したと信頼していたんだと思います。
ごく短い、ささやかなエピソードではありますが、そういう風に、じっくりと丁寧に読んでみると、「親子の絆とは何か」、「信頼とは何か」ということに気づかされます。
最近、このページが真面目だったので、久々におちゃらけようと思ったのですが、もうおちゃらけられるネタエピソードがあんまりない!!!
てなワケで、文庫本やらSWを読み返してネタ探ししてる今日この頃です。
えーこのエピソードですが、ストーリーは、「中米の秘境に探検に行って、事件に巻き込まれた」とといういつものパターンなので、特に七月が突っ込む書くことはありません。
まあ、ジェロニモがここに登場する女性のエイリアンの恋人に瓜二つだということなので、「おおっ、ジェロニモにもとうとう春がきたのね!」と、一瞬、期待しかけたことだけ明記しておきましょう。(・・・って、別にわざわざ「明記する」ほどのことでもないですが・・・)
ところで、このストーリーでは、メンバーが野宿するシーンがあるのですが、ここでフランソワーズはしっかりジョーの隣で添い寝してます。まあ、二人とも防護服着たまま、というのが残念なのですが・・・(←って、他のメンバーもいるから仕方がないことなんですが・・・もし二人きりだったら・・・どうだったんでしょうねえ・・・)
ところで、このエピソードの冒頭で、フランソワーズがバレエのレッスンで忙しいので、ギルモア博士が「ここのところ、ジョーのインスタント料理ばかりで飽きていた」というところがありましたが。
ジョーのインスタント料理って一体、どんなメニューなんでしょうねえ(・・・ってこれはやっぱり「ばらの騎士」で検討するべきなんでしょうねえ・・・)
このエピソードはアニメのオリジナルストーリーですから、原作の正規のストーリーではないのですが、ジョーが少年院に入った理由、それからジョーの父親に対する思いなどにそれなりの見解が示されていて、なかなか興味深いです。
まず、ジョーが少年院に入った理由なのですが、不良に絡まれた友人・ジロー(なぜかキカイダーの主人公と同じ名前・・・)を助けようとしたら、はずみで相手の一人を死なせちゃった、というありがちなパターンですな。
でも、恐らく彼の生い立ちとか性格を考えるとその辺りが妥当だと思うんですが、彼が少年院に入る前は相当荒れてただろう、ということを考えると、「窃盗」という線もおおいにありうると思います(現行の少年法では、反省の度合いが重視されるそうですから、「殺人も万引きも下手をすると同じ処分」ということがおおいにありうるんだそうです)。
そう。『SFロマン』の初恋のガールフレンドがひき逃げされちゃって仇を討とうとした、というのではない!と七月は思います(←かなり私情入ってます)。
それから、父親に対してですが、ジョーにとって母親は確かに恋しい存在なんですが、だからといって純粋に慕う気持ちだけではないと思います。「アステカ編」でもジョー自身がフランソワーズに吐露しているように、自分は母親から望まれて生まれてきたのだろうか、・・・もしかして望まれない子どもだったのかもしれない、という不安を常に抱えている訳ですし、必ずしも母親が心から愛しあって結ばれた男性との間に生まれたとは限らない、という思いが絶えずつきまとっているわけです。
たとえ弄ばれたといっても、母親が愛した男性との子どもならまだいいのですが、
たとえばレイプされて身ごもった、という可能性もあるわけです。
てなわけで、原作ではジョーが自分の父親に対して抱いている思いやイメージはありません。
どちらかといえば、彼はエディプス・コンプレックスの傾向があるようですから、きっと彼の中の「父親」のイメージというのは、自分を苦しめた諸悪の根源、とでもいいますか、「憎悪の対象」というものだったんじゃないかと思います。
それと同時に、彼の母親が亡くなっている、ということは確かなわけですし、彼にとって父親というのは「唯一、生存の可能性がある肉親」でもあるわけです。
だから「肉親」というものに飢えている彼としては、やっぱりどこかに慕いたくなる気持ちも存在する、ということなのでしょう。
このエピソードでの体験を通じて、彼は「父親に出会える可能性」というのを見い出すことになるのですが。
全話のストーリーの流れをよーくよく観察してみると。
このエピソードがどうもジョーの気持ちがフランソワーズに傾いていくきっかけになってるんじゃないか、という見方もできるのではないか、と七月は思います。
ここでジョーは身勝手といえるほどのスタンド・プレーをして(あ、でも「裏切りの砂漠」とか「美しく生きよ 愛しき王女」でもそうか)、仲間たちから責められますが、その時、ただ一人彼を庇ったのがフランソワーズですし、しかも、彼が自分の父親かもしれない人物がネオ・ブラック・ゴーストの一員かもしれず、しかも親友のジローを殺した人物かもしれない、ということでかなり精神状態が不安定になっていた時に彼を心配して気遣ったのも彼女でした。
この話以降、ジョーと他の女性との絡みのエピソードはなくなりましたし、「明日鳴れ 愛の鐘」や「大森林からの脱出」というようなエピソードが続いていくわけですからね。
そういうことなどを考えていくと、この話って、かなり重要なエピソードなのかもしれませんね。
ここに出てくる山田葉子というベビーシッターさんと同様、粗忽者の七月は、仕事で失敗して落ち込んだりしている時にこのエピソードを読んだりすると、はげまされます。
イワンが主人公のエピソードには、こういう人間の心の問題を扱ったものが多くて、石ノ森先生の晩年の代表作「HOTEL」をほうふつとさせます。
もしかして、先生が長い漫画家人生でたどり着いた「本当に書きたいもの」というのは、「人間の心」なのではないかと思います。
手塚先生の「火の鳥」や「ブッダ」、「アドルフに告ぐ」などは、医師が人間の体を解剖するように、人間の心の善なる部分、悪なる部分、美しいところ、醜いところなどすべてにメスを入れて解剖しているような印象を受けるのですが(手塚先生はお医者様ですからねえ)、石ノ森先生の「HOTEL」などを読むと、何だか心暖まるというのか、山本周五郎をほうふつとさせるようなところがありますね(そういう辺り、確かに、平井先生の作品と石ノ森先生の作品の世界の根本的なところは同質であるように思われます)。
確かに、「009」の原作初期は、先生が若い頃に描かれたこともあって、主義主張もストレートですし、画面も活気があって、「わかりやすい面白さ」がありました。絵も後期に比べると荒削りな印象を受けますが、あの素朴さがいい、という方もいらっしゃるでしょうし。
でも、後期は後期で、何度も何度も繰り返し読み返したくなるような奥の深さ、そしてひとコマひとコマ、隅々まで先生の心やさしさ、暖かさが染み渡っているような感じがして、七月はとても好きです。
絵も、「時空間漂流民編」あたりになると随分崩れているなあ、との印象を受けますが、「少年サンデーコミックス」の時期はとても丁寧に描き込まれていて、とても綺麗です。
まあ、七月が原作後期から入ったから、後期の作品に対する愛着が強いんだろうとは思いますが、熱烈な原作初期支持者の方には、ご自分たちが「ヨミ編」までのストーリーを愛しているのと同様に、後期の作品群を愛している人もいること、そしてその人たちの9人のキャラクターたちに対する愛情や石ノ森先生に対する敬愛の念はご自分たちと全く変わりがない、ということをどうか理解していただきたいと思います。
これは、あくまでも七月くららの個人的な見解なのですが、例えば「超銀」のようにファンをバカにしてるのではないかと思うくらいずさんなストーリーのエピソードでも、ものすごく好きなシーンがあるかと思えば、どんなによくできたストーリーで、「名作」と呼ばれるエピソードでも、気に入らないところもある、というのは仕方がないと思います。
まあ、原作の石ノ森先生ご自身は一つ一つの作品に魂を込めて描かれたんでしょうから、好きなところも気に入らないところも、全部ひっくるめて受け入れようじゃないか、というのが七月のスタンスです。
従って、アニメに関しても「美しく生きよ!愛しき王女」のように「これは許せない」と思うものであっても、「これも009には違いないんだから」と思っています。
てなわけで、名作中の名作と呼ばれるこの「ヨミ編」なのですが、七月にはどうしても気に入らないところがあります。
それは、あのヘレンというキャラクターなのですが。
彼女さえいなければ、七月はこれは本当に素晴しい作品なのになあ、と思っています。
「ミュートス・サイボーグ編」に登場するヘレナは、とても魅力的なキャラクターでした。
ジョーと闘って負けたこと、そして「女の子は女らしくした方がいいよ」というジョーの言葉がきっかけで、彼にほのかな恋心を抱くようになって、遂には仲間を裏切ることになり、最後にはジョーの命を救うために弟のアトラスと抱き合って、海に飛び込んでしまう・・・。
フランソワーズの恋敵の中では唯一、七月が「許せる」と思うキャラクターです。
怪獣戦争のヘレナも、ヘレンとかぶるところはありますが、基本的にはヘレナがベースになってるんじゃないかな、と思います。
がしかし。
ヘレンは、何考えてるのか全くわからないし(まあ、記憶喪失だから仕方がないといえばそうなんですが)、00ナンバーたちに何か貢献するわけでもない。
その上、やたらジョーに親切にされて、フランソワーズを不愉快にさせる。
で、何よりも許せないのは、ジョーがラスト近くで魔神像の中でスカルに首締められてた時、真っ先に思い浮かべたのがフランソワーズではなくヘレンだったことです!!!
同じ顔でも妹のビーナはすごく生き生きしていて、とてもチャーミングだったのに・・・。
最後にジョーが魔神像の中のメカをめちゃくちゃに破壊するシーンなんかは、とっても、彼の悔しさが伝わって来たし、00ナンバーと黒い幽霊団との死闘にザッタンが絡んできて、三つ巴の争いになる展開とかがとても面白くていい作品なのですが・・・。
それから、七月は009がこのエピソードで終わってなくて本当に良かったと思います。
あのラストは、確かに感動的なのですが、もし七月が当時の読者なら絶対に「ジョーとジェットを生き返らせて!」と訴えていたと思います。
もし、あそこで終わっていたら、本当に救いがありませんもの。
そうなっていたら、七月は「フランダースの犬」の最終回と同様に、ヨミ編が収録された単行本をどっか永久に目に入りそうにないところに置いて封印していたことでしょう。
あの後に二人が助かってストーリーが続いているからこそ、安心して読むことができるのだと、七月は思っています。
現に、多くの読者が「ジョーとジェットに死んでほしくない」と思ったし、何よりも石ノ森先生が「続きを描きたい」と思わなければ、後のストーリーは生まれなかったのではないのでしょうか。
それに、「移民編」とか「海底ピラミッド編」、そして人間の心の深層を描いた「ベビー・ポピンズ編」とか「誘拐編」、00ナンバーの絆の深さを描いた「見えない糸編」や「サイボーグ戦士誰がために戦う」のような素晴しい作品がたくさんあります。
そういうことを考えると「『ヨミ編』で終わるべき」なんていうのはどうかと思うのですが・・・。
まあ、人の価値観は十人十色、物事の感じ方や捉え方は人それぞれで、どれが正しいかなんて、誰にも決めることはできませんから、七月は人の考え方や感じ方にまで言及しようとは思いませんが。
「プリ花」独立後、初のテキスト更新になります。
親の「気まぐれ草子」だけはマメに更新してることを考えると、いかにここのテキストページがいかにおろそかにされているということがよくわかりますね```。
そんな前置きはともかくとして。
「プリ花」来訪者の皆さんに「一番好きなエピソードは?」と、アンケートとったら、きっとこのエピソードがベスト3に入ることでしょう。
何しろ、ジョーとフランソワーズの数少ないキスシーンが見られるわけですから。
(厳密にいうと、ジョーが恋人と離ればなれになる宇宙の彼方のとある青年とシンクロするわけであって、実際にフランソワーズとキスしてるわけではないのですが)
イワンにマインド・コントロールされて、滋賀県の貴生川の里へ旅に出たジョーが、そこで幼い頃の自分の母親に出会う、というのがコアのストーリーなのですが。
イワンに過去認知能力がある、ということは、イワンにはジョーの両親の顔も名前も全部わかってる、ということなんでしょう。
多分、イワンの能力なら、それを視覚的イメージでジョーに伝えることも可能なんでしょうが、それを敢えてしないのは、きっとそれがジョーにとって決して幸せなことではない、と思っているからなんでしょうね(←ホントにこいつ、赤ん坊かよ)
そんなことはともかくして。
ジョーがシンクロした宇宙人氏のセリフですが、あれって本当はジョーの潜在意識がいわせてるんじゃないかというくらい、彼らしいです。
特に最後の「キミはボクの恋人であり 母であり……故郷と同じなんだから…!!」というセリフは、「ジョーってばフランソワーズのことそんな風に思ってたのね」と、思わず納得してしまったくらいですから・・・。
それに、フランちゃんの受け答えも、だだっ子をなだめる母親のようで、いかにも彼女らしい・・・。
関係ないことですが、このエピソードって何となく「鎧伝サムライトルーパー」のCDの「光輪伝」のストーリーに何となく似てます。
・・・まあ、あの話で征士が出会った女の子は征士の母親の少女時代ではなく、幼年時代の征士自身だった、というオチなのですが。(最後で征士は「幼女趣味ではなかったのだな」といって安心してますが、自分が女装させられてたことも覚えてないとは・・・。いや、もしかして彼にとっては「思い出したくないので封印していた過去」なのかもしれないな)
表の「気まぐれ草子」は結構マメに更新してるのですが、長いこと「プリ花」のテキストページが止ったままでした。
この新ゼロのこのエピソードは、LD買って初めて見たのですが、(昔見たことがあったとしても、よく覚えていない・・・;)確かに、おいしいエピソードでした。
ジョーとフランソワーズが二人きりで旅行に出かけたら、たまたまNBGの謀略に巻き込まれてしまって、難儀する、という原作では使い古されたパターンですが、敵の策にはまってしまったフランソワーズが、ジョーを撃つ羽目になる、というのがこのエピソード最大の見どころですな。
加速装置があるから、普通はジョーがフランソワーズに撃たれたところで、当たるはずもないのですが。
加速装置を事前に故障させてしまうところが芸が細かい!
また、「わたしはあなたを裏切ったのよ!」と自分を責めまくるフランソワーズが健気で、「裏切りの砂漠」のマユミとは好対照です。
彼女なら「加速装置が故障してたのが悪かったのよ!」とかいって責任転嫁しそーな気がする(←偏見)。
が、今回のフランソワーズは、することなすことすべてが裏目に出てしまいます。
(誰にでもそーゆー時期はあるものです。・・・きっと「めざましテレビ」の「今日の占いカウントダウン」で最下位だったのね)
落ち込んでるところへジョーがサイバードッグに襲われてしまうし。
いつもフランソワーズに心配やら迷惑をかけてばかりいるジョーですが、この時ばかりは「怪我が直るまで『裸エプロン』で看病する」ことを要求してもいいんじゃないかと、「ローエングリン」に書き込みましたが。
よーくよく考えてみると、そもそも、フランソワーズ一人を残して救護隊を呼びにいったジョーが悪い。
そんな訳で、「裸エプロン」は看護婦さんのコスプレに格下げします(笑)
最後のナレーションで「燃えるような愛の確認だった」とありましたが、そんなシーンあったっけ?と、七月も思います。(本来はお子様向けアニメだったんだから、濡れ場がなかったのは仕方がないとしても、せめてキスぐらいはさせてもバチがあたらないんでは・・・)
そーいや「ボルテスV」の「ジャングルの追跡」も健一=ジョー、一平=フランソワーズに置き換えて見れば、なかなか興深いです(笑)
・・・ところで、このエピソードのジョーとフランソワーズはやたら仲睦まじいですが、ここまでの間に何があったんだろう・・・。
(怪しいのはやはり「明日鳴れ 愛の鐘」でホテルでフランソワーズがジョーの胸にすがりついて泣いていたシーンの後でしょう)
珍しくフランソワーズのバレリーナらしい姿が見られるエピソードです。
とにかく、このエピソードのフランソワーズは巨乳。
出るとこは出て締まるとこは締まってる、超ナイスバディ!!!!
Rちゃんのママさんがいつか「ローエングリン」にカキコされてましたが、バレエのパ・トゥ・ドゥの場面では見ていてエッチだなあと思われるシーンがよくあるそうです。
・・・ということは、フランソワーズの相手役を務める男性はあのナイスバディに触り放題!ということですね。
ジョーくんは嫉妬しないんでしょうか?
まあ、フランソワーズが相手役の森山公一と息が合わない、といって悩んでた時に彼は「ヘタなのかい?」といってましたが。
素人のクセになんて失礼なことを!
まあ、その後にギルモア博士が森山氏のことを「女性的な性格」といってた時に「芸術家というのは繊細だから」とフォローしてましたが、これは同病相哀れむというヤツでしょう。
ステージで時限爆弾が爆発した時、ジョーは例によってフランソワーズをお姫さま抱っこして救出しましたが。
加速していたというのに、二人ともよく服がボロボロにならなかったなあ。
実は七月が初めて買った原作コミックはこのエピソードが収録された少年サンデーコミックスの11巻でした。
まあ、それぞれ石ノ森先生らしいメッセージ性の高いエピソードなので、じっくり詳しくやりたいのですが、そういう余裕もないので、簡単にざっと気になるところだけ触れていきます。
まず、2ケ所ほど気に入らない箇所があります。
以前にローエングリンでも書きましたが、ジョーとフランソワーズがそれぞれ別の相手とキスするのですが、本当にこれが夢で良かった。
特に、フランソワーズの相手がカエルの姿をした王子さま・・・とはいうものの、とんでもないブ男でしかもドスケベ!
ずうずうしくもフランソワーズに2度目のキスまで要求するとは・・・。
本当に許せーん!!!!
で、ジョーなのですが。
彼のエピソードには心の中を読み取って「会いたい」と思ってる相手に変身する不定形生物が登場するのですが、彼女(多分女)が最初に変身したのがジョーのお母さん(・・・でも、本人は顔も名前も知らないので、多分ジョーが思い描いている理想のお母さんのイメージなんでしょう)で、その次がフランソワーズ。
まあ、この順番は納得できます。
その後、お母さんらしき女性がまた現れて、ヘレナ、タマラと続きますが、ヘレナはともかく、タマラは超銀宣伝キャンペーンのためのおまけでしょう。
ジョーってばいつも一緒にいるのに、夢でまでフランソワーズに会いたがってるのね(笑)
でも、それならやっぱりフランソワーズの姿をした相手とキスして欲しかったわ。
ところで、このエピソードの各々の章の扉絵はみんなステキなのですが、特にフランソワーズのは絶品です!
いつもにも増して魅惑的なうるうるおめめに、半開きの唇が色っぽーい!!!
あの瞳に見つめられたら、ジョーでなくてもメロメロになっちゃうでしょう。
原作、旧作アニメ、劇場版、新ゼロ、超銀、と、いろんなフランソワーズがいますが、七月はやっぱり原作の「少年サンデー」連載期のそこはかとない色気を漂わせたフランソワーズがお気に入りです(ジョーもやっぱりこの時期のかなあ・・・)
このエピソードが描かれたのは今から20年前。
当時の日本も麻薬の氾濫が問題になっていたようですが、今に比べるとかわいいもんだったんだろうなあ、と思ってしまいました。
NHK番記者時代、渋谷のセンター街には毎日のように行ってたのですが、あそこで偽造テレカパラパラさせてる外国人が、バイニンだと知ってショックを受けました。
七月は渋谷駅地下の旭屋書店に行く時に彼らの傍を通りかかったことがあったのですが、客と間違えられかけたことがありましたから。
がしかし。
これでアヘンからモルヒネ、モルヒネからヘロインが精製される過程がよくわかったような気がします。
そういえばひなげし(ポピー)は「史記」によると項羽の寵姫だった虞美人が自害した跡に咲いた花だったと伝えられてますし(だから虞美人草とも呼ばれるのだそうですが)、与謝野晶子の短歌にも歌われているのですが、ケシの方は麻薬の素になるということで、栽培することすら禁じられているそうです。
悪いのは悪用する人間の方であって、花には何の罪もないですのにね。
・・・ところで、このエピソードでギルモア博士は最初、留守にしていたのですが。
ジョーが張々湖のところへ行ったということよりも。
七月は研究所へ帰るコールした時のジョーがフランソワーズと夫婦のよーな会話をしてたのが気になります。
まあ、二人は相思相愛の仲だし、ほとんど同棲してるよーな状態だから無理もないのですが。
その前にやるべきことがあるんじゃないかい、ジョーくん?
だいたい、フランソワーズの処女膜破る権利は君にしかないんだぞ(・・・あくまでもフランソワーズがサイボーグに改造される前にロストバージンしてなければ、ということを前提にした話ですが)。
シリーズの中で唯一、フランソワーズが貞操の危機に陥る、というストーリーです。
まあ、このエピソードでネオ・ブラック・ゴーストに誘拐された女性たちはいずれもミス・ユニバースとかミス・インターナショナルクラスのかなりハイレベルの美女ばかりだったわけですから、彼女が誘拐されたのも納得はできるわけですが。
で、美女たちはいずれも視床下部に受信器を埋め込まれて性本能を刺激されていたそうなのですが、その時点でなぜ、フランソワーズがサイボーグだと気づかれなかったのかが疑問です。
そんなことは置いとくとして、フランソワーズはネオ・ブラック・ゴーズト団員のスケベ男に押し倒された時、頭を打って正気に戻ったので、難を逃れることができた訳ですが。
でも、あの格好に着替えさせられたということは、誘拐されてパラライザーで眠らされている間に脱がされていたということか(改造された時も全裸で手術台に乗せられてたから、ブラック・ゴーストに拉致されて剥かれたのはこれで2度目、ということになりますね)。
正気に戻ったフランソワーズが「いやん、これでお嫁に行けない体になっちゃったわ」と思うよーなことはなかったとは思いますが(ジョーがもらってくれますからね)、「あのジャケット高かったのに」とか「あのTシャツお気に入りだったのにどうしてくれるのよ」というようなことを考えた可能性は大いにあると思います。
で、あの美女たちはさしずめNBG団員専用ランパブ嬢といったところでしたから、彼女たちのコスチュームはいずれもオーガンジーのようなスケスケ素材だっただろうと考えると(もちろん、下着を付けてないことは明白ですが)、ラストでジョーがフランソワーズを仲間たちから隔離したのもよくわかります。
・・・が、しかし。
そんなエッチな格好をした恋人が傍にいて、ジョーはちゃんと操縦できたのだろうか、などと余計な心配をしてしまいました。
最近、「ローエングリン」でこのエピソードのことが話題になりましたが、七月のお気に入りのエピソードの一つです。
まあ、このエピソードで原作のイワンがいかに可愛げのない赤ん坊かということがよくわかります(まあ、ギルモア博士とタメ口きく赤ん坊ですからねえ・・・; 顔もそうだけど、こういうあたり、パタリロにそっくり・・・まあ、性格まで似なくて良かったけど)
まあ、ラストのところで「今度目を覚ましたらギュウという目に・・・」とフランソワーズがいってるのを聞いて、慌ててタヌキ寝入りするところはかわいいですが。
ジョーとフランソワーズが「近頃の若い夫婦はなっとらん!」と、おまわりさんに叱られたのも、元はといえばイワンが悪いんですから(紫音さんがおっしゃるとおり、おまわりさんに謝ってた二人はかわいかった。
また、イワンが行方不明になってる間、公園で「わたしが買い物になんか連れて行かなければ・・・」といって泣いてるフランソワーズを「イワンのことだからきっと大丈夫だよ```」と、必死でフォローするジョーの努力を、張々湖が余計なひとことでブチ壊しにしてしまうところもナイスです(笑)
冒頭部分のフランソワーズとギルモア博士の電話でのかけあい漫才(?)も笑えました。
石ノ森先生が死のまぎわまで気にかけられていたという最終エピソード。
先生のご長男の小野寺丈さんが近い将来小説の形で発表されるということですが、ファンの中にもいろいろ、予想していらっしゃる方がおられるようです。
七月の思う理想のラストは、「眠れる森の美女」でも書いた通り、「リュウの道」のラストシーンなのですが。
まあ、「移民編」などのことを考えると、確実に言えることは「フランソワーズは絶対に生き残る」ということでしょうか。
でないと、二人の子孫は存在しないことになりますからねえ。
で、ジョーはというと、生き残れるのか、そうでないかよくわかりません。
彼には何としても生き残ってもらいたい、というのがファンとしての正直な気持ちなのですが、フランワソワーズが彼の子どもを宿しているんであれば、彼が生き残る必然性はないわけです。
だから、ジョーたちが生死不明になって、後に残されたフランソワーズが彼らの生還を信じながらジョーの忘れ形見とともに生きて行く、という結末も充分あり得ます。
そういえば、リレー小説でレオンさんが「フランソワーズの身体は妊娠・出産に耐えられるのか?」という疑問を投げかけておられましたが、それは七月も考えていたことでした。
フランソワーズの改造度にもよりますが、普通の女性でも、出産で命を落とすこともあるし、身体に機械を埋め込まれた不自然な身体である彼女にとって、妊娠、そして出産が大変な負担をかけるのではないか、ということは充分考えられます。
たとえば、出産ひとつをとっても、自然分娩は可能なのか、帝王切開をせざるを得ないのではないか、という疑問がつきまといますし。
でも、彼女のことだから、たとえ自分の命と引き替えにすることになっても子どもを産むんでしょうね。
それだからこそ、彼女は多くの女性ファンから愛されるのだと思います。
もし、フランソワーズが先に死んだら、ジョーはどうするのか。
きっと彼女の後を追うことになるんだろうなあ、というのは島村さんの「勝手に最終回」を引用するまでもなく、誰もが思っていることでしょう。
「超銀」でジョーは「僕に生きる力を与えてくれたのは君だった」といってますが、まさしくその通りなんじゃないでしょうか。
ジョーはタマラが死んでも、「ヨミ編」のヘレンが死んだ時も、決して涙を見せませんでしたが、「未来都市編」で時限爆弾を仕掛けられたフランソワーズのクローンロボットが爆発した時、フランソワーズが死んだと思い込んだジョーは惜しむことなく涙を流しました。
「時空間漂流民編」で平行世界のフランソワーズを撃った時もしかり。
・・・てなことを考えると、フランソワーズが遺した子が女の子だった場合、彼はその子の成長を楽しみに生き延びるのかもしれませんが、グリム童話の「千匹皮」みたいに、実の娘に男としての愛情を感じる(といってもあくまでもフランソワーズの身代わりなんでしょうが)、ということもありそうです。
・・・アマチュア小説家としては、そういう展開も面白いかな、とおもうのですが。
来訪者の方々はきっと七月がこのエピソードについて語る日を心待ちにしていたことでしょう。
ふっ。
実は七月自身が書きたくて仕方がなかったのだよ(笑)。
このエピソードについて知ったのは高校2年の時のこと。
大阪梅田の東映会館のアニメポリス「ペロ」で買った「超銀」の豪華本の作品紹介の中で「ジョーとフランソワーズのベッドシーンが登場し、ファンの間で論議を呼んだ」という一文を見つけた七月は、思わず「見たい!」と思い、このエピソードが収録されているという朝日ソノラマの『サイボーグ009とその世界』を求めて、梅田のカッパ横町やら知っている古本屋をしらみつぶしに探し回りました。
このことは早速、学校の友人たちにも報告。
「え〜! あの二人ってプラトニックじゃなかったの!?」
と驚きつつ、「見たいよお〜!」と地団駄踏んでました(類友・・・;;)
七月が探し求めていたこのエピソードに巡り合えたのは社会人になってから。
秋田書店の豪華本の最終巻でのことでした。
その後、文庫本、件の『サイボーグ009とその世界』、SW12巻と、都合四冊の本が七月の手許にあるのですが・・・(^^;)
そんなことはともかくとして。
こんなストーリーがあってないようなエピソードのストーリーについて語るのは愚か以外の何者でもないので、省略します。
七月が一番印象に残ったのは、「その3」のピュンマの悲恋のお話です。
サイボーグであったばっかりに、恋人に自殺されてしまったという彼の悲痛さに、七月は思わずうるうるしてしまいました(i
i)
同じサイボーグだというのに、ジョーはフランソワーズに子どもを産ませることができるというのに、彼にはそれができない。
これって不公平ですよね(怒)
ジェットなどは「ラッキー!」といわんばかりに遊びまくってそうですが・・・。
でも、このエピソードでサイボーグでもHできるということが明らかになりました。
そんなくだらないことは置いといて、この章の最後で「肉体なんて血と肉でできていようがプラスチックと鉄でできていようが同じなんだ! ・・・精神の入れモノに過ぎない!」というハインリヒの言葉が重いです。
さて、問題のシーンですが。
「時間的経過を逆に描く」という石ノ森先生の斬新な手法には脱帽です。
後半のイワンのセリフも人間の心の本質をズバリ突いていて、素晴らしい!
パタリロもどきのイワンじゃないので可愛げに欠けますが・・・(^^;)
と、前置きが長くなりましたが、いよいよ本題に入ります。
まあ、地味というのかカットが小さいというのか、「ジョーが貧弱な日本人体型だ」とか「フランソワーズの下着に色気がない」とかいろいろと不満はありますが、ああいうシーンが全くないよりはいい!
でも。
二人同時に脱いでいくというシチュエーションは悪くはないのですが、やっぱり「初めての時ぐらいジョーが脱がせるべきだろう」と思います(笑)
それでなくてもフランソワーズにあんな大胆なセリフをいわせてるんですから。
しかし。
二人きりで旅行に行くほどの仲(それも明日香・・・。そういや、人間と建物の高さがアンバランスなカットがありましたな)だというのにまだ何もなかったとは・・・。
そういえば、このエピソードのフランソワーズってすごいハト胸ですよね;;。
レオンさんからのリクエストで、SW版20巻を読み返し、何か目新しい発見はないものかと探してみましたが、やっぱりこのエピソードってつまらない。
劣等感が失敗の最大の原因、と石ノ森先生がおっしゃりたいことはわかりますけどね、という感じです。
同じテーマだと、「ベビー・ポピンズ」の方が面白かったな、というのが七月の正直な感想です。
レオンさんも指摘されてましたが、フランソワーズが友人の女の子にビンタすることがどうして反射神経や精神を鍛えることにつながるのか、それが謎です。
それに、肝心の鍛える相手が納得ずくで、「そんな特訓がそもそも成り立つのだろうか?」という疑問もあります。
んなわけで、このエピソードはフランソワーズを中心に据えて見ない方が無難です。
フランソワーズが中心のエピソードとはいえ、ジョーの視点で描かれてますから、彼を中心に見た方が良いでしょう。
はっきりいってこのエピソードのジョーはおせっかい、としかいいようがありません。
女の友情に男が介入するとろくなことがないんだよ。
ジョーはフランソワーズが人が変わったようになってしまって、夜も眠れないほど悩んでたみたいですが、それってやっぱり「自分も同じようにフランソワーズから見捨てられるかもしれない」っていう恐れのようなものなのでしょうか。
まあ、ギルモア博士はフランソワーズの意図を正確に理解してたみたいですけどね(さすが年の功)。
このエピソードを読んだ時は、「果たしてコンピューターが人間(っていってもサイボーグだけど)に恋するなんてことがあり得るのか!?」と思ってましたが、あれから13年。
「どこでもいっしょ」や「アイボ」なんかを見ると、あと100年ぐらいしたらそれも可能なんだろうな、と思います。
・・・てこたあ、自分に恋させるようにプログラミングしたら、自分の理想通りの代理恋人なんかも実現可能になるわけですね。
ということは、レオ様そっくりでキルヒアイスのように忠実に付き従ってくれるアンドロイドの代理恋人を侍らせるのも可能になるわけです。
・・・まあ、そんな都合のいい男なんて最初は楽しいだろうけど、どうせ3日で飽きるでしょう。そもそもそんなのってなんか虚しくないか!?
それに、人工体外受精で子孫は増やせるわけですから、そんなのが一般に普及したりしたら、男性の存在意義自体がなくなってしまう。
う〜ん、日本の男尊女卑社会ってものに七月はかなり反発を感じてはいますが、それはそれでかなり歪んでるんじゃないか、と思います。
何ごとも自然なのが一番。・・・それが神様の思し召しってものでしょう。
話が妙な方向に脱線しましたが、このエピソードをつらつら見ていると、ふと、そんなことを考えてしまいます。
・・・そういや手塚先生が、名作『火の鳥』の中で不定形生物やアンドロイドを代理恋人または代理妻にする未来人男性の姿を描いていらっしゃいました。
そんなことはさておき、本題に入ります。
このエピソードの要点を集約すると、「フランソワーズに横恋慕したコンピューターがジョーに嫌がらせをする」の一言に尽きます。
ジョーもとんだ災難でしたなあ(笑)
結局、フランソワーズが断固とした意志でコンピューター「スフィンクス」を退け、めでたしめでたし。
ラストのところで、「スフィンクス」がジョーとフランソワーズのクローンを作る、というカットがありましたが、七月はこれを「この未来都市のアダムとイヴを作ってるのね」と、単純に考えてましたが、どうなんでしょうねえ。
(七月の高校時代の某友人は「スフィンクス」がこのクローンを使ってお医者さんごっこするんじゃないか、なんていってましたが・・・)
・・・ところで、グレート氏たちに冷やかされたジョーとフランソワーズが「ボクたちは別に・・・」と照れてましたが、七月にいわせると「何を今さら」ってところですかな。
「眠れる森の美女」と違って、このページではジョーをこきおろしてばっかりのような気がする(これも愛故のことなのよ、と弁解)ので、この辺でハインリヒが主人公のエピソードを。
何とも、ロマンチックなタイトルです。
レーバー・ブリュームヘン・シンフォニーと、ドイツ語のルビがふってあるところがまた心憎い。
ハインリヒが主人公、とはいっても、出て来るのはほんのちょびっとで、孤独な音楽家と気立ての優しい少女の心の交流がストーリーのコアになってます。
ここでは、ハインリヒがかつて音楽を志す少年であったことが判明します。
そんな彼が、ヒルダとどうして出会い、また東側から亡命を決意するようになるのか、いろいろと想像を働かせてみたくなります。
最後にハインリヒが恩師の遺作のピアノ曲を弾くシーンがありますが、いつもクールな彼が、実は音楽を愛する男だった、という意外性が感じられて、とても良いです。
ハインリヒがピアノを弾くとしたら・・・ショパンやモーツアルト、シューベルトやメンデルスゾーンよりも、やっぱりベートーベンかブラームスがふさわしいでしょうねえ。
七月としては、ぜひハインリヒが弾くベートーベンの「月光」が聴きたいです!
新作アニメ版で、最も評判が悪いのは、このエピソードではないでしょうか。
ここに出て来るマユミという女性は、とにかくひどい女です。
過去にジョーと付き合っていた、というのは仕方がないから多めにみるとしても、現在の恋人を守るためにジョーを利用するとは。
「明るくて美しい彼女に僕も好意を持っていた」というジョーのモノローグには、おいおい、レーサーになったのはサイボーグになってからだろう、フランソワーズのことはどうした、と、突っ込みを入れたくなります。
旧作と原作の設定が大幅に違うので、何とか辻褄を合わせようとしたんでしょうが。
どうせなら、「ヨミ編」に出てくるメリーみたいに、孤児院の仲間にしとけば良かったのに。
で、このマユミです。
前述のモノローグでは、美人だとジョーはいってますが、はっきりいってフランソワーズの方がはるかに上です(そういやジェットがニューヨークに里帰りしたエピソードで出てきたナタリーという昔の恋人も、マユミに似てました。ひどい女は容姿も似るらしい)。
七月にとって救いだったのは、「美しく生きよ、愛しき王女」のように、フランソワーズがやきもちをやかなかったことでしょうか。
不安な気持ちを押し隠して、懸命にジョーに尽くす彼女は美しい。
あんまりにもけなげなので、つい、うるうるきてしまいました。
無償の愛っていうのは、少なくとも自分を犠牲にしてでも相手に尽くすことであって、他人の好意につけ込んだり、利用したりすることではないと思う。
どうしてそのことに気がつけへんのや、ボケえっ! と、ジョーに蹴り入れたくなったのは、七月だけではあるまい。
そう、確かにマユミはひどい女だけど、そんな彼女の口車にのせられるジョーも方も悪いのよっ!
秋田書店サンデーコミックにして全3巻、秋田文庫&豪華版、メディアファクトリーSW版にして上下巻、という大長編です。
ストーリーとしては、よくわかったような、わからなかったような・・・この出だしでこの結末? という感じで納得できないところがあるものの、結構楽しめる内容です。
のっけからフランソワーズがビキニ姿で登場。
ギルモア研究所近くの海岸で、ジョーと海水浴を楽しんでたら、海の底でやたら巨大なサヤエンドウを発見した、というのが事の発端です。
地球人類の進化の謎について、石ノ森先生なりの推理を展開されている、というのがストーリーのコアとなっているんじゃないかな、と思います。
このストーリーは前編と後編に分かれてるんですが、後編ははっきりいって面白くない!
「時空間漂流民編」もそうですが、なんか、前半に飛ばし過ぎて後半で力尽きた、との印象を受けました。
どっちかってーと、後編に収録されている石ノ森先生の制作秘話「サンジェルマン伯爵」の方が面白かったです。
で、前編ですが、サイボーグ戦士たちが正体不明の敵と戦う、というお約束のストーリーなので、敢えてここでネタばらしはしません(どーせここに来られる方は、とっくに御存じでしょうし)。
で、このエピソードの見どころですが、七月的には2つあります。
ひとつは、ジョーとフランソワーズがこれでもかというくらい、ラブラブなところでしょうか。
ジャングルを二人で偵察するシーンで、フランソワーズを囮にして、敵を誘い出そうということになるんですが、この時、「大丈夫か?」と、心配するジョーに、フランソワーズは「何いってんのよ、アタシだって003なんだから」と答えます。
この時、ニッと笑うジョーの横顔はとってもラブリーです。
で、その後に「こんな密林で葉音ひとつ立てないで移動するなんて・・・やっぱりすごいわ、ジョー」なんていう、フランソワーズのおノロケが続きます。
あとそれから、一時立ち寄った無人島で二人寄り添って満月を眺める、というシーンもあり、このページの読者の方々には「たまらんのう」(By高島政伸)という感じです。
で、もう一つの見どころはというと、前編と後編にまたがるところぐらいでメイムという人魚(実は改造人間)が出てくるのですが、彼女がハインリヒに惚れてしまうところです。
ここでグレートやジェットに散々冷やかされ、照れるハインリヒがかわいい。
いやあ、ハインリヒも結構もてますねえ(^^)。
海に関わるシーンが多いせいか、いつもは影が薄いピュンマ氏が結構活躍してます(その代わり、ジェロニモの出番が減った)。
009には、古代文明や神話をモチーフにしたエピソードが多い、というのはよく知られたことなのですが、これもその一つです。
かの「ツタンカーメンの呪い」の真相について、石ノ森先生はこんな風に推理されてるんだな、ということがわかって興味深いです。
で、フランソワーズが見た夢が、その真相を解き明かす鍵となりました。
フランソワーズが夢の中でツタンカーメンの王妃・アンケセナーメンになったのはいいとして、夫であるツタンカーメンがジョーだったのは、何となくわかるけど、やっぱりおかしい(笑)。
まあ、ジョーに「アタシがアンケセナーメンになって夫のアナタに ウフッ、いえ、ツタンカーメン花束を捧げるユメ」と、いって説明するフランソワーズが乙女チックでかわいかったからいいか。
それにしても、この話といい、「星祭りの夜編」といい、ジョーもフランソワーズも夢の中ではラブラブなんだなあ。
このエピソードは、一言でいうと、ジョーの加速装置のスイッチが切れなくなってしまい、加速したまま周囲の人たちとは違う時間をすごすことになる、というエピソードです。
なにせ、フランソワーズがちょっとまばたきする間だけでも、ジョーにとっては10日ぐらいに感じる、というのですから。
加速装置がどんなにすごい装置なのか、このエピソードで改めて実感しました。
で、孤独に陥ったジョーはひたすらヘコむわけです。
トルーパーの遼もジョーに負けず劣らずよくヘコみますが、「なぜなんだあっ!」と、ひたすら大騒ぎしまくる遼に比べ、ジョーのヘコみ方は物を壊すわけじゃないし、ひたすら一人でイジイジしているだけなので、周りには迷惑はかかりません(ただし、うっとおしいには違いないですが)。
だいたい、いつもヘコんでる時に慰めてくれるフランソワーズが、時間の向こう側にいるわけですからね。
で、ジョーはフランソワーズがまばたきして目を閉じちゃっただけで、何だかこの世の終わりが来たんではないか、というほど落ち込んでしまいます。
しかも、「もう2度とキミの優しい微笑みを見ることができないのか」とか、「風にそよぐ亜麻色の髪に触れることも、唇が開いてボクの名を呼ぶ声を聞くことも」とか、ここぞとばかりキザなセリフを連発します。
だったら、他の女に言い寄られて鼻の下伸ばすんじゃねえ、というツッコミは置いとくとして、その間のジョーの食事はどうしてたんだろう、とか、やっぱりちゃんと寝て、風呂に入って、歯磨きしてたんだろうか、とか些細なことばっかり気になりました。
加速装置が元に戻った時、ジョーはうれしさのあまり、まずフランソワーズを抱き上げてはしゃいでましたが(事情を知らないフランソワーズからは「おどかさないでよ」と非難されましたが)、妙に軽々と抱き上げていたのは、やはりサイボーグだからでしょうねえ(まるで大人が赤ちゃんを「高い高い」するみたいに)。
この話は、フランソワーズが主役の話です。
テレパシストである故の悩みから、自殺を図った青年・ユウジを、フランソワーズとジェロニモが助けたのは良かったが、ネオ・ブラック・ゴーストの手先の超能力者に心を操られた彼は、フランソワーズを刺してしまい、NBGの手先を道連れに、海へ飛び込む、というストーリーです。
で、このユウジという青年が、ちょっとジョー(もしくは石ノ森先生の「ジュン」の主人公)に似た繊細なタイプの美青年で、彼を懸命に励まそうとしたフランソワーズが彼に迫られる、という一幕があります。
危うく抱き締められそうになったところで、フランソワーズが「いけない」と、彼を拒絶したのですが。
ユウジに刺された時、フランソワーズは思わず、ジョーの名を呼ぶのですが、こういうところを見ると、やっぱり彼女はジョーのことを誰よりも愛してるんだなって思っちゃいます。
その直後、慌てて駆けつけるジョーの思いつめた表情からも、「二人は強い愛情で結ばれてるんだな」ということが感じられて、ジョー&フランソワーズファンにとっては至福のエピソードの一つです。
このエピソードでもジェロニモがさりげなく活躍しますが、ラストの方のコマでフランソワーズを肩に担いでるところは、なんとなく「キングコング」を思い出してしまった(^_^;)
これは、新ゼロの中で七月が「2度と見たくない」と思っているエピソードです。
日本を訪れた某国の王女がお忍びで街を出歩き、ジョーとつかの間のアバンチュールを楽しむ、という、『ローマの休日』の亜流のエピソードです。
この手のエピソードは、どこのマンガやアニメでもありがちなエピソードですし、七月も大学時代、トルーパーのパロディ小説で書いたことがありますし。(この小説は、大学卒業時に処分した筈ですが)
確かに、キャサリン王女は美人だし、ジョーが美女といいムードになるのもこれが初めてじゃないのですが・・・。
七月が2度と見る気がしないのは、やっぱり、フランソワーズが王女に焼きもちを妬いて、グレートに八つ当たりするからでしょうか。
でも、こんな状況で平然としていられるフランソワーズっていうのも、気持ち悪いような気がします。
・・・つまるところ、ジョーが優柔不断なのが諸悪の根源だということでしょうか。
そういや、七月は映画館で「超銀」を見た時、タマラとフランソワーズが鉢合わせするシーンでジェットが「心配してたことが本当になったぜ」といった時、「私も!」と、声を大にしていってしまった(^^;;)。はっはっは、若気の至りというもんですな(なんせ、20年も前の話だ)。
ちなみに「ローマの休日」は七月のお気に入りの映画の一つなのですが、弟に言わせると、「いい映画やねんけど、姉ちゃんに付き合わされて何回も見たから飽きた」のだそうです。
でも、どっちかっていうとヴィヴィアン・リーの「哀愁」とかチャップリンの「ライムライト」の方が好きなんですけどねえ。
ところで、「移民編」で一ケ所、気になるシーンがあったのを思い出しました。
「そんな顔はやめて、笑ってごらん、アルヌール。さっきの張さんじゃないけど、君の笑顔はグッとすてきなんだ」という、ジョーの歯の浮くようなセリフのあと、ギルモア研究所のコマの隅にジョーとフランソワーズらしきシルエットがありますが、七月には、この二人がキスしてるように見えます。
もし、そうなんだったらいいんですが(ジョーとフランソワーズのキスシーンって、「神々との戦い編」と「星祭りの夜編」の2回にしか出て来ない。・・・しかも、どっちも幻影の世界のことだし)。もし、本当にキスしてるのなら、これが唯一、二人が本当にキスしてるシーンになるのですが。
このページを見返してみると、どうも原作に偏ってるような気がしますので、この辺でアニメを取り上げようと思います。
まあ、この映画は七月が009にハマるきっかけとなったものです。子どもの頃はあんまりストーリーのことは気にせずにただひたすら、絵の美しさの感動していたのですが、大人になってから改めて見直した感想は、「あんたら、一体宇宙までわざわざ何しに行ったんや」というものでした。
放って置いてもゾアは滅んだわけですし、タマラも結局救うことができなかった。
最後にハインリヒが生き返ったのは、石ノ森先生曰く「00ナンバーたちは俳優として出演してる」という理由があったから仕方がないとしても、せめてゾアだけは自力で倒して欲しかったと思います。
そんな訳で、この映画はビデオにダビングして持ってますが、美しい作画を楽しむため、と割り切って、お気に入りのシーンだけを見るようにしてます。
新ゼロ、つまりテレビ版とこの映画とどちらの絵がいいと思うかは、それぞれ個人の趣味ですので何ともいえませんが、七月の個人的な意見を述べさせていただくと、凛々しいジョーも素敵だし、フランソワーズがしっとりとした大人のムードを漂わせる美女になっているのが嬉しい。物語の要所要所で見せる表情がとっても印象的です。
特に、ゾアを追ってボルテックスに乗り込もうとするジョーと、しばらくの間見つめあうフランソワーズの表情の美しさは、感動モノです。
あとは、ボルテックスから戻ってきて、力尽きて倒れたジョーが微笑みを浮べるのを見て、思わず涙を浮べるところでしょうか。
また、ラストのところで「どうしてタマラを助けなかったの?」とジョーに訊ねるシーンでの表情の変化も印象深いです。「わからない」というジョーの答えに、困惑したような、微妙な表情は、複雑な彼女の心がよく現れていて、とてもいいな、と思いました。そのせいか、後で「君と一緒にフランスに行くか」とジョーにいわれて、初めて見せた彼女の嬉しそうな表情がとても際立ちます。
ところで、前半のジョーの回想シーンで、フランソワーズがジョーを「いくじなしッ!」といってひっぱたくシーンが出てきますが、これを見たほとんどの人が「ハイジ」を思い出したんでしょうねえ(これを一緒に見た七月の友人には大ウケでした)。
この映画でのフランソワーズに一点、不満を挙げるとすると、「乳が足りない」ことでしょうか。巨乳好みの七月としては、せめて原作くらいグラマーにしてほしかったのですが・・・。
009とは全く無関係な話なんですが、『キン肉マン2世』をとある友人にすすめた時、「テリーマンが鍬持ってる」といったら、「チェックが細かい」といわれてしまいました。
「テリーマンが鍬持ってる」のと同じくらい、些細なことなんですが、このエピソードでとっても気になるカットがあります。
それは・・・第1章目の始めの方のコマなんですが、なんとフランソワーズがババシャツ着てるのであります!
ババシャツ姿を描かれた美少女キャラなんて、もしかしたら彼女が最初で最後かも。
別にババシャツが悪いとはいいません。
七月だって大学時代から愛用してますし、冷えは女性の大敵ですもんね(といってる七月自身がすでにオバサンモードだ)。
まあ、ジョーに見せるわけじゃないんだから、フランソワーズがババシャツ着てたとしても不思議ではないのですが・・・。
そういや、ギルモア研究所にいた時の彼女って、どういう下着を着てたんでしょうか(この時はジョーに下着姿を見られるようなこともあったんじゃないかと思うのですが)。
彼女の場合、黒とか赤とか紫とかいったセクシー系のより、白とかピンクが似合いそうですよね。
そいうえば、その章の終わりの方で着てたベストの柄もあんまりセンス良くなかった。
しょーもない話はこの辺でお開きにしますが、このエピソードは前項で取り上げた「移民編」の続編です(ファンの方々には今さら説明するまでもありませんが)。
ストーリーは、まあ、何の脈絡もないといえばそれまでなんですが、七月的にはまあ、いいんじゃないか、と思ってます。(ジョーがなぜ雑誌記者なの? という疑問が残りますが)
そんなことよりも、最終章の絵柄が雑なのが気になります。
まあ、石ノ森先生も『HOTEL』やら『日本経済入門』やら他のお仕事で忙しかったんだなあ、と思ってしまいました。
そういや石ノ森先生と平井先生って同い年だったんだそうですね。
平井先生は「トラ年生まれ」だと『バチ・ガミ』に描いてあったけど、ということは石ノ森先生もそうだったということか。
ところで、このエピソードでは、ジョーとフランソワーズの子孫さんも死体となった姿で再登場します。
彼が穏健派のボスだったというのは、さすがジョーとフランソワーズのDNAを受け継いでるだけあるなあ、と感じさせてくれました。が、とうとう彼の名前も分からずじまいでした。
主人公の子孫の割に扱いが悪いなあ。
七月がこの話を初めて読んだのは、高校2年の時のことでした。
核戦争の影響で動植物が凶悪化し、人類が滅亡の危機にさらされるというストーリーがあまりにも生々しくて、ショックを受けました。
その後、同じ石ノ森氏の「リュウの道」、手塚治虫氏の「火の鳥」や平井和正氏の『狼よ故郷を見よ』などで似たようなモチーフを見ましたが、これらの作品を通して、こういうことは単なる絵空事ではなくて、実際に今後起こりうること、いや、現実に起こりつつあるのではないかという危機感を覚えました。
あれから12年、その危機感は更に現実味を増しつつあります。
石ノ森氏が示唆していたのは核戦争というほんの一例だけですが、現実には、環境汚染や地球の温暖化、生態系の破壊など、人類の存在を脅かしかねないさまざまな要因が存在します。
それだからこそ、未来人たちの訴えは現代に生きる我々の胸に強く響くのだと思います。
・・・と、ここまではシリアスなのですが(なんだかNHKスペシャルの「世紀を越えて」みたいな語り口になっちゃったなあ)、このエピソードに関して、一つだけ、しょーもない疑問があります。
未来人の司令官は、ジョーとフランソワーズの遠い子孫なのだそうですが(だからといって、必ずしもジョーとフランソワーズの間に生まれた子どもの子孫であるとは限らないので、安心はできない)、フランソワーズが子どもが産める身体なのだとしたら、毎月、アレが来るのでしょうか。
周りが男ばっかりという環境の中でそれは、「ちょっとキツいんでないかい?」と思うのですが・・・(トイレに三角コーナーは必要だし、替えのナプキンも常時用意しなきゃいけないし)。
と、いうことはジョーも生殖能力があるということか。
ピュンマは「神々との闘い編」で生殖能力がないようなことを言ってましたが、これも個人差があるんでしょうか?
だとしたら、とっても不公平だと思うんですけど(怒)。
このことについては、今度「神々との闘い編」を取り上げる時に触れることにします。
・・・それにしても、七月ってどうもシリアスに徹しきれない(T T)。
これも、「イシュタルの竜編」と同様、古代文明が下敷きになったエピソードです。
世界各地で原因不明の事件が相次いで起こり、それを00ナンバーたちが究明するという、お約束のストーリーですが、これはネオ・ブラック・ゴーストが出て来ることは出て来るんですが、ストーリーにおいてさほど重要性はありません。
それどころか、手玉に取られてたようなところさえあって、かえって愉快です。
強い思念波でまずイワンが自分でヒューズを飛ばしてしまい、ギルモア博士やジョーやハインリヒ、ジェットといった主戦力がマインド・コントロールされるという状況のなかで、最後まで冷静だったジェロニモはえらい!(フランソワーズはほとんどパニクってたし)。
このエピソードでも、ピュンマ氏が相変わらず存在感ないのが残念。
エピソードの冒頭でマインド・コントロールされ、フランソワーズを殴った上にジェロニモと取っ組み合いをしてしまったジョーがヘコんでいるシーンがあります。
ヘコんでしまってるジョーをお約束通りフランソワーズが慰めてるところへ、ジェロニモが異変を知らせに来るんですが、「ジャマする 悪い」と、ひとことことわるところがカワイイ。
でも、このエピソードでの情けないジョーの姿を見て、母性本能を刺激されるファンはきっと多いんだろうなあ・・・。
七月のお気に入りのエピソードを挙げるとすると、これは、多分ベスト3の中に入るんじゃないかな、というエピソードです。
このエピソードは、ジェットが主役なのですが、そういえば、ハインリヒに比べると、彼に主役が巡ってくるっていうのは少ないような気がします。
しかも、彼一人しか出て来ないサイドストーリーじゃなくて、ちゃんと他のメンバーも出てくるし、戦闘シーンもある。
石ノ森御大ウリ二のお医者さんがいってるように、まるで仮面ライダーの怪人みたいなサソリ人間やら空を飛ぶ牛とか、奇妙な動物が出てきたりするのですが、見どころはジェットとイシュタルのロマンスでしょう、やっぱり。
イシュタルは、七月的には009に出て来る女性キャラのなかでも、ピカ一の美少女だと思います。しかも、ほとんどトップレスに近いHなコスチュームだ。
後半で、エンキドゥに撃たれてつんのめるシーンで、あのスタイルがシースルーな上に片乳丸出し状態だったことが判明しますが、バストトップはお下げで隠していたらしい(ジョーやハインリヒなんかだったら、目のやり場に困りそうだ)。
まあ、そんなセミヌードの美少女に「ワタシは星空の中でそなたに抱かれた時、心がふるえました」(セリフだけ引用すると、誤解を招きそうだなあ)なんて迫られたら、ジェットも骨抜きになるしかないでしょう(笑)。
そういや、ジェットは「時空間漂流民編」の「ゾンビ都市」の章で、隣に住んでるFBI捜査官のおネエちゃんをベッドに連れ込んでましたが、こんなことができるのも、00ナンバーの野郎どもの中では彼だけなんでしょうね。
これも、彼がニューヨーカーだからということでしょうか(しかも、もとはウエストサイドの不良グループのリーダーだ)。
このシーンを見て七月は、思わずアダルトウルフガイシリーズの犬神明を思い出してしまったぞ(七月はヒライストでもあるのだ)。
話が脱線してしまいましたので、元に戻しましょう(^_^;)。
で、「イシュタルの竜編」ですが、星空の中で抱き合ってキスするという、ジェットとイシュタルのラブシーンは美しいの一言に尽きます(これは、イシュタルに催眠術をかけられたジェットが見た夢の話ですが)。
00ナンバーたちのロマンスのエピソードは、アニメ、原作とも多くありますが、この話が一番、ドラマチックなんじゃないかな。
最後に悲しい結末が待っていると、二人ともわかってるから情熱的に燃え上がる、っていう感じですね。ジェットとイシュタルが置かれた立場も、「ロミオとジュリエット」をほうふつとさせるところがありますし。
まあ、ハインリヒだとヒルダのこととか、機械の身体のこととがいろいろ引っかかりがあって、ジェットみたいに情熱の赴くままに任せる、ということはできないでしょうし(それが彼のいいところでもあるんですけどね)。
ジェットには、このほか、「愛の氷河編」で不治の病に冒された美女とのロマンスもありますが、彼が一番強く惹かれたのは、やっぱりイシュタルなんじゃないかと、七月は思いたいです。
先日、新宿の某レンタルビデオショップにて、とうとうこのビデオを借りてきました。
これまで、借りる機会がなかったわけではないんだけど、物心つく前から新版アニメや少年サンデーコミックスの絵柄になれ親しんできた身としては、白い戦闘服に赤いマフラーというコスチュームや、片目が隠れてないジョーに抵抗があって、なかなか見る気になれませんでした。
でも、ネットを始めてから009関連のサイトを見るうちに、このエピソードに出て来るヘレナが名サブキャラだったということを知り、やっと「見てみようか」という気になりました。
何より決定的だったのは、ヘレナの声が、かの市原悦子様だと知ったことでしょうか。
市原様といえば、「家○婦は見た!」とか「まんが日本○ばなし」のナレーターというイメージが強烈すぎるので、「一体、どんなんやろう」という恐いもの見たさみたいな感じがありました。
だがしかし、見終わった後、七月は己の愚かさを嫌というほど思い知りました。
あの繊細なルックスもさることながら、ヘレナの魅力は、多分、この方の声の演技によるものが多いんだろうなあ、とつくづく思いました。さすがは、当代随一の演技力を誇る大女優だけありますねえ。セリフ棒読み状態のフランソワーズが画面に花を添えるだけの飾り人形と化しているのに引き換え、ヘレナは妙に存在感がありました。
よく考えてみれば、この映画が公開されたのは恐らく七月が生まれる前のこと。
今では、家政婦のおばさんやら「オバさん○事 桜乙女」なんていう役をやってる市原様ですが、当時は七月の年の分以上に若かったはず(今は53の七月の母親も、まだ20そこそこだったんですから)。
だから、ヘレナのようなヒロインをやってても、何の不思議もないのですが、やっぱり「○政婦〜」での、ドアの隙間から覗き見してるあの姿と「まあ、きれいなキッチン」という、「オ○さん刑事」でも共通のセリフが頭の中でフラッシュするのでした(Duetやヤンロン茶のCMでも可)。
ところで、七月は去年、NHKの水曜夜にやってた「ふたりでタンゴを」の取材で御本人を目の当たりにしました(しかもスーさん・三國連太郎氏付きで)。
あのまんまの感じの方でしたが、あの迫真の演技はさすがです。
今度は中村玉緒あたりと「愛されるオバさん」コンビで何かドラマやってほしいなあ。
玉緒も「すずらん」の取材でお目にかかりましたが、あのまんまです。
「すずらん」でやってた食堂のおかみさんは、バラエティの時とはまるで別人だったけど、結構好きでした。特に、お亡くなりになる回は涙なしには見られませんでした。
・・・気が付いたら、全然関係ない方向へ脱線してしまいました(-_-;)。
ああ、しょっぱなからこうだと、先が思いやられる(T_T)。