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ご好評頂いてる「眠れる森の美女」に引き続き、こちらのコーナーではジョーほか、男性陣を他のアニメやマンガの男性キャラと比較対象させていきたいと思います。
ジョーの性格は、原作の初期と後期、アニメでもモノクロ版・新ゼロ・超銀・平成版、とそれぞれ違うように感じますが、まあ、一般的な「島村ジョー」のイメージとして認識されているのが原作の後期、或いは新ゼロだと仮定すると、ジョーの性格に一番近いアニメキャラといえるのが、カミーユなのではないでしょうか。
それに対して原作初期及びモノクロ版のジョーは大鷲の健、そして平成版のジョーはエヴァの碇シンジくんに近いような気がします。
こうして考えると、ジョーの性格の解釈にも時代が反映されているのかもしれませんね。
まあ、ジョーとカミーユに共通しているのは、女性に対して非常に甘いところと基本的に戦うことが嫌いなところ、そして、自分が嫌いなところというのか、なにがしかのコンプレックスを抱いていることでしょうか。
ジョーの場合のコンプレックスは、自分が私生児であったこと、そして混血であったことがもとになっているのですが、カミーユの場合は本人も認めている通り「女みたいな名前」ということにあります。
その反動でジョーの場合は非行に走り、カミーユは空手を習ったり自分でモビルスーツを作ったり、という行動に走ったわけですが。
まあ、戦うことや恋を通してありのままの自分を受け入れるようになっていく、というその過程も似ているように思われます。
「眠れる森の美女」で指摘した通り、カミーユのガールフレンドのファもフランソワーズに似ているところが多いのですが、ただ、カミーユとファの場合、幼なじみという気安さのせいか、お互いに遠慮なく自分の感情をぶつけ合いますし、いいたいことをポンポン言い合ってます。
エマさんがこの二人の口げんかを「レクリエーション」だといってますが、まあ、けんかするほど仲がいいっていうことでしょうかね(笑)
カミーユの場合、ジョー以上に惚れっぽいというのか、エマさんやらレコアさんやら(この二人の場合はマザコンの気が見られますが)、フォウやらロザミアやらサラやら、出会う女性に片っ端から恋心を抱いてるような気がします(^^;)
が。
ファを彼女たちの身代わりにするのはやめよーね(^^;)
女のカンなのだろうと思うのですが、ファに完全にバレてます;
まあ、フランソワーズの場合は自分がジョーの本命だということを理解しているから、この辺のところはかなり寛大ですが、ファの場合は逆に神経逆なでしちゃってますからねえ・・・。
こういう、女性心理に鈍感なところもジョーとカミーユは似てるような気がするのですが・・・。
正直いって、正反対な二人です。
ジェットは直情径行タイプなので、どちらかといえば島よりも古代の方が性格的に近いものがありますし、島も「突っ走りがちな古代を影でフォローする」タイプですので、同じ二番手キャラでもコンドルのジョーとか浪速十三、峰一平といった「主人公とライバル関係にあるタイプ」ではなく、キルヒアイスやテリーマンといった「主人公を地道にサポートするタイプ」です(ジェットの場合、ハインリヒに食われているようなところもありますが、ハインリヒはどちらかというとヤマトにおける真田さんのように、主人公の尻をひっぱたくタイプではないかと思われます)。
外見もニューヨーカーらしく派手なジェットに比べ、島はあくまでも地味。
女性に対してもジェットは手が早いタイプですが、島はかなり奥手です。
ですが。
この両者は、「報われない男」という点で、見事に一致しているのです!!!
というのは。
島の場合、「ヤマト」の第一シリーズが始まった当初は、雪の本命でありました。
が、いつの間にか雪は「誠実で堅実だが地味な」島から「直情径行で恐怖の欠陥人間と呼ばれてはいるものの、情熱的で一途な」古代に乗り換えてしまいました。
第2シリーズで、テレサと恋に落ちるものの、結局悲恋に終わってしまい、それ以降、完結編で死ぬ間際まで島は、密かに雪を思い続けるのでありました・・・(うるうる)
一方、ジェットですが。
彼が改造されたのはイワンに次いで二番目ですから、きっとフランソワーズには真っ先に目をつけていたのだろうと思われるのですが、結局、後からのこのこと現れたジョーに奪われてしまう(フランソワーズがジェットの本命だろうということは、「サイボーグ戦士誰がために闘う!編」でハインリヒから「フランソワーズに取り入りたかったのか」という一言にマジギレした辺りから伺われるのですが・・・)し、後数人の美女とのロマンスもあるのですが、いずれも悲恋に終わってしまいます。
まあ、「イシュタルの竜編」のイシュタルといい、「愛の氷河編」のエヴァといい、ジェットは世間知らずのお嬢様にもてるようです(^^)
そんなことはともかくとして。
フランソワーズにしても、最初はジョーのことを「単なる仲間」としか思っていなかったようなのですが、いつも必ずジョーが助けてくれるので、知らず知らずのうちに心を奪われていた・・・という感じのようです。
フランソワーズに比べれば、雪の方がかなり打算的である印象を受けはしますが、両者に共通するのは「自分の好みや理想よりも、最終的に最も強く愛してくれる男性」を選んだ、という点で共通するように思われます。
ジェットの場合は、ジョーの地道な努力をもっと見習った方がいいんじゃないか、とは思うのですが・・・。
島に関しては、「お気の毒」としかいいようがありません。
雪に惚れたこと自体がそもそも、間違いだったのかもしれませんが、あの環境じゃ他に選択肢もなさそうだし・・・。
っていうか、「ヤマト」って古代と雪以外のキャラの扱いが悪すぎ!
先日、職場で「松本零士展」のチケットをもらいました。
それがきっかけで松本作品が無性に読みたくなり、「銀河鉄道999」の文庫本を買い込みました。
今から思えば、「999」は、七月がようやく漫画やアニメ作品の複雑なストーリーを把握できる年齢になった時に夢中になった作品で、それまで大好きだった「ガッチャマン」や「009」のようにハラハラドキドキするような派手なアクションシーンがほとんど出てこない、地味なストーリーではあったものの、1話1話のエピソードがとても心温まるものばかりで、毎週欠かさずに見ていました。
七月が、「009」の中でどちらかといえば後期の作品に心惹かれるのも、「999」の影響があるのかもしれません。
そんなことはともかくとして。
この作品の主人公である鉄郎は、ジョーとは全く対極の位置にいる少年であると思われます。
まず、鉄郎は母親を機械伯爵に殺されたことから、敵を討つために機械人間になろうとしてメーテルとともに宇宙を旅します。
一方、ジョーは自分の意思とは全く無関係に「黒い幽霊団」によってサイボーグ(機械人間)に改造されてしまい、「黒い幽霊団」の野望をくじくために気が遠くなるほど長い戦いに身を投じました。
長い旅の間に、鉄郎は様々な星の様々な人々に出会い、成長していくのですが、彼が最後に出した結論は、結局、機械人間になることではなく、生身の体のまま生きていくことでした。
鉄郎は、確かにまだまだ幼い少年であるというにもかかわらず、とても貧しく、さまざまな不幸を味わってきました。
でも、ジョーの生い立ちに比べると、あの優しく美しい母親の愛情を受けて育った記憶があること、そして「生身の人間である」ことの素晴らしさに、それを失う前に気づいたことだけでも、とても幸せなんじゃないか、と思います。
逆にいえば、ジョーは確かに天涯孤独の身であったかもしれませんが、孤児院に引き取られ、鉄郎ほどひもじい思いをせずに育つことができました。
そして、サイボーグになったことで、かけがえのない大切な仲間たちを得ることができました。
別に、世の中には「こういう人は幸せ」とか「こういう人は不幸」というような定義はないと思います。
美しい容姿に恵まれたり、経済的に恵まれた境遇にある人でも、愛情に恵まれなかったり、悲惨な目に遭ったりする人はたくさんいます。
たとえば、美しく生まれついたためにレイプされ、無惨に殺される女性も、この世には少なからずいるわけですし、また、どんなに素晴らしい能力に恵まれ、人格的に優れていても、人より劣った容姿故に正当に評価されない人、そして経済的に恵まれなかったために、生まれ持った才能をみすみす埋もれさせたまま一生が終わってしまう人など、さまざまな人がいます。
大切なのは、「人間にとって本当に大切なものは何なのか」ということに気づくことができるかできないか、そういうことなのではないかと思います。
石ノ森先生と松本先生は生年月日が全く同じなのだそうですが、お二人の作品の根底に流れているテーマも、何となく近いものがあるような気がします。
えー。
これはあくまでも、七月の個人的な見解なので、多分、他の皆様にはとても同意しかねることだと思いますが。
どうも七月には、ジョーの姿が「大人になったのび太」のような気がします。
まあ、小学生の頃のジョーは、のび太ほど成績も悪くなかったでしょうし、運動神経も良かったのでしょうが。
どっちも「いじめられっ子」という点では共通するわけですし。
それに、のび太のダメさ加減というのは、「ベビーポピンズ編」の山田葉子さんと同様で、周囲から「ダメ」というレッテルを貼られ過ぎて、自信を全く失っているためだと解釈することができます。
従って、のび太がドラえもんと出逢ったことによってその潜在能力を開花させることができれば、きっと立派な青年に成長することでしょう。
それに、ジョーも最強サイボーグに改造され、優れた能力を身につけたことによってあんな風に自信を取り戻せた、ということを考えると。
009となってからのジョーは、ドラえもんと出逢った後ののび太の姿であると解釈することもできます。
まあ、のび太はジョーに比べると両親の愛情に恵まれて育っているせいか、おっとり、のんびりした性格ですが、基本的に心優しい少年、という点では間違いなく共通しているわけですし。
それに作者は石ノ森先生が若き日に「トキワ荘」で苦楽を共にした藤子・F・不二夫先生ですし。
何となく似通ってくるのはある意味、当然なのかもしれませんねえ。
別に「バトルロイヤル」でもいいんですが、今話題の深作欣二監督の映画をちょっと意識してみました(笑)。あの映画は劇場で見る気はありませんが、ビデオが出たら見てみようかなあ、と思ってます。・・・未成年が見るのは問題があるとは思いますが、健全な倫理観を持った大人の人が見て、「人間の本質」について考えるきっかけにする分にはいいんじゃないかと思います(ただし、そういう、あの映画を鑑賞する資格に値するだけの倫理観を持った人間が、この日本にどれだけいるかという点については、大いに疑問がありますが)。
まあ、のっけから変な方向に脱線してしまいました(汗)。
が、しかし、本題に入る前に、「敵役」と「悪役」の違いだけははっきりとさせておきたいと思います。
まず、悪役の定義ですが。
「悪」という冠がついているのですから、悪役は「まるっきりの悪の権化である」というのが大前提になります。
そういうわけで、悪役は「生まれながらにして悪人」なわけで、悪役が最後に改心することはありませんし、「子犬や花の命を助ける」などというささやかな善意もありません。
そんなわけで、悪行の限りを尽して、悪人のまま死んでいく、というのが「悪役」である、とここでは定義しておきます。
で、その悪役の定義に当てはまらないのが「敵役」なのですが、一番わかりやすいパターンは、「立場の違いで主人公と対立している」人物でしょうか。
このパターンの王道を行ってるのが、「ボルテスV」のプリンス・ハイネル様、「ヤマト」のデスラー総統、「ガンダム」のシャアなどです。
彼らは、たまたま成りゆきで主人公と戦う立場になっただけで、自分がしていることが「悪」だとは思っていません。
むしろ、自分は正義だと思っている、というところにポイントがあります。
このことから、「『正義』というものは、置かれた立場や主義主張によって都合良く使われるいいかげんな便利な言葉である」ということがよくわかると思います(この辺のことをきちんと理解していないと、009の完結編を読むのは辛いんじゃないかなあ、と、個人的には思います)。
こういうことを書くと、語弊がありますので、きちんと自分の考え方を明確にしておきますと、七月は決して「正義」が「普遍的な倫理」であるとは思っていません。
石ノ森先生が「天使編」や「神々との闘い編」、完結編で追求しようとされていたのは、「普遍的な倫理とは何か」ということなのではないか、と解釈しています。
語彙というのは、一人一人、解釈の誤差があるので、使い方が難しいのですが、このニュアンスの違いだけは、どうか理解していただきたいと思います。
・・・また、話が違う方向へ脱線してしまいましたので、元に戻します。
で、ハイネル様やデスラーが「敵役」だとすれば、どんなキャラが悪役なのか。
その一番わかりやすい例は、「ガッチャマン」のベルク・カッツェ様ですね。
彼(もしかして彼女?)があんな極悪非道なことをしまくっているのは、自分が所属する「ギャラクター」が悪の組織であることをはっきりと自覚した上での事ですし、最後には総裁Xに処刑されて死んでます。
それに、目上にはヘイコラして、配下には八つ当たりしたり、危うくなるとあっさり見捨てて自分だけ逃亡するし、科学忍者隊を陥れるため(というよりも、どっちかっていうと南部博士への嫌がらせのように見える)には、どんな卑怯なことでも(また、情けないことであっても)手段を選びません。
これほど、わかりやすい悪人は、カッツェ様の他には「水戸黄門」や「遠山の金さん」に出てくる「越後屋」(なぜ「越後屋」なのかは謎ですが・・・他には、「大黒屋」というのもあり。・・・「紀伊國屋」や「旭屋」が悪徳商人として出てくることは、ほとんどありません)とか「お代官さま」がいるぐらいでしょうか。
そんなことはともかくとして。
009の「黒い幽霊団」並びに「新・黒い幽霊団」(蛇足だとわかってはいるのですが、それぞれ、「ブラック・ゴーズト」「ネオ・ブラック・ゴースト」と読んでくださいね)は、「私腹を肥やすためには、どんな残酷な手段も辞さない」集団であることから、「悪の権化」であると定義づけることができると思います。
と、いうのか、石ノ森先生が観念的な「悪の象徴」として描いていらっしゃるのは明確ですから、単純に「悪役」にしてしまっても大丈夫だと思います。
もちろん、不幸にも捕らえられてサイボーグマン兵士にされてしまった人々や、0010、0011、0012、0013、そしてミュートス・サイボーグたちなどは「不本意にサイボーグにされてしまい、00ナンバーたちと闘わざるを得なくなった」立場の人々であり、彼らも「黒い幽霊団」の犠牲者であることには違いないわけですから、「敵役キャラ」ではあっても「悪役キャラ」ではありません。
で、「黒い幽霊団」ではあまりにも漠然としすぎているので、歴代の幹部たちを見ていくと。
「新ゼロ」に出てくる三つ子も含めて、みんな没個性で見事に印象に残らない。
アクの強さで印象に残ってるのは、せいぜい、「ヨミ編」のバン・ボグートと「エッダ編」のトールぐらいでしょうか。
二人とも、所詮はスカールやロキーに使われている中間管理職ですし(まあ、これぐらいのポジションでないと個性が出せないのかもしれませんが)、どちらも、カッツェ様のあのキャラクターの「濃さ」と「わかりやすさ」にはかないません。
まあ、渋さや潔さではカッツェ様を遥かに上回っているとは思うのですが。
てなわけで、当「プリ花」では、カッツェ様を「第一回キング・オブ・悪役」に認定したいと思います(挑戦者募集中:笑)。
最近、また「ときめきトゥナイト」を読み返す機会がありまして、そこで気がついたのですが、サイボーグと魔界人っていろいろ似てるところがあるんですよねえ。
普通の人間とは比べものにならない能力やパワーを持っているということ、そして年をとらないということが最大の共通点ですが、細かいところにまで突っ込むとするならば、蘭世とグレートの能力はほぼ同じ(まあ、グレートはくしゃみで元に戻ったりはしませんが)ですし、真壁くんの能力もイワンとフランソワーズの能力を合わせたようなものだと考えることもできます。
それから、ジョーがF1レーサーをやってるのと同様、真壁くんはプロボクサーやってます(しかも世界チャンピオン!)。
真壁くんは、ボクシングやってる時は魔界人としての能力を封じて人間として闘ってるということですが、ジョーがレース中にサイボーグとしての能力を完全に封印してごく普通の人間となるのは不可能だと思います。
確かに、加速装置を使わずにはいられるかもしれないが、やっぱり、事故った時に無傷、というのはフェアということにはならないでしょう(事故で炎上するマシンから加速装置使って脱出する、というのも然り)。
そういう意味で、サイボーグの能力というのはやはり限界があるんだなあ、と思います。
ところで、酒井あきよし版の「超銀河伝説」の小説を読んで初めて気がついたことですが、ジョーたちが一般社会で生活する時には、飛行機に乗る時は、どうしても金属探知機に引っ掛かってしまうとか、いろいろ支障があるわけですが、それに比べると、魔界人のそれはある程度努力によって克服可能なだけ、一般社会になじみやすい、と考えることができると思います(まあ、種族によると思いますが・・・)。
まあ、超人(もちろん、キン肉マンのですが・・・)に比べると、どちらもいろいろとハンデを抱えていることには間違いないですが。
ところで、恋愛においてですが、恋人に対して素直に「好きだ」といえないところは、両者とも共通しています。
蘭世もフランソワーズも一途で芯が強くて家庭的ですから、そんな女性に惹かれる真壁くんもジョーもどちらかといえば保守的というのか、古いタイプの男といえるのかもしれません(根本的にマザコン、という点でも共通してるかも)。
ただ、真壁くんは肝心なところはきちっと態度で示してますし、他の女性に目移りすることもありません。
一方、ジョーの場合は「君の笑顔はグッと素敵なんだ」(By「移民編」)などとキザなことをいう割には、行動に出ることはほとんどありません(キスシーンの回数だけで判断する限りでは、の話ですが)。
その上、他の女性にも見境なく優しいし、時々フラフラしてしまうこともある。
さて、恋人としては、どっちの方がいいんでしょうねえ・・・。
アニメ界で、「涙が似合う美少年」と聞かれて「島村ジョー」と答えれば、009ファン、「真田遼」と答えれば、トルーパーファンと思って間違いはないでしょう。(七月はといえば、どっちにすればいいかわからず、取り敢えず迷うタイプになります)
確かに、この二人はオープニングで涙を流しているだけでなく、些細なことで落ち込みますし、すぐ泣くし、敵に同情し過ぎて墓穴を掘る、という点でも共通します。
(見た目は遼よりも征士の方がジョーに似てるんですけどね)
従って、周囲の態度も何となく似ている。
仲間たちは「あーあ、しゃーない、オレ様がフォローしてやっか」(なんてことをいいそうなのはジェットか秀)というスタンスですし、紅一点ヒロインとしては、彼らが落ち込むたびに「そんなことはなくってよ」とひたすら慰め役に専念しなければならない、とゆーわけです。(従って、両者の間に恋が芽生えるのは当然の成りゆきなわけです)
そーいやートルーパーも「輝煌帝伝説」から「俺たちは何のために戦ってるんだア〜〜〜!!!」というストーリーになってましたからねえ。
どっちもサンライズ制作だから似てしまうのだろうか。
まあ、「白鳥の湖」でも以前、触れましたが、ジョーがヘコんだ場合、ひたすらイジイジ、ウジウジしているだけなので、実害は少ないのですが、遼の場合は「ぬわぜなんだあ〜〜〜〜!!!!」(ドンガラガッシャーン!!!)と、暴れ回って、ものを壊しまくるので、はっきりいってはた迷惑です。
遼は物を壊すし、秀と当麻のような食欲魔人が二人もいて、ナスティはお祖父様の遺産があるとはいえ、すごい出費だっただろうなあ・・・。
ジョーの場合は、フランソワーズが抱っこして「よしよし」と慰めてやれば、勝手に浮上しますからね。
確かに、遼に比べれば扱いやすいでしょうね。
第3ラウンドでも触れたように、健ちゃんは七月の初恋の君であるのですが、ボルテスVのビデオやLDを見るたびに、彼の精神的な強さと優しさに感動します。
「きゃあ、やっぱり健ちゃんって素敵!」と。
LDがまだ一枚しかないので、全編のストーリーをすべて網羅して把握しているわけではないのですが、ビデオに収録された12話と現在持ってるLDの8話だけでも、彼がいかに悩み、傷付きながら戦っているか、ということはよくわかります。
第2話で、それまで心の大きな拠り所であった光代母さんを亡くし、ボルテスチームをリーダーとしてまとめるだけでなく、親代わりとして2人の弟を守らなければならない、という責任まで背負い込むことになります。
また、敵であるボアザン星人の手中にあるという父・健太郎の安否も気になるし・・・。
そんな彼の心のスキを突いて、ボアザン星人は容赦ない攻撃をしかけてきます。
挙げ句の果てには、浜口博士やめぐみの父・岡防衛長官といった、親代わりとしてサポートしてくれた人々まで失ってしまう。
そこへもって、父・健太郎が実はボアザン星人で、自分達もその血を引いているという、衝撃の事実を知るわけです。
健ちゃん、弱冠15歳。
多感な少年が背負うには、あまりにも過酷な運命ではありませんか!?
それでも、自分に課せられた責任をきちんとまっとうし、良きリーダー、そして良き兄であり続ける健ちゃんは、本当の意味での強さと優しさを兼ね備えていると思います。
彼の優しさとジョーの優しさというのは、ちょっと違うんですよね。
ジョーの場合、弱い者をすべて無条件で受け入れる。
ただ、やみくもに優しいだけじゃなくて、原作の「走れ!兄ちゃん編」や「世界会議を守れ!」で見せたような厳しさも持ち合わせています。
でも、ジョーの優しさというのは、どうも女性に偏っているような気がする。
健ちゃんの場合、弟たちや一平、それからファルコンの乗り組み員が規律に反した時、いかなる場合があろうと厳しく対処してますが、左近寺博士の命令に納得できない時は、正面切って反発もします。・・・彼がそうする時はたいてい、誰かを庇ってる時でもあるんですね。まあ、もともと不器用ですから、ぶっきらぼうになったり、ぎこちなくなったりするのですが。
それに、ジャンギャルとかギルオンとか、敵に対しても寛大であるところが素晴らしいです。(特にジャンギャルなどは、ある意味、自分の母親の敵でもあるわけですからね)
その最高潮だったのが、最終話で、プリンス・ハイネルに「兄さん!」と呼び掛けたところでしょうか。
血のつながった兄とはいえ、母親が違うわけだし、その直前まで敵として血を流して戦い続けた相手です。
それなのに、ごく当たり前のように兄として受け入れる。
これは、健ちゃんだから納得できるのですが、他のキャラだと「ケッ、わざとらしい」と思ってしまうところですよね。
で、ジョーが健ちゃんと同じ年頃の時、どうしてたかというと、孤児院にはまだいただろうと思われる年齢ですから、きっといじめられてグレてた頃なんでしょうね。
まあ、ジョーの場合、両親の顔も名前も全く知らないし、愛情に飢えて育ってきたわけですから、それは仕方がないことだと思います(あれで健ちゃんのような性格に育ったら、却って恐い)。
・・・という訳で、健ちゃんの強さと優しさは、光代母さんが大きな愛情をもって育てたことにあるんでしょうね。
今さらながら、母の愛情の偉大さに脱帽します。
超無責任な健太郎父ですが、ボアザン星に連れ去られるまでは、きっと三兄弟に対しては良き父親として愛情を注いだのではないでしょうか。
でなきゃ、健ちゃんと日吉はともかく、あの大次郎があそこまで慕うわけがないですもんね。
っと。つい、健ちゃんの話に偏ってしまったわ。
確かに、健ちゃんが29話でギルオンに見せたような思い遣りは、ジョーも「大森林からの脱出」でメガロに対して見せてます。
でも、あの三ツ子に対して、健ちゃんがハイネルやジャンギャルにしたようなことができるかどうか・・・。
あっ、でもでも。
そーいやー健ちゃんてば、めぐみに対して「あれが女の子のすることかねえ」という、今ならセクハラと言われて糾弾されるようなことをいってます。(ジョーだったら口が裂けてもいわない)
女性に対する優しさ、という点では、やはりジョーに軍配が上がりますね。
問題は、フランソワーズ以外の女性にも見境なく優しい、というところにあるんですね。
このコーナー初めての番外編です。
これはできれば全員(もちろん、フランソワーズは「眠れる森の美女」でですが)網羅したいと思っています。
で、初回は主人公だからというわけではありませんが、ジョーです。
このコーナーはフランソワーズ中心、ということで始めたはずなんですが、いつの間にかジョーが出張っている・・・;
まあ、主人公だし、フランソワーズの最愛の恋人だから、彼にどうしてもスポットを当ててしまうのは仕方がないですね。
ジョーとフランソワーズはプラトニックだ、というのがファンの間で定着しているイメージです。
が、原作をよーくよく鑑賞してみると、必ずしもそうとはいいきれない。
ちゃんとキスシーンだって出てくるし、ベッドシーンも出てくる。
まあ、お子さま向けマンガ、お子さま向けアニメ、ということで石ノ森先生もあんまり突っ込んだことは描かれなかったようですし、アニメも先生に習ったみたいですね。
しかし、アニメ界の超ラブラブカップルの代表ともいわれている古代進と森雪も、それほどラブシーンがあるわけではないのですが。
フランソワーズの献身ぶりは雪の及ぶところではないのですが(いくら雪でも他の女を助けようとしている恋人のフォローはできないでしょう)、やっぱりジョーとフランソワーズ以上にラブラブに見えるのは、熱烈な抱擁シーンと古代の「ユキーっ!!」の連呼のせいでしょう。
ジョーも結構「フランソワーズ!」を連呼してる筈なんですけどね。
・・・やっぱふらふらと他の女性に引っ掛かってるのがポイント下げてるとしか思えません。
さり気なく手を握る、肩を抱く、という回数はジョーの方が多いんですけどねえ。
原作を見ていると、暗殺者編とかベトナム編のラストとか、初期ではジョーがフランソワーズを抱き締めたり、肩を抱いていたりするシーンが多いのですが、後期はフランソワーズがジョーの腕に掴まってるシーンの方が多いです。
0010との闘いで傷付いたフランソワーズをイワンを抱いたジョーが見守ってるシーンなどは「病気の妻を子どもを抱えた夫が見守る図」にしか見えないのですが。
そういや、フランソワーズに言い寄る男が少ないので、ジョーがやきもちを妬くシーンはあんまりないように思えますが、小学生の男の子がフランソワーズに懐いたからといってフテ寝したり(「イルカと少年編」)や、フランソワーズがカメラマンのモデルにスカウトされたからといってガキっぽいイヤミをいったり(「ザ・モダーン・ナルシス編」)、結構焼きもち妬きなところがあるようです。
「魔弾の射手」とほぼ同時に始まったにもかかわらず、更新が最も遅れているコーナーです。
ネタは多分、ないわけじゃないと思うんですが、キャラクターの選択が難しい。
ここに比べると、「眠れる森の美女」は随分とラクです```。
で、今回はジョーと古代を比較するわけなんですが、悩める繊細な美少年ヒーローのジョーに対して、古代は典型的な「熱血暴走型ヒーロー」です。
違ういい方をすれば、ジョーはハムレット型、古代はドン・キホーテ型というところでしょうか。
古代は放っておくと何をしでかすかわからない。
だから、沖田艦長に殴られる(笑)
・・・一方ジョーはというと、優柔不断なもんだから、決断を要する時になかなか決断が下せず、ハインリヒあたりに「ええい、じれったい!」と尻を叩かれる;;;
でもって、恋人に対しても、古代は記念写真を取る時に図々しくも雪の肩を抱こうとして、手を叩かれる。
ジョーは言い寄って来る女性たちを拒絶することができないので(古代は他の女性を「雪」と呼ぶよーな失礼な男である)、ついにはフランソワーズにまでイヤミをいわれる(「極北の幽霊編」参照)。
どっちも相手にベタ惚れなので、恋人がいなくなると再起不能なぐらいヘコむのですが、古代はやたら周囲にヤツ当たりしますが(「ヤマトよ永遠に」参照)、ジョーは延々とキザなセリフを羅列しながら沈没する・・・(「凍った時間編」参照)と、あくまでも対照的な二人でした。
闘いについて行く、という恋人を置いて行こうとする時も、退去命令を下す古代に対して、ジョーは「君には闘いは似合わない、美しい自然や音楽や・・・」と、キザなセリフで無駄な説得を試みようとする。
その直後に抱き合ってる、というところで一致するのが不思議といえば不思議です。
前章で述べた通り、ハインリヒの登場です。
ニヒルなキャラクターの代表格ともいえるこの二人ですが、ゲルマン系でクールなハインリヒとラテン系でホットなジョー、と容姿も性格も結構対照的です。
二人とも結構好戦的な言動が多いのですが、ハインリヒの場合はリアリストであるが故のことだと思うのですが、ジョーの場合はやはり両親をギャラクターに殺されたことによる憎しみとか復讐の思いからくるんでしょうね。
しっかし、今改めて再放送やらビデオを見るとジョーの顔は「濃いなあ」と思います。
まあイタリア人と日本人のクウォーターだから仕方がないんですが。
・・・ところで、「やおい」の元祖は健とジョーなのだそうですが、それを聞いた時、七月はあまりにも濃すぎる組み合わせなので「やめてけれ!」と思ったのですが。
改めてビデオや再放送を見ると、確かに「この二人は怪しい」と疑いたくなるシーンがしばしば出てきます。
・・・だから健はジュンにそっけないのかなあ。
立続けにジョーが続いたので、そろそろ他のキャラを・・・と思っていたのですが、ハインリヒにするか、ジェットにするかで迷ってました。
ハインリヒにするならやっぱコンドルのジョーあたりになるだろうし、ジェットだとボルテスの峰一平あたりだよなあ・・・なんて。
う〜ん、難しい。
と思って好奇心ブックスの『二番手キャラクター伝説』をパラパラめくってたら、ふと、沖田艦長のページが目に止った。
「よおし、これだ!」
てなわけで、こんな組み合わせになりました。
二人とも物語世界の父性の象徴ともいうべき存在だし、年齢も近そう。
と単純に考えてしまった結果がこれになるわけです。
片や天才的科学者、片や百戦錬磨の軍人。
よくよく考えてみれば、全く異質なキャラクターには違いないのですが。
まず、ギルモア博士はよく容姿がお茶の水博士に似ていることから、お茶の水博士の亜流と見られがちです。
手塚先生は石ノ森先生に多大な影響を与えたお方ですから、まあ、その通りなんでしょうけど、七月の個人的見解としては、ブラックゴーストの科学者でありながらその目的に気付き、00ナンバーたちを連れて組織から脱出した、という経緯を考えると、「8マン」の谷博士にも似てるような気がします。
いずれにせよ、SF ヒーローもの、後のロボットものには欠かせない『博士』の原形となったキャラの一人には違いありますまい。
ただ、ギルモア博士について印象的なのは、「アステカ編」や「見えない糸編」を見ればわかりますが、9人をサイボーグにしてしまったことに対して常に罪の意識と悔恨を抱いていること。
これが彼を従来博士キャラとはひと味違う存在にしているように思われます。
一方、沖田艦長。
七月は「銀英」のビュコック提督やメルカッツ提督の原形は彼なのではないかと、密かに睨んでいます。
信念と美学に生きる孤高の老人、といえばアメリカではアーネスト・ヘミングウェイ、日本ではこの沖田十三でしょう。
「地球か・・・何もかもが懐かしい」というセリフで息を引き取る第1シリーズ、そしてヤマトとともに水の惑星・アクエリアスに呑み込まれてゆく完結編。まさにカッコよく年輪を重ねた男にふさわしい死に様です。
恐るべし、松本零二。
てなわけで明らかに異質な両者ではありますが、発するセリフの一言一言に重みがあり、若者たちに向ける眼差しの深さが印象的、という点で共通するものがあります。
これはやはり、それぞれが背負ってきた人生の重みの為せる技なんでしょうねえ。
日本の若者よ、もっとお年寄りを敬いましょう。
「ボルテスV」といえば、悲劇の美形キャラ、プリンス・ハイネルが一番人気なのだそうですが、七月は6歳の時以来、主人公の健一の大ファンです。
アニメキャラにおける初恋の人(実生活における初恋は小学校2年の時ですが)ともいえるヒーローです。
てなわけで、ジョーとはまた違った思い入れがあります。
んなことはともかくとして。
健一はヒーローとしてはガッチャマンの健を更に真面目にした、超優等生ヒーローです。
性格は真面目。弱者に対する思いやりや気配りはジョーといい勝負といえるほど。
弟たちの面倒見もいいし、責任感も強い。
浜口博士や左近寺博士のいうことはよくきくので、健みたいに命令違反することもない。命令に反発する時も、きちっと筋だけは通します。
・・・これも、やっぱりお母さんのしつけが良かったんでしょうね。
本当にいい子です(いかにも日本男児、というルックスも◯)。
そんなだから、ジョーのように任務と人情の板挟みになって悩むこともあります(そういや健ってあんまりそんなとこ見ないなあ)が、責任感の権化なので、ぎりぎりのところで責任を優先します(それにジョーと違って意志は強いから、一平とけんかすることもあるし、ジョーみたいにうじうじヘコんだりしない)。
まあ、そんな風に考えると、健とジョーのいいとこだけをとったようなキャラクターに見えなくもない。
その辺がハイネルに喰われてしまった要因なのかもしれませんが。
健一のようにバランスがとれて円満な人格のキャラクターよりも、ジョーのように優柔不断(八方美人ともいう)だったり、健のように大雑把だったりとか、何かしら欠点があった方が魅力的に見えるということでしょう。
そういや、健一はハーフ、という点でも(こちらは地球人と異星人の混血だが)ジョーと共通しますね。
健一が女っ気ないのは環境のせいもあるのかもしれませんが、弟たちの面倒を見るのが精一杯で、そこまで気がまわらないからなのでしょう(めぐみはファザコンですし)。
あくまでも七月の個人的な見解ですが、悩める美少年ヒーローの代表格といえば、ジョーとウルフガイシリーズの犬神明です。
七月と平井作品の出会いのきっかけとなったのは、「幻魔大戦」です。
石ノ森先生のアニメ化作品を集めた『THE
石ノ森章太郎PART2』でこの作品のことを知って興味を持ち、早速小説版を読み始めました。
小説から入ったのは、たまたまコミック版が手に入らなかったからなのですが、平井先生の独特の世界にどんどん引き込まれていきました。
でも、「幻魔大戦」に関していうと、10巻のラストはすごく感動的なシーンで、次にどう続くのか胸をわくわくさせて読んだんですが、主人公の東丈が消えてしまうし、作風がガラッと変わってしまったので、なんだか拍子抜けしてしまいました。
11巻以降は自分で買う気になれなかったので、P嬢に借りて何とか最後まで読破したのですが、P嬢いわく「最後まで読んだのはMちゃん(七月の本名)だけやで」とのことでした。
で、次に『狼の紋章』を読んだのですが、これを読んだ時は、まるで目からウロコが落ちるような思いがしました。
うまく言葉では表現できないけど、何か、自分の人生観が変わるような、運命的な出会いっていうんでしょうかねえ。
この時、七月は「一生平井先生についていきます!」と誓い、現在に至ります。
で、これが七月がヒライストになった経緯なのですが、009にハマってなければ、平井作品とは出会っていなかったわけで、七月にとってはウルフガイも009も人生を変えた大切な作品なわけです。
前置きが長くなりましたので早速本題に入ります。
ジョーはサイボーグであるが故に悩み、犬神明は不死身人間であるが故に悩みます。
その根底にあるのは、人間と同じ心を持ちながら、人間離れした力を持ち、人間から見れば異形の身体を持つことのジレンマです。
そのためジョーたちサイボーグも、犬神明も望まない戦いに巻き込まれ、また、自分たちとかかわった罪もない人々を不幸な目に遭わせてしまいます。
そんな訳で、七月にはジョーと犬神明が相似形のように見えてしまいます。
まあ、違いがあるとしたら、ジョーにはギルモア博士と八人の仲間たちがいますが、犬神明には神明以外に心を許せる仲間がいないということでしょうか。
また、ジョーには恋人であり、母親代わりでもあるフランソワーズがいますが、犬神明は自分の過ちで最愛の女性である青鹿晶子を3人の男に陵辱され、廃人にされてしまいます。
そのため、犬神明の苦悩はいっそう深くなります。
そして、晶子を救うために「不死鳥グループ」の本部に乗り込むわけですが、この時も自分を一心に慕ってくれる虎4を犠牲にしてしまうわけです。
あげくの果てに、肝心の晶子も救えなかった。
悲しいですねえ。
物語世界を存続させるためには、読者の非難も厭わない平井先生のシビアな姿勢は、読者に媚び過ぎてストーリーをつまらなくしてしまう、昨今の作家たちとは一線を画します。
でも、これではあまりにも救いがなさすぎる。
狼にふさわしく堅固な意志を持ち、孤高を貫く犬神明とは対照的に、ジョーは優柔不断と思われるほどに悩み、弱き者に対する慈しみを惜しみません。
だからこそ、犬神明にはもたらせなかった「救い」を我々読者に与えることができるのではないかと思います。
・・・ちなみに平井先生は、本当はマンガ家になりたかったのだけど、「画力がないから小説家になった」とのこと。一方石ノ森先生は小説家志望だったそうですから、お二人も表裏一体、という感じで興味深いですね。
そういや、平井先生も009の愛読者だったそうで、嫉妬まじりの絶賛文を書いていらっしゃいます。
集団ヒーローものの元祖といわれる「009」と「ガッチャマン」。
その主人公であるジョーと健ですが、この二人の性格というのか、リーダーとしてのチームのまとめ方が対照的で面白いです。
ジョーはサイボーグとして、一番高性能、ということで00ナンバーたちのリーダーとして君臨していますが、精神的には、どうもみんなからフォローされてるとしか思えない。
まあ、メンバーの中でジェット、フランソワーズ、イワン以外は恐らくジョーよりも年長者でしょうから、若輩のジョーとしてはみんなに遠慮せざるを得ない。
それが日本人気質というものです。
で、戦闘能力においても、ジョーは確かに他のメンバーの能力をバランスよく兼ね備えていますが、加速装置以外のそれぞれの能力については、やっぱり他のメンバーたちには及びません。
重装備という点ではハインリヒの足下に及びませんし、腕力という点では、ジェロニモの半分くらいです。
一方、健はというと、あのメンバーの中で彼が一番優秀な戦士であることは明白です。
戦闘能力ばかりではなく、判断力、作戦立案能力など、すべてにおいて、彼はプロフェッショナルです。
だから、ジョー(コンドルの方)のような跳ねっ返りでも、健には一目置いてます。
それにメンバーは健も入れて5人ですからね。まとめるのも楽な筈です。
それに引き換え、ジョーはといえば、9人もいるメンバーはいずれもめちゃ個性が強い。
そんな彼等を集団としてまとめていくのはかなり大変です。
これが健のような頑固者だったりしたら、ジェットあたりなんかだと反発するんじゃないかと思います。
だから、ジョーのように多少優柔不断でも、周囲に気配りができるタイプの方がこの集団においてはリーダーにふさわしいといえると思います。
容姿からしていかにも日本男児、という感じの健よりも、ハーフのジョーの方が気質的にはより日本人的ではないでしょうか。
まあ、ジョーにはギルモア博士やイワンというフォロー役がちゃんといるわけですしね。
それから、ジョーがマザコン傾向にあるのに対して、健がファザコンであるところも興味深いです。
フランソワーズのジョーに対する愛情は、母性愛が根底にあると思うのですが、ジュンの健に対するそれは、尊敬とか憧れといったものに近いようです。
ジョーとフランソワーズの2ショットが新婚夫婦、って感じを匂わせるのは、ギルモア研究所で同棲(?)してるせいだと思うのですが、健とジュンはどうしても対等のパートナーというイメージから離れられないですからね(なんか、色気に乏しいように見えるのは七月の気のせい?)