ある休日のこと。
おれは家からすぐ近くの書店に向かって自転車をキコキコとこいでいた。目的は新○文庫の新刊をチェックすることにある。
(いいかげん車の運転しないと、まじでペーパーになっちまうな)
そんなことを考えながら五分ほどペダルを踏み込んでいると、目的の書店についた。
その書店は二階がレンタルショップになっていて、店内に設置されたモニターからは、まだまだ人気がある『マトリッ○ス』やドイツ映画『ラン・ローラ・○ン』が流されていた。おれは直接劇場で見たが、『ラン・ローラ・○ン』はいい映画だった。
おれは未練がましい視線をモニターから引き剥がすと、文庫新刊のコーナーに向かった。東京の書店とは比較にならないほどの薄っぺらい平積みが並んでいる。
今月の新刊でおれの目を引いたのは、一冊だけだった。
(お、若竹○海の『火天○神』が文庫になってる。しかも結構売れてるじゃん。若竹○海もようやく認知されてきたなあ。よかったよかった。でも前に図書館で借りて読んだからな。いずれお金に余裕ができたら買おう)
とりあえず今日の目的は果たした。
特に用事のなかったおれは、そのまま書店の中をうろうろとうろつきまわった。そして文芸雑誌のコーナーでなんとなく『メフィ○ト』を手に取った。
(ん?)
本の背表紙を見たところでおれの動きが止まった。そこに思いもかけない名前を見つけたからだ。
『上遠野○平』
それがおれの動きを止めた名前だった。
(上遠野○平? 上遠野○平って、電撃○庫から『ブギーポ○プ』のシリーズを出してる、あの上遠野○平?)
おれは友人に勧められて、第一作目の『ブギーポップは笑わ○い』をつい最近読んだばかりだった。そして、同じ物語を多数の視点から描くという、下手をすれば破綻しかねないその手法をそつなくまとめた上遠野○平という作家に、多少気になるものを感じたばかりだった。
(この作家はいくかもしれない)
そんな嗅覚が働いたのだ。
第二作目の『VSイマジネー○ー』は買ったまま埃をかぶっているし、第三作目の『パン○ラ』は書店でちらりと最初のほうを眺めただけだったので、偉そうなことはなにも言えないのだが、その文章にはなにかこちらに訴えかけてくるものがあった。
その上遠野○平がなんと本格推理雑誌である『メフィ○ト』に作品を載せているのだ。気にするなというほうが無理だろう。
パラパラと雑誌をめくる。どうやら上遠野○平の作品は読み切りの短編のようだ。四十ページほどある。文庫本に換算すれば八十ページといったところだろうか。
雑誌の裏を見る。「定価千四百円」という文字が飛び込んできた。
少し逡巡した後おれは――立ち読みモードに入った。そりゃそうだ。こんな一短編のために千四百円も出せるわけがない。ハイスピードで読むようにすれば三十分もあれば十分だろう。
おれは素早い手つきでページをめくりはじめた。じっと物語に集中していく。
話も半ばに差しかかったころ。
おれはすぐ隣に言いしれぬ敵意を感じた。
(何者だ?)
おれはそちらに目をやり――ぐわっ――内心うめいた。
そこにはその書店の制服を着たおれと同年代のねーちゃんが立っていたのだ。
店員だ。片手には埃をはらうハタキのようなもの――おれは未だにその名前を知らない――を持っている。
おれはその店員の姿を見て悟らざるを得なかった。
(こいつはおれへの刺客だ)
店内をぶらぶらするだけでなにも買わず、あげくにじっくりと腰を据えて立ち読みモードに入った悪質な客――つまりおれ――を追い払うためにこいつはやってきたのだ。
店員はおれに声をかけるわけでもなく、黙々とおれが立っている周辺の雑誌を整えはじめた。
第一段階だ。まずはこれで立ち読みをしている客の罪悪感を刺激し、追い払ってしまおうという作戦だろう。
(ふん、甘いな。おれはそんなこと気にもとめないぜ)
表面はなにも気がついていないようなふりをしながら、おれは心中思った。だがそのことが逆に、おれがその店員をめちゃくちゃ気にしちゃってることを証明していた。
おれが集中を乱されながらなおも雑誌のページをめくっていると、その店員は脇から身体を差し込むようにして、おれの正面の本棚を整理しはじめた。
第二段階。そう、おれと店員の静かな戦闘はさらなる高みへ突入したのだ。さりげない嫌がらせから、明らかな嫌がらせへと。
(もう撤退するか?)
正直おれは迷った。もうおれは十分闘ったと思ったからだ。だが、そのときおれは、心の中にわずかに湧き上がった感情に気がついてしまった。
怒り。
そう、それは怒りだった。
おれは客なんだぞ。
ちょっとぐらいいいでしょ、ねえ。
ダメ?
けち。
立ち読みは日本の文化。
UNDER PRESSURE By QUE○N。
負けるもんか By バービーボー○ズ。
負けないで By ZA○D。
正義は勝つ。
勝てば官軍。
さまざまな言葉がおれの頭の中を駆け巡った。
次いで、理由のない闘争心がめらめらと心中に燃え盛るのをおれは自覚した。
おれは足の幅を広げ、どっしりと腰を落とし、身体全体でそこを動く意志がないことを主張した。目が自然にスッと細まった。強い視線が雑誌のページに向けて注がれる。
二等兵、現在の拠点を死守せよ!
そんな声が聞こえたような気がした。
ハッ、了解であります、軍曹!
おれは敬礼してその命令に答えた。もちろん心の中で。
店員の動きがさらに強引なものへと変わる。おれもますますムキになって強情にその場に立ちつづける。
(バカな店員だ)
おれは思った。
『申しわけありません、ちょっとどいていただけますか』
そう素直に言えば、おれも素直にどくというのに。
だが、そのバカな店員に張り合い、身じろぎせずにその場に立ちつづけているおれも、やっぱりバカな客だったりした。
やがて店員の身体から龍のごとき青い炎が立ち昇った。おれも負けじと虎のごとき赤い炎を身体から立ち昇らせた。
――バチバチバチ――
おれと店員の間に不可視の火花が散った。電子レンジに誤ってアルミホイルを入れてしまったときに発生するような、そんなちゃちな火花だった。あ、あれは見えるじゃん。まあ、もうこうなったらなんでもいい。散ったって言ったら散ったんだ。
沈黙がつづいた。
そして勝負はあっけなく幕を閉じた。
おれのオーラに恐れをなしたのか、一つため息をつくと、店員がその場を離れてレジのほうへと帰っていったのだ。
(勝った……)
おれは勝利に酔いながら、残りわずかとなった物語を読み進めた。
少しして物語を読み終えたおれは、雑誌を元あった場所へと戻し、ゆっくりと書店の出入り口へと向かった。
レジの脇をを通り過ぎる際、ちらりと先ほどの店員の表情をうかがうと、唇の端が軽く釣り上がっていた。
(?)
おれにはそのかすかな笑いの意味がわからなかった。勝ったのはおれのはずだ。それなのに何故そんな笑いができる? もっと敗者らしく悔しげな顔をするべきだ。
そんな思いから、おれも負けじと唇を釣り上げた。
こうしておれと店員のしょーもないバトルは終わりを告げた。おれは店を出て自分の自転車へと向かった。
ふと、おれは歩みを止めた。ある事実に気がついたからだ。
(思い出せない……)
そうなのだ。ついさっき読んだばかりの上遠野○平の短編の内容を思い出そうとしたが、さっぱり思い出せなかったのだ。代わりに浮かんでくるのは、店員が持っていたハタキ(めんどくさいからもう決定)のくすんだ黄色とか、店員の制服の袖口についた小さな汚れとか、店員の強情そうな瞳だとか、とにかくあの店員にまつわることばかりなのだ。
(やられた……)
おれはようやく店員の真の狙いを察知した。そう、店員の狙いはおれを追い出すことではなかった。おれに物語の内容を記憶させないことにこそ、店員の真の目的はあったのだ。
おれはバッと店の中を振り向いた。ガラス越しにあの店員の姿が見えた。店員が俺に向かって不敵な笑みを浮かべていた。
(き、貴様……)
おれは悔しさのあまり、ぎりぎりと奥歯を噛み締めた。
おれはしばらく店員を睨みつけていたが、やがて勢いよく振り返った。
店員へのリベンジを心の中で誓いながら。(了)