プロローグ
一通の招待状が届けられた。一週間前に湖畔の朽ちかけていた城を買い取って住みついた奇妙な人物からだった。
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期日[八月八日]
・当城にてささやかなるパーティを催したいと存じます。
・当日は、仮装舞踏会の形式を取らせて頂きます。
・開催時刻は深夜零時と致します。
・皆様が指定時刻にお越し頂けますよう馬車が迎えに参ります。
貴方様のお越しを、心よりお待ち申し上げております。
城主 D.
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「どう思う」
私は執事に招待状を渡した。彼はそれをうやうやしく開いて一通り目を通すと、マホガニー製の机の上に置いて言った。
「御意のままに」
「興味はある。だが、少々不可解だ」
執事は頷いた。
「まず第一に、何故『仮装舞踏会』か。おそらく自己紹介の意を込めたパーティだろうにどうして顔を隠す? 第二に、深夜零時と言うのが解せない。あまりに遅い」
「先代ならお行きにはならないでしょう」
執事は私が苦い顔をするのを知っていて、それでもよく昨年急逝した先代───そう、私の父親を引き合いに出す。
なにせ、祖父の代から執事として雇われ、一度として仕事に関して失敗を犯したことはないというツワモノだ。若干二十七で本家の当主となった私はまるで頭が上がらない。
「行くな、と言っているのか?」
執事はパラパラと一冊の本をめくり、あるページで手を止め、私に渡した。
「あの城が何故最近になるまで買い手が付かなかったのか、その記録でございます」
私はそれを手に取った。
「ほう、城主は元の持ち主の血縁にあたるのか。それに、ん? これは──」
それは過去の歴史において、その城で処刑された人物の一覧だった。一覧というからにはかなりの数だと思ってよい。
「未だ噂の域を出ないのですが、城内には処刑された人達の霊障によって空間に歪みが生じた『螺旋階段』が有るそうです。その階段は城の間取り図にも記載されていないうえ、迷い込んだら二度と出られないと言われています」
長々と執事は説明した。
「驚いたな。霊なんていうものを信じているとは思わなかった」
私がそう言うと執事は相変わらず無表情のまま言った。
「あくまでも噂ですが」
「では、別に私が行くのを止めているわけではないのだな」
「それは──」
執事はちょっと困った顔をした。私は彼が何か反論する前に言い放った。
「この招待、受けようと思っている」
執事は何か言おうとしたが、顔に刻まれた幾つかのしわに表情を隠して一礼した。
「御意のままに」
二度目のその答えには、はっきりと諦めが含まれていた。
MASQUERADE 前編
当日の夜は仕組まれたような満月だった。ここらの土地はいまだ中世の面影を残している。
あの頃都会で銀行家として活躍・成功していた私は父の遺言を聞いて愕然とした。
――長男は家を継ぎ、本家に入りそこで生活し家を守ることを旨とせよ。
――遺産は家の中の……。
そこまで言って父は息絶えたと言う。
正直言って私には家を継ぐ意思など毛頭無かった。だが、遺産のことが気にかかった。
勘違いしないで頂きたい。
我がロイター家には遺産争いはあり得なかったのだ。だから自分の取り分とか、そういった愚考からは解放されていた。
それは、私以外に遺産を相続すべき人間がいなかったからである。
母は幼いころになくなり、兄弟は一人もいず、親類縁者はとうの昔に離散したきり音信不通。血縁と言えば一人息子の私だけだ。
だが、既に仕事で成功していた私には独身の身には有り余るほどの収入があり、金銭的には何の不自由もなかった。
では何故気にかかっていたのか?
幼いころ良く遊びにいった本家で祖父に聞かされた、ある『伝説』のせいである。
祖父は幼い私に口癖のように話した。
『いいか? 我がロイター家を継ぐものはまず、遺産がなんたるかを見極めねばならん。ワシは十七年かかった。お前も何時かはこの家を継ぐ人間だ。───覚えておくがいい。鍵は代々の当主が保管し、その鍵を使って、ある謎を解くのだ。謎はあの今は廃墟と化している湖畔の城≠ノ在る』
私は子供心にいつかその謎を解く日を夢に見ていたのだ。
しかし、先代である父は肝心の「鍵」の在りかを伝える前に心臓発作を起こした。
私は父の死の知らせを持ってきた執事に、自分が確かに家を継ぐことを伝え、先代同様ロイター家に使えてくれるよう改めて依頼した───およそ一月もかかって出した結論だった。
執事は私の幼少時代を見ていたせいか、最初のうちは「若旦那様」と私を呼んでいたがその後「旦那様」と呼称を変えた。それを私は勝手に、彼が私を一人前と認めてくれたものと思っている。
家を継いでからというもの、私は家のあちこちを「鍵」を求めて歩き回った。だが一つとして手掛かりは掴めなかった。三代に渡って勤めている執事も鍵については知らないという。
『代々の当主様だけの一子相伝≠セそうですので伺ったことはございません』
「鍵」は鍵本来の形ではないと言う話を、昔やはり祖父から聞いた記憶がある。
そして一年経った今も鍵の影すら見えてこない。とはいえ謎を解かないわけにはいかないのだ。私にだって何世紀に渡って続いてきたこのロイター家当主の意地がある。そこに舞い込んできたのがあの招待状だった。
あの城に買い手が着かなかったのは、過去においてD家が所有していたこともあるが、もう一つ理由がある。そこを扱う業者がロイター家の息がかかった者で、他者に決して売ろうとはしなかったのだ。
だが、ロイター家も代替わりしたように業者も息子が後を継いだ。彼は都会でも名の知れ渡った業者の一人でかなりのやり手だ。当然、わけの分からない『伝説』のために放っておかれている城もロイターの手が回らぬうちに契約を取りつけたうえで、私に通知を送ってきた。
執事はかなり腹立たしかったようだ。今までの契約を一方的に破棄されたことと、それに気付かなかった自分と、(勿論口に出しては言わないが)うだつの上がらない当主に対してだろう。
実は一方的な契約の破棄には裏があったのだが、それを執事は知らない。
遺産が何なのか。それは私にとって純粋な興味だった。現代の宝探し≠ネんて洒落た理由を付けてもいいが、実はそんな大層なものではない。ただの自己満足である。
「鍵」がないのに謎を解こうとするのは無謀だと思うのだが、人手に渡った今、二度と謎そのものを見ることがなくなるかもしれない。
いろいろと想像を巡らせていると、階下で馬車の止まる音がした。執事が扉をノックした。私は壁の時計に目を遣った。
――十一時四十五分。
「迎えの馬車が来ております。準備はよろしいですか」
私がああ、と答えると執事が扉を開けた。そのまま彼は硬直し、口に手を当てた。どうやら笑いをこらえているらしい。──この執事には珍しいことだ。
「旦那様、その服装は……」
「おかしいか?」
「いえ、そのようなことは──」
この会話は私の装いについて交わされたものだ。説明すると、私はちぢれっけのかつらをかぶり、だぶだぶの服を着てピエロの化粧をしていたのだ。
「五分したら出発すると申しておりましたので、他に御用がなければ馬車にお乗りください」
執事は巧みに笑いを隠すとそう言った。
私は階段を降り、庭で待っている御者に挨拶をした。背後から声を掛けられ驚くかと思ったが、御者は無表情のままお辞儀をして馬車の扉を開けた。
「留守を頼む」
私は後ろに立っている執事に言った。
「かしこまりました」
彼は礼儀正しく頭を下げた。
「ところで」
「は?」
「さっきどうして笑った?」
私は馬車に乗り込みながら執事に聞いた。馬車の戸が閉められた。
「恐れながら……」
御者が乗り込み綱を持った。
「あまりにお似合いだったもので」
私が反論しようとすると、御者が馬に鞭を当てた。
馬車がスッと走りだす。
「いってらっしゃいませ」
執事の声があっと言う間に闇に溶け込んでいった──。
──正確に八分後。
馬車は城の跳ね橋の前に着いた。橋は馬車が来るのを見計らったように下ろされた。
私は窓から城を見上げ感嘆の声を発した。以前の『廃墟』の面影は微塵もない。
美しい城壁。不気味に城を取り巻いていた蔦は影も形もない。
深い灰色だった水も城からのライトアップでキラキラと輝き、私がイメージしていたおどろおどろしい雰囲気は一気に払拭された。
馬車は城門をくぐり抜け、城の扉の前で止まった。御者が馬車の扉を開けて言った。
「招待状を拝見いたします」
私は胸のポケットから一枚の紙を取り出して、彼に渡した。
御者は招待状の封をしてある紋章を目にして一度頷くと私に手渡した。
「確かに。心より貴方様を歓迎致します」
私は御者の後について城に入った。彼は絨毯を敷きつめているとはいえ音ひとつ立てずに歩き、ある扉の前で足を止めた。
「この中でパーティが開かれております」
それにしては静かなものだ。
「間もなく主人が参りますので中でお待ち下さい」
御者は扉を開くとお辞儀をした。
中は真っ暗で何も見えない。だが怖じ気づいていると思われたくなかったので、私は足を踏み入れた。
背後で扉が閉まる微かな音がした。
──閉じ込められたのか!?
そう思った瞬間、スポットライトが一点を照らした。その中心には一人の人物が立っていた。
「レディース、アンド、ジェントルメン! 今宵はわざわざ当城にお越し頂きまして、誠に有り難うございます。紹介が遅れましたが、私が当城の主、カザリン・フォン・ドレフュスでございます」
美しい声が響きわたり、広間に明かりがともった。
城主は女性であった。私は主を男性だと思い込んでいたのでかなり驚いた。気付いてみれば広間にはかなりの招待客がいた。皆思い思いの変装をして仮面を付けているので、誰がいるのかハッキリしないのだが、舞台俳優のようなスマートな男性はおそらくこの城を世話した業者のドミニコだろう。彼には一度会ったことがある。
「ここにいらっしゃる皆様は明朝六時を過ぎた時点で御自宅までお送りさせて頂きます。それまでの時間をどうぞごゆるりとお過ごしくださいませ」
黒いマントがよく似合うその女性はシルクハットを取って優雅に一礼した。
突然拍手が起こり、つられたように皆も拍手をした。中心人物はドミニコだった。彼は当然といったように舞台から降りてきた婦人の手を取りエスコートした。
私はなんとなくばかばかしくなった。
──まるでドミニコのためのパーティのようだ。
私が思ったことを皆も思ったのか、心なしか場が白けた雰囲気になった。
ブラスバンドが場を和ませるような美しい音楽を奏ではじめた──と同時に一人また一人とビュッフェスタイルの食事に手を着けはじめ、あちこちで談笑の声が聞こえるようになった。給仕がワインのグラスを持って招待客の間を行ったり来たりしている。
私が何気なくミス・ドレフュスの方を見ると、ドミニコが彼女に親しげに笑いかけている。彼女は少し困ったような顔をして(本当は仮面のせいでちっとも分からないのだが)ドミニコに応対していた。
──あいつ、世話をしたことをいいことに口説こうとしているのか?
そんな考えが私の脳裏によぎった。
ドミニコとの初対面は、まだ私が家を継ぐ前だったと記憶する。場所は社交界の公式のパーティの席だった。
私は頭取のお供でそこに参加していたが、ドミニコはもうシティの一大実業家の一人としてその場の中心にいた。私より三、四才年上のはずだったが、どの年齢の女性にも好かれるような神秘的な顔の男だった。じっと見ていると頭取が近くにやって来て私の横で軽く舌打ちをした。
「あの男は──?」
私の質問に頭取は首を横に振って答えた。
「あいつはシティを中心に欧州各国の土地や、物件を扱う大手企業の重役だ。かなりあくどいこともやっていると聞いている。それに……」
そこまで頭取が言ったとき、彼が私の視線に気付き、女性たちの囲みのなかから「ちょっと失礼」とか言いながらこちらへやって来た。その気取った態度が、著しく私の彼に対する印象を悪くした。
「どこかでお会いしましたか」
いつの間にか頭取は姿を消していた。私は仕方なく一人で応対する羽目になった。
「いいえ、お初にお目にかかります」
「私に用がおありですかな?」
彼は私と同じぐらいの背丈のくせに見下すように喋る。私は当時(今も)いわゆる『エラそうなヤツ』が大嫌いだったので、つい嫌味を言ってしまった。
「いえ、あんまり風格がお有りなので、お若く見えますのにどこの社長さんでいらっしゃるのか、と思いまして──」
さっき重役だと聞いているくせに我ながら低次元だと多少自己嫌悪になったが、彼には効果的だったらしい。一瞬笑顔が歪んだ。
「──お名前をお聞かせ願いましょう」
彼はそれでも無理に微笑みながら怒りを隠すよう低い声で言った。
「ご自分から名乗られるのが礼儀では?」
私は更に怒らせるようなことを言った。案の定彼は顔を赤く変化させて今にもこの「無礼な青二才」に殴りかからんばかりだったがどうにかこらえて言った。
「私はヒューストンコンツェルンの代表取締役フィリックス・R・ドミニコです」
ドミニコ、と聞いたときに私はすぐにロイター家に古くから出入りしていた土地業者を思い出した。まさか、とは思ったが今更名乗らないわけには行かない。私は覚悟を決めていった。
「ミリガン銀行頭取秘書ジャック・S・ロイターと申します。数々の非礼、ご容赦下さい」
そこまで言うと私は一礼して踵を返し、遠く離れたテーブルから見守っていた頭取の側に行った。ドミニコは睨み付けるようにこちらを見ていた。
「どうだった?」
そうですね、とは答えたものの、私はかなりまずいと思っていた。父から、ドミニコ家とはトラブルを起こすなと固く言われていたのを今になって思い出した。
「ところで彼についての噂で、頭取が先ほど言いかけたことは何なんですか」
私は間を持たせるために、頭取に聞き返した。
「ああ、あいつは名うての女ったらしで、社交界でも有名なんだ」
頭取はまた首を横に振った。
「実は娘があれのファンでなあ」
「御心中お察し致します」
私はその時、心から頭取に同情した。
どう頑張ってみても、いつかは彼と衝突したに違いない。それが今日になっただけのことだ、そう思った。
これが執事の知らない「一方的契約破棄」の裏の事情だ。
そう、奴はジャック・S・ロイターという男の名を覚えていたのだ。
この城の契約が決まったという通知を送ってきたときの、彼の小躍りするような字が今でも思い出される。
『契約成立のお知らせをいたします。ロイター家より契約更新の申込みがございませんでしたので、以前より城をお買い求めになりたいとの再三のお申込みがあったドレフュス家との契約がこの程決定いたしました。
長年に渡っての契約の御解約は当方にとっても誠に残念ではありますが、機会がございましたら、是非またよろしくお願いいたします。
ドミニコ商会』
私は仮面の奥からドミニコを見た。相変わらずキザなやつだ。以前見た舞台の「オペラ座の怪人」のラウル子爵を装っている。当然二枚目俳優の役どころで、またこれが良く似合っている。私はピエロの装いを執事に「似合う」と言われたのをふと思い出して、思わず苦い顔をした。傍目からはきっと面白い顔をしたピエロ≠セとしか思われなかっただろう。
私は本来の目的を思い出した。メモに走り書きをして近くにいたウェイターを手招きする。
「はい、何でしょうか」
私はチップとメモを手渡した。
「これをご主人様に渡してくれ。私からだとは言わずに頼む」
ウェイターはチップを見てにっこりと頷いた。
「かしこまりました」
メモには、この城を自由に歩き回る許可がもらえるかどうか、そしてドミニコがいかに危険な人物かということを記した。
更に、もし許可をもらえるなら二回頷き、駄目ならばテーブルに置いてあるシルクハットに手を置いてほしいと自分の名前を添えて書き加えた。
私は遠くからウェイターが彼女にメモを渡すのを見た。彼女はウェイターに礼を言い、うまくドミニコの目には触れないようにメモを読んだ。
彼女はちらっとドミニコの方に目を遣ってまたメモに視線を戻した。そして立ち上がりぐるっと周囲を見回した。──メモの差出人を探しているのだろう。私は気付かれないように彼女のほうを見ていた。
彼女はまた席に着いた。ドミニコが何事かと尋ねているようだが、彼女は笑って首を振った──縦に、二度。
私は扉の近くに立っているドアマンに城を見て回る旨を伝えた。ドアマンは何も言わず扉を開けてくれた。私は廊下に滑り込むように出て、広間を後にした。
広間を出るとすぐ洗面所に駆け込む。
──この格好では目立って仕方がない。
いくら許可が出ているとはいえ、誰かに会ったときピエロでは申し開きが出来ない気がする。
私は顔を洗い、だぶついた衣服を脱いだ。 服の下にはもともとの正装である黒のタキシードを着ていたので、別に変では無いだろう。まあ、ドミニコのように二枚目ではないが見られないわけでもない。
私は仮面を付け直して鏡を見た。
──おっと、こいつを忘れるところだった。
ピシッときめたタキシード姿にあまりに似つかわしくないちぢれっけのかつらである。それも持参した袋に投げ込んで奥の洗面所に隠した。
再び廊下に出ると、広間の物音は少しも聞こえなかった。
足をしのばせる必要はない。敷きつめられた絨毯が足音を消してくれる。
別にこそこそすることはないのだが、こういうシチュエーションだと自然にそうなってしまう。
──とにかく上に行ってみよう。
私は階段を探しはじめた。
広い城だ。天井も高い。ほのかに辺りが明るいのは、天井から下がっている幾つもの豪華なシャンデリアのせいだ。
私はどんな手掛かりも見逃すまい、と周囲に気を配りながらゆっくりと歩いた。
廊下の端まで行くと、ヨーロッパスタイルそのものといった螺旋状の階段があった。見上げると、階段は幾重にも輪を描いていた。
──そうか、ここは一階だったな。
私は胸ポケットから懐中時計を取り出し、時刻を確かめた。
「一時十五分か」
勿論深夜である。私は「謎」を解くという興奮のためか、ちっとも眠くなかった。
階段に足を掛け、一段目を上がろうとしたとき、廊下の向こう側から話し声が聞こえてきた。私は慌てて階段の柱の陰に身をひそめた。
「……どうにかしてあいつより先に『遺産』を見つけ出すんだ」
「ですがドミニコ様。既に城はドレフュス家のもの。見つけ出したとしても優先権はあの御婦人に──」
私は慄然とした。『遺産』と言ったか?
「俺は社交界の貴公子(プリンス)≠ニ言われた男だぜ。女の一人や二人、どうってことないさ」
「──随分苦戦なさっているようですが……」
「何か言ったか?」
「いえいえ、めっそうもない」
思わず吹き出しそうになったが、笑っている場合では無さそうだ。
『遺産』はおそらく我がロイター家のものだろう。あきれた奴だ。人様の家の伝統を土足で踏みにじるような真似をしやがる。
人影が階段のところまでやって来た。柱のところで立ち止まる。私は息を止めるようにして気配を殺した。
ドミニコの声が低くなる。
「親父はロイター家の『鍵』を預かっていた。俺がいくら頼んでも教えちゃくれなかったが、俺は偶然に見つけたんだ」
何だと? 『鍵』を持っているのか。道理で私に届かないわけだ。
ドミニコの声は次第に熱を帯びてきた。
「親父は俺を止めた。奴は古くさい契約にこだわってあの城を手放そうとしないし、だから、仕方がなかったんだ」
仕方がなかった、という言葉に私は違和感を感じた。まさか──!
良く聞けば、もう一人の声はあの御者らしい。ドミニコとぐるだったのか……。
「まあ過ぎたことはいい。とにかく『鍵』がある分こちらが有利だ。さあ、行くぞ」
ドミニコと御者は階段を上りはじめた。
何という奴だ。あいつ、人の家の『遺産』を横取りしたいがために、父親を──?
私は人懐っこい笑みを浮かべた、ちょっと太った土地業者を思い出した。彼と私の父とは仲がよく、父の葬式には大粒の涙を流して埋葬まで同行してくれた。そういえば彼が亡くなったと聞いたのは、父が他界して一月と経たないうちだった。
私は唇を噛みしめた。もっと早くに私が家を継ぎ、彼と契約をしていれば──。
私が選択を迷ったあの一月の間に彼はおそらく「殺された」のだ、自分とかかわりのないロイター家の遺産のために──しかも実の息子の手にかかって。
──必ず、遺産を相続してやる。我がロイター家の伝統と、そして、先代のドミニコ氏のためにも──。
私は拳を握りしめた。ドミニコになど渡すものか。
私は彼等の後を追おうとしたが、上を見上げて踏みとどまった。此処は螺旋階段なのだから、そのまま追えばおそらく見つかるだろう。
戻ろう。戻って城主に話してみよう。
私はパーティ会場に戻るために今来た廊下を戻ろうとした。
「お待ちください。ロイター伯」
静かだがはっきりとした声が私を呼んだ。
「マダム──」
「こちらへどうぞ」
扉のなかから手招きしているのは、紛れもなく城主その人であった。
一方ドミニコ氏は、終わりのない螺旋に焦りを感じ始めていた。
「おいっ! いつになれば上に着くんだ」
御者は言葉を返せなかった。───疲れてドミニコのずっと後ろを歩いていたので、聞こえなかったのだ。
もう、かれこれ十分も階段を上りつづけていた。いくら広い城といっても限度がある。
「俺は一度この城をくまなく歩き回っているのに、こんなはずは……」
彼はうっかり失念していたが、その時はここの螺旋階段ではなく正面玄関のすぐ横にある階段だったのだ。螺旋階段は城の間取り図に記載されていなかった。
「ドミニコ様、下を、下を御覧下さい!」
御者の掠れんばかりの声に、ドミニコ氏は螺旋階段の手すりから身を乗り出し、そして絶句した。
「何、だと──」
彼等は螺旋を二周していただけであった。そういえば壁に掛かっている絵はさっきから同じ物だ。複製画にしては数がありすぎる。 ドミニコ氏は一段、階段を降りてみた。そしてまた一段。やがて螺旋の渦を一周して彼は壁を見た。
同じ絵。そして階下に続く二周分の螺旋。
彼は思わず階段に座り込んだ。御者も動かなくなったのか、お互いの息づかいさえ聞こえない。
だが、急速にドミニコ氏の目に狡猾そうな輝きが戻った。
「……まあ、これくらいの困難がなくっちゃ張り合いがない。行かせないのなら待つさ。どうせ、奴が動くのも今夜のうちだ」
「マダム、お話があるのです」
貴婦人は仮面を取ると優雅な物腰で椅子に座り、私にも椅子をすすめた。
私は軽く会釈を返し椅子に腰掛けた。
「お呼び止めしたのは、貴方がロイター家の方だからです。貴方には質問する権利が御有りだし、私には答える義務がございます」
私も仮面を取った。
「感謝いたします」
彼女は私が思っていたより随分若かった。掛け値なしの美女である。
「どうして私がロイターだと?」
「存じあげておりますわ。以前お会いしましたし」
私はこんな美人にあった記憶は無かった。
「どこでお目に掛かりましたか」
私の問いに彼女は懐かしい目をして
「もう、十五年になりますわ」
と言った。
私は遠い記憶を辿る。そういえば、この美しい緑色の瞳に何となく見覚えがある。
「覚えてはいらっしゃいませんか、十二歳の頃に一度サンタ・ブレアの森≠ナ一緒に木の実を拾った幼い少女のことを」
あっ、と私は声を上げた。
「じゃ、あの時の──」
彼女は美しく微笑み頷いた。
──私は幼いころ夏休みになると、田舎のロイターの本家に遊びにやって来ていた。そして敷地内にあった森のなかでよく遊んだものだった。
十五年前も例外ではなく、私は一人で森のなかを探索していた。遊び相手となるような同い年の子供はいなかったが、普段から一人で森を歩くのが好きな「風変わりな子供」であった私は(自分では普通だと思っていたが)ある日、バスケットに溢れんばかりの木の実を拾っていた、三つ編みの少女に出会った。
「何をしているの?」
ごく普通の質問だったと思ったが、彼女は私を見るなり逃げだした。
これにはびっくりして、私はとにかく彼女の後を追った。
彼女はやがて足を止めた。さほど走っていない距離だったが、森はさっきより深くなっていた。
私が彼女に追いつくと、彼女はじっと私を見つめた。
「あなた、ここの森の人でしょう?」
歳は大体同じぐらいだろう。大きな瞳はきれいな緑色をしていた。
「森は誰の物でもないさ」
私の答えに、彼女はあっけに取られたようだった。
「ロイター家の人なんでしょう?」
繰り返し彼女は聞く。
「まあ、そうだけど」
「怒らないの?」
「なぜ?」
彼女は拍子抜けしたように座り込んだ。
「ドレスがよごれるよ」
私は彼女に手を差し出した。
「私──、無断であなたの土地に入って木の実を取ってしまって……」
「木の実──無くなっちゃったね」
彼女は慌てたようにバスケットのなかを見た。さっき走ったときにほとんど全部落としたらしい。
彼女は私の手をとり立ち上がると言った。
「まあ、仕方がないわね。無断で取った物だし、これで犯罪にならなくて済むわ」
そのさばさばした表情に私は心を動かされた。
いつもなら女の子に声を掛けると、あがってしまう私が、積極的に彼女の手を取って歩きだしたものだ。
彼女は驚いて立ち止まった。
「お父様に言いつけるつもり?」
瞳が潤んでいる。私は少々慌てて言った。
「さっき言ったろ。森は誰の物でもないし当然木の実だって同じだ。確かに、うちは所有者だけど、元々は個人の持ち物じゃない」
「誰の物なの?」
「地球の物≠ウ」
彼女は一瞬の間の後言った。
「あなた、変わってるわ」
私はよく言われることなので別に気にせずに、また彼女の手を引いて歩きだした。
「どこへ行くの」
彼女は不安げに聞く。
「いっぱい、木の実を採れる場所を知っているんだ。さっき落としたのは僕が驚かせたせいだもの。そのバスケットに入るぐらいは採れると思うんだ、あれ?」
私は彼女のほうを振り返った。彼女の瞳からは、はらはらと涙がこぼれていた。
私は大いに困って手を放した。
「ごめん、嫌だったらいいんだ」
強引な振る舞いのせいで彼女を怯えさせてしまったに違いない、そう私は思った。
だが彼女は左右に首を振った。そして涙を拭くと花が咲いたように笑った。
「さっきの言葉、撤回するわね」
私はわけが分からず聞き返した。
「何のこと?」
彼女は改めて私の手を取った。
「連れていってください、ロイター伯」
私は顔をしかめた。
「よしてくれ、堅苦しい。しかも僕はまだ家を継いじゃいないんだ」
彼女はニコッと笑う。
「いつか、また会えたら──」
「え?」
そのとき急に風が吹いて木の葉がザワザワと鳴り、彼女の声を消してしまった。
「え、何?」
と私は聞き返したが、その声もかき消されてしまったようだった。
彼女は小さく微笑み、やっぱり私はわけが分からなかったが、取り合えず曖昧に頷くと先に立って歩きだした。
その後、木の実を山ほど拾って彼女と別れたが、以後会うことはなかった。そういえば名前も聞かなかった。
その「記憶」は思い出すたびに何となく懐かしさと同時に寂しさを伴った。それが私の初恋だったと気付いたのは、大学を卒業して一人暮らしを始めたころ、軽いホームシックにかかったときだった。
「ああ、そうでしたか───」
何と言っていいか分からず、私は芸のない言葉を呟いた。
「やはり、ロイター家を継がれたのは、貴方様だったのですね」
彼女の目に私に対する過分な尊敬の意を見て、私は跡取りが一人しかいないことを慌てて説明した。
「貴女こそ、ドレフュス家の方だとは知りませんでした」
私の言葉に彼女はコロコロと笑った。
「あの日、サンタ・ブレアの森で私たちが出会ったのには理由があったのです」
彼女が言うには、その日に、彼女の父親であるドレフュス公が、廃墟と化している城をぜひ譲ってほしいと、直接私の祖父に言いにきたらしい。
だが祖父は当時体が弱っており、話し合いが出来る状況ではなかった。代理として話をしたのは父だったが、そのときに、ある条件を提起して妥結した。
一、次の代(つまり父の代)までは、所有権はロイター家を優先とする。
二、ただし、その後はドミニコ氏との契約を交わした方が優先する。
三、代々のロイター家当主が城を訪ねる際には、可能な限り応じること。
四、城の所有者は、案内人の役割を果たす義務を負うこと。
かなりロイター家に有利な条件であるが、ドレフュス公は快く承諾し、帰っていったという。
彼女はそのときの文書を古い木箱から取り出し、私に差し出した。
私はそれを確認し、文書を返した。
「じゃあ、貴女が案内人に?」
「はい」
貴婦人は立ち上がり、続き部屋から細長い箱を持ってきた。
「ロイター家の方ならば本来『鍵』をお持ちのはず。ですが、貴方様はどうやらお持ちでない御様子ですわね」
「実はそのことで、貴女にご相談があるのです」
私はやっと初期の目的を思い出した。
「実は──」
私はドミニコのことを話した。奴がおそらく父親を害したこと、『鍵』はドミニコが不当な手段で手に入れ、現在、上に向かっていること。
そこまで話して私は急に不安に襲われた。
──もう、奴は遺産を手に入れてしまったのではないだろうか。
壁の時計を見た。針は既に二時を回っている。
そんな私の態度を見て案内人は頷いた。
「参りましょうか。おそらく、まだドミニコ氏は到達できていないはずです」
彼女は私の話をそのまま信じてくれた。私は思わず彼女の手を取ってひざまずいた。
「有り難うございます」
城主は咄嗟に私の手を引き、立ち上がらせた。
「ロイター家当主ともあろうお方が、むやみに膝を屈してはなりません。まして私はただの案内人にすぎないのですから」
ほんの少しの動揺と、それを感じさせないほどの毅然とした態度は昔と変わらない。私の胸に十五年前の出来事がよみがえった。同時に、何か温かい感情が流れ込んでくる。
私はもう一度彼女の手を取った。
「私が遺産を相続できたら、ぜひ一度我が家へお越しください。D城城主としてではなく一人のゲストとして……」
彼女は驚いたように私を見、わずかに頬を赤らめて私の手に自分の手を重ねた。
「光栄ですわ」
そういうと彼女は一層美しく微笑んだ。
御者が不意に叫んだ。
「ドミニコ様! 絵の後ろに妙な物があります!」
ドミニコ氏は弾かれたように立ち上がり、階段を駆け降りようとして思い止まった。
「おっと、動いちゃいけない」
「どうしましょう」
寸分のためらいもなく、ドミニコ氏は指示を出した。
「動かせるなら、動かせ」
今置かれている状況を考えれば、多少なりとも危険が伴うことは明白で、誰でも行動を起こすのに多少は迷うだろう。
──壁が崩れるかもしれない。
──天井が落ちるかもしれない。
──今閉じ込められている時空の迷路に迷い込み、出られなくなるかもしれない。
だが、彼は楽観的だった。おそらく何が起こるにしても彼自身は大丈夫だろう。被害を被るのは御者であって、自分ではない。
そう、要するに彼は、他人が傷つくのは一向に構わないのである。
それを知っている御者は、壁についているレバーに手は掛けたもののそれを引くのを迷った。ドミニコ氏と同じように彼も、もし被害を受けるなら自分であると考えていた。
そのとき、男女二人の話し声が聞こえてきた。
──もう、ためらっている暇はない。
彼は目を閉じて力一杯手を引いた──。
「何故、今夜をパーティの日に選んだのかおわかりですか?」
彼女は扉を開けながら言う。私は無言で首を振った。
「一年に一度、遺産を相続できる日が今日なのです。真夏の満月の夜です」
「満月ならばいつでも良いのでは?」
私の問いに今度は彼女が首を振り、遠い目をして口を開く。
「遙か悠久の昔より、言い伝えられし伝説の城、その名はドレフュス──満月への扉の『鍵』となる。終わりなき渦に月の影かかるとき、その扉開かれん……」
「その文句は──?」
「代々の案内人に伝えられるものです。普通この城の城主となった人間が、城の所有権とともに案内人の役目も引き継ぎます。今まではドミニコ氏がその案内人でした」
「じゃ、奴が?」
私は不快感もあらわに言った。
「いいえ、ロイター伯。彼は何も知りません。私は先代のドミニコ氏から案内人を引き継いでいるのです」
私の胸に一つの疑問がわいた。
──先代のドミニコ氏は、城がドレフュスの手に渡ることを知っていたのか?
「私は生まれたときから、案内人になることが決められていました。私は──」
彼女は突然口を閉じた。
「どうしました?」
「誰かが扉を開いています。まさか、知っているはずはないのに……」
そういえば、「ゴゴゴゴゴ…」と何か重たい物が動いているような音がする。彼女は走りだした。私も慌てて後を追う。
螺旋階段の下まで来て、彼女は上を見上げた。私は思わず息を呑んだ。
それはまるで夢のような光景だった。
天井が割れ、漆黒の闇に太陽のように明るく輝く満月が覗き込んでいる。すると驚いたことに、螺旋階段が上へとエスカレーターのように上昇しはじめたのだ。彼女は階段に飛び乗り私の手を引いた。
「早くお乗りください! 誰が動かしたにせよ扉は開いてしまった。貴方が遺産の相続をするには、少なくとも彼に追いつかなければなりません」
私が飛び乗ると、階段はそれを待っていたかのように速度を上げた。
「案内人は『遺産』のある場所まで案内することしかできません。そこの扉の『鍵』はドミニコ氏が持っています」
私は変に落ち着いていた。どうしてだかわからないが、必ず遺産を相続できるという確信めいた気持ちがあったのだ。
私は上昇を続ける階段を上りはじめた。
MASQUERADE 後編
ドミニコ氏も、そのころ上へと向かっていた。さっきまでの疲れは全く無い。
彼は階段の上部に到達点を見つけ、更に足を早めた。
到達点はどうやら、この城のいちばん高い塔の最上階のようだった。その証拠に彼がやっと階段を上りおえ、上を見上げると、開いた天井がすぐ上に見え、月光が眩しいぐらいに射し込んできていた。
彼は部屋を探そうと辺りを見回して、一人苦笑した。何のことはない。部屋はたった一つだったのだ。
彼はその扉の前に立ち、『鍵』を取り出した。そのとき後ろから声が掛かった。
「フィリックス。ゆっくりと両手を上げてこっちを向いてもらおう」
その声はさっきまで彼の忠実な下僕であったはずの御者のものだった。
「どういう風の吹き回しだ、これは?」
拳銃の存在を感じながら、彼は『鍵』を手したまま両手を上げた。
「お前さんの役目はここまでさ。後は俺がお宝を手に入れて、はい、サヨナラよ」
御者は陽気に笑うと厳しい口調で叫んだ。
「早く手を上げてこっちを向くんだ!!」
御者は、自分の有利を明らかに過信していた。だからとっさのドミニコ氏の反撃に対処できなかった。彼は絶対に手放すはずはないと思っていた『鍵』を振り向きざまに投げつけたのだ。
『鍵』は、鈍い音とともに鼻に当たり、御者は顔を押さえてうずくまった。その際落とした拳銃をドミニコ氏は素早く拾い上げ、銃口を御者に向けた。
御者はそれを見て顔を押さえたまま後退りした。そのまま哀願する。
「な、なあ。待ってくれよ。俺が間違っていた。あんたに逆らうなんて、俺はどうかしてたんだ。頼む! 殺さないでくれ。二度とこんなことはしないから──」
ドミニコ氏は冷たい視線を投げかけ『鍵』を拾うと、銃の安全装置を外した。
「最初っからお前など信用していない。今度のことが終われば、始末するつもりだった。──自分で寿命を縮めることになるとはな」
ドミニコ氏はためらうこと無く引き金を引いた。外れるなど、思いも寄らない。だが弾丸は御者の頭まで届かずに、わずか五センチメートルを飛んで、床に落ちた。
もう、一発。結果は同じだった。御者は思わず笑いだした。
「こんなところで、銃が壊れるなんてな。ハーッハッハッハ。俺も運がいいや」
彼は正確に三秒後、ドミニコ氏の眼光に出会ってその舌を凍らせた。そんな事を言っているあいだに逃げればよかったのだ。
ドミニコ氏は相変わらず冷たい目で御者を見据えた。
「馬鹿な奴だ。銃以外でもお前を殺すことなど簡単なこと。──だが、気が変わった。おい、言っておくがこの銃は壊れちゃいないぜ」
ドミニコ氏はそういうとニヤッと笑った。
「じゃ、じゃあ何で──?」
御者は喉がくっつきそうになるのを感じながら、やっと声を出した。再び恐怖の表情が顔に広がっていく。
「さあ、やはりこの妙な城のせいか、それとも……」
ドミニコ氏は一瞬の間を置き、今度は笑いもせずに言った。
「俺の腕がよっぽど悪いんだろうよ」
御者は本気で、この城に来たことを後悔した。
──もう、生きては帰れない。
そんな不吉な予感が芽生え、彼は慌ててそれを打ち消し、別の言葉を思い浮かべた。
──いつか、チャンスは来る。
決して諦めないことが彼の長所であったが今回はそれが災いすることになることを、まだ彼は知らない。
「大丈夫ですか」
私はすぐ後ろにいる女性に声を掛ける。
「お気になさらず。どうぞ先をお急ぎください」
確かに、急がねばならない。奴は『鍵』を持っているのだ。
「一つお尋ねしたいのですが」
私は後ろを見ずに訪ねた。
「何故貴女は先代のドミニコ氏から案内人≠受け継いだ、いや、受け継ぐことが出来たのですか?」
彼女は立ち止まった。つられてわたしの足も止まる。
「お答えすべきでしょうね」
私は振り返り彼女を見た。
「先代は、私の実父です」
彼女は階段の上を指さし言った。
「先を急ぎましょう。彼が、フィリックスが遺産を継ぐ資格は無いのですから」
彼女の言葉に少しの憎しみめいたものが含まれた気がした。私はそれ以上は聞かずに上を見上げた。
螺旋の渦は、後一周で終わりだ。
「俺が扉を開けたらお前が先に入るんだ」
ドミニコ氏の言葉に、御者はぶるっと身震いした。
「それが終わったら解放してやる」
「ほ、本当に?」
「俺はしつこい奴は嫌いだ」
ドミニコ氏は扉のノブを回した。
鍵はかけられていない。彼は扉を開き、顎をしゃくった。
仕方なく御者はおそるおそる覗き込む。その背中をドミニコ氏が容赦なく突き飛ばしたので、御者はよろけながら室内の真ん中においてある箱に手を触れてしまった。
その瞬間凄まじい悲鳴が響きわたった。
「ウワーッ!!」
そのころ、やっと最後の段に足を掛けていた私は、案内人と顔を見合わせた。と同時に半開きになった扉に駆け寄る。
私はそこで中を見ると、同じように中を見ようとした案内人を手で制した。
箱の横にドミニコが立っている。私は彼女に扉の前で待っているよう念を押し、中へ入った。
彼は私の気配に気付き振り返った。その顔は変に落ち着いている。
「お前がやったのか?」
私は彼の足元に転がっている人間らしき影を見つめていった。
「どうやって?」
ドミニコはふてぶてしく答えた。
明らかにそれは'影'だった。箱にしがみつくようにくっついている影は、平面的で、無機的だった。
「『鍵』を渡してもらおう。それはお前の物じゃない」
「いいだろう」
彼はあっさりと『鍵』を渡した。
私はちょっと拍子抜けした。どんな抵抗があるかと思っていたのだが。
私は初めて『鍵』を目にした。
「これは……」
「俺にはお手上げさ。折角ここまで来たのに、やっぱりロイター家の人間にしか開けられないように出来ていやがる」
ドミニコは両手を上げ、床に座り込んだ。
「遺産ってのはどんなものか、俺にも見せてくれよ。なあ、いいだろジャック?」
私は、彼の軽口に答えている余裕が無かった。
『鍵』はオカリナの形をしていた。要するに、何か曲を吹けという事なのだろう。
そういえばずっと昔に、祖父が繰り返し歌っては『いつか思い出すときが来る』と言っていた歌がある。
──どう、だったか。
自慢ではないが、私は学生時代に音楽を始めとする芸術点で、一度も「優」を取ったことがない。
私は焦ってきた。記憶力の無さを今更のように思い知る。頭を抱えたくなる衝動にどうにか堪えて目を月に向けると、祖父が微笑んでいるように見え、同時にある歌が頭のなかに流れ込んできた。
──ああ、この曲だ!
ドミニコが苛立たしそうに床を踏み鳴らした。
「おいおい、いい加減にしてくれないか? 俺はこれから美しい御婦人と、大事なお話があるんだから」
「それはどなたのことですの?」
扉を開け、貴婦人が中に入ってきた。
「いけない、戻るんだ!」
私は咄嗟に叫んだ。しかしそれは裏目に出ることになった。ドミニコは飛び上がるように立ち上がり、彼女を人質に取ったのだ。
ドミニコは彼女の頭に銃を突きつけ、やおら怒鳴った。今までの軽薄そうな男とは別人のようだ。
「さあ、開けてもらおうか。貴様の大事な御婦人の顔に穴が開く前にな!」
彼女は下を向いたまま動かない。恐怖で動けないのか? 少し置いて私は頷いた。
「いいか? その人に傷一つ付けてみろ。お前の手には決して遺産は入らない」
ドミニコは無言で私を促した。
私は彼女に目を遣り、一つ深呼吸をするとオカリナを口に当て、息を吹き込んだ。
柔らかなメロディーが流れだす。不思議なことに私はその曲を全く演奏したことがないうえ、オカリナという楽器に触れたこともないのに、一度たりとも間違えなかった。
その時だった。月の光が箱にかかると同時に、幾つもの黒い「影」がゆらゆらと立ち上がったのだ。その中には、人間からただの「影」に姿を変えたばかりの御者も含まれていた。おそらく今までに『遺産』を狙ってやってきたものの、故意か偶然か、箱に手を触れてしまった者達なのだろう。
「影」たちは月の光に誘われるように次々と窓から出てゆく。私たちは呆然とその光景を見ていた。
最初に動いたのはドミニコだった。奴は案内人に銃を突きつけたまま、箱に近寄り言った。
「箱を開けろ」
彼女の顔は下を向いていてその表情は分からない。
私は従うことにした。どうせ箱は開けなければならないのだし、今動いても彼女を救う機会は無さそうだ。
──私も「影」になってしまうのか。
もしそうなら、奴が平気なはずはない。それは願望ではなく確信だった。
「私は、正式なロイター家の後継者だ」
誰に、と言うわけでもなく私は呟き、箱に手を触れた。
ビリッとした感触が腕を伝い、背中を通ってやがて全身へと広がる。私は手を箱の蓋にかけ、一気にはね上げた。
突然月が雲に隠れ、他に明かりのない部屋は闇に包まれた。私は正確に奴の所へ駆け寄り、銃をもぎ取ると彼女を自分のほうに引き寄せた。
月が現れる。私はしっかりと奴のほうに銃口を向けた。だが──。
私は無言で腕を下ろした。もう、奴には脅しの必要は無くなっていた。
彼の胸には、女性用に軽く作られた小型のナイフが深々と呑み込まれていた。
ドミニコは手を空中に差し伸べ、よろめいた。目はじっと彼女を見つめている。
「そん、な、馬鹿な……」
私は彼女に目を向けた。彼女は少し震えているが、目は強く奴を見据えていた。
「カザリン……、そうか、お前さんが親父の言っていた本当の後継者か──」
ドミニコは膝を付いた。唇の端から赤い筋があごに伝わり、床に落ちた。
「どうしてそれが?」
彼女は私の手を強く握りしめて言う。
「今気付いた……。最後の最後で気付くとは、俺もとんだ間抜けだったな」
そういうとドミニコは大きく息をついて言った。
「このナイフについているムーンストーンの周りを飾る紋章はドミニコ家のものだ。昔、親父が言っていたのを聞いたことがある。『フィリックスは後継者にはなれん。養子にはその資格が無い』と……」
「フィリックス──」
彼女は意外なほど優しく奴の名を呼んだ。
「あんたには、わからんだろうな……。養子という理由でさげすまされた俺の気持ちが……」
彼女は涙を浮かべ奴に近づこうとした。
月がドミニコの体を照らしている。私は何かが光ったのを目にし、同時に起こる事態を察知した。
「伏せろ!!」
私は叫ぶと彼女を抱え込み、箱の影に飛び込んだ。奴のほうを見ると今までの悲痛そうな表情は消え失せ、憎しみに満ちた目が燃えるように私を睨んでいた。刹那、まぶしい光がドミニコを包む。やや遅れて耳をつんざくような爆音が響き、風が埃を舞い上げた。
風が止み、私は箱の影から這い出た。其処には、月に反射するムーンストーンの付いたナイフが落ちている以外に何もなかった。
「夜が、明けてしまいます」
彼女が月を見ながら言った。月は白んできた空に溶け込もうとしている。私は時計を見た。
───五時十分。
「夜が明けると、どうなるのですか?」
私の問いかけに、彼女は答える。
「月が消えます。いえ、正確には月の光がここまで届かなくなるのです。そうすればこの部屋ごと螺旋の渦のなかに巻き込まれます。この部屋は元々空間の歪んだ場所なのです」
では落ち着いている場合ではない。私は箱に駆け寄り、中を覗き込んだ。
何かの金属で出来た箱が入っている。私はそれを取り出し蓋を開けようとした。
──開かない。
いくら力を入れても蓋は重く沈黙したままだ。そのとき、微かに地面が揺れた。私は彼女の顔を見つめる。彼女は床に落ちているナイフを取り上げると、頷いた。
「急がなくては。私はともかくロイター家の御当主を巻き込むわけにはいきません」
彼女は扉を開くと私を促した。「さあ、早く」
私は箱を掴んだまま月を見た。今にも消えてしまいそうだ。
私は彼女の手を取ると階段のほうに行こうとした。だが奇妙な空気の壁があり、容易に前に進めない。私は方向を転換した。
「そちらには壁しかありません」
案内人が言ったが、私には分かっていた。遙か昔、ここには抜け道があったことを。さっきの歌とともに、古い記憶がよみがえった。
私は壁まで行き着くと、やや色が白い石の一つにに手を置いた。
「ここへ来たことがあるのです。ずっと昔に、まだこの城が廃墟だったときに」
彼女が短く声を上げた。
「壁が───」
この城は中世の貴族の城で、敵の進入に対していつでも逃げられるようにあちらこちらに仕掛けがしてある、と祖父が幼い私に説明してくれたのはまさに今日の日のためだったのか。
壁が一箇所だけ空間を創りだした。人ひとりがやっと通り抜けられる広さだ。私は彼女を先に行かせようとした。だが彼女は動かない。「どうしました。早く……」
私の言葉を遮って彼女は言った。
「私、人を殺しました。今、このまま外に出てお父様の恥をさらす真似はできない。それならいっそ、ここで彼──フィリックスと一緒に行方不明≠ノでもなったほうがいいのです。どうぞ行ってください。貴方様を無事お送りするのが、私の案内人としての最後の仕事です」
もう月が消えかけているのだろう。螺旋の渦が彼女の背後まで迫っている。今にもそこにある全ての物を巻き込まんばかりだ。
私は彼女の手を引いた。彼女は振り払おうとする。私は彼女を助けたいという気持ちと汚名を負うくらいなら死んだほうがいいと言う考え方への反発から必死に怒鳴っていた。
「地位とか名誉なんて人間が生きるために特に必要なものじゃない。まして自分ではなく他人の名誉のために自分の意思を殺すなんて、決してあってはならないことだ」
「他人じゃない、父だわ!」
「でも、貴女じゃない」
「それは──」
彼女は目を伏せた。
「貴女はお父さんの名誉という大義名分のもとで自分を守ろうとしている。違いますか。今ここで死んでしまえば、たしかに楽でしょう。罪を問われることもなく、良心の呵責に捕らわれることもない」
「やめて!」
彼女は耳を覆った。
「いいえ、やめません。私は貴女に逃げてほしくないのです。現実は容赦なく貴女を苦しめる。でもここで死ぬことは勝負の勝ち負け以前の問題です。貴女は勝負を最初から放棄しようとしているんですよ。人生という一生を賭ける大勝負をね」
渦がうねるように彼女に襲いかかる。私は彼女を壁の隙間に引き込み、半ば抱え込むように螺旋から遠ざかった。
少し歩くと階段があった。
「ここを下りると、城の裏庭に出るはずです。そこからは貴女の決めることです」
彼女は私の手を握ったまま顔を上げた。美しい瞳は以前の輝きを取り戻している。彼女は明らかに生きる意志を取り戻していた。
「助けていただいて有り難うございます」
彼女は頭を下げた。
「よしてくれ。お礼を言われるようなことはしていない」
それ以上何を言っていいか私には分からなかった。
「貴方様は昔と少しも変わらない。もしまためぐり会うことがあれば、きっと言おうと思っていたことがあるのです」
彼女は悪戯っ子のような笑みを浮かべた。そういえば、あのとき彼女は何か言っていた。風で聞こえなかったんだ。
「あれから十五年。私は貴方のような人とは他に出会いませんでした。貴方は『木の実は自分のものじゃない、地球のものだ』とおっしゃった。そうやって割り切れる考え方は私に大きなショックでした。いつか また会えたら、変な人と言ってしまったことを撤回して、それから──」
私は何気なく時計を見た。
──五時五十五分。
「大変だ。パーティは確か……」
彼女は落ち着いたものだ。
「ええ、六時までで、その後は皆さんをお送りするのでしたわね」
「会場に戻らなくては。貴方が戻らないと皆が心配します」
「では戻ったほうがいいでしょうか?」
私は頷き言った。
「勿論です。きちんとけじめはつけなくては」
「人を殺してしまったのです。このまま警察へ行こうと思うのですが──」
私は言葉に詰まった。
「でも、取りあえずは──」
歩きだそうとしたとき、金属の箱が床に落ちた。「そうだ、忘れてた」
いい加減なものだ。
私は箱を取り上げ、今一度蓋を開けようと試みた。やはり開かない。しかし、これを開けることがおそらく『遺産』を相続することなのだ。
私は不毛な努力を止め、鍵が掛かっているのかどうかを確かめた。
──ん? 何だこれは。
どうやら鍵穴らしきものはある。だがそこには一つの小さな石が付いている以外には一ミリの隙間もない。
「貸してください」
急に彼女が箱を私の手から奪い取った。
「この石は……」
彼女は何か言いながら、さっきドミニコを刺したナイフを箱の石に当てた。
すると、今までびくともしなかった蓋が、音もなく開いたではないか!
「私、最後にお役に立てたようですわね。これはロイター家の物です。はい──」
彼女はそういうと箱を私に手渡した。
「では、パーティを終わらせ、警察へ参ります」
彼女は一礼すると階段を降りていった。
私は彼女を黙然と見送り、箱の中を見た。中に入っていたのは……。
私は「それ」を持って、すぐに彼女の後を追った。彼女はもう扉を開け、外に出るところだった。
「マダム・ドレフュス!」
彼女は驚いたように振り返った。私は彼女に追いつき、彼女の手を取った。
彼女は不思議そうに私を見た。
「貴女にまだ教えてもらっていません」
「え?」
「いつかまた会えたら……と」
彼女は上を見上げた。
もう月は殆ど見えない。
城の鐘が鳴った。
「パーティの終わりの合図ですわ」
彼女の瞳にうっすらと涙が浮かんだ。
「いつかまた会えたら、ロイター伯。私は 貴方の──」
私は彼女の口を人指し指でふさいだ。
「これを受け取ってください」
私は一つの指輪を差し出した。それこそが『遺産』だった。
「これは、ロイター家の遺産では?」
彼女は首を横に振った。
「いただけません、このような大切な品」
私は彼女の手に軽くキスをした。
「お待ちしています。これはその約束のようなものです。これは確かにロイター家のものです。だから、あの、これを付けて下さいませんか?」
彼女は分からない、と言うように私の顔を見る。私はしどろもどろになりながら思い切ったように言う。
「貴女さえ、お嫌でなければ、ロイター家の人間になってください。私はさっき貴女に偉そうな事を言ったけど、単に貴女を助けたい、死なせたくない一心でした。勝手ですけれど、どうか受け取って──」
私は彼女の左手の薬指に指輪を入れた。
彼女は顔を両手で覆い泣きだした。
鐘が鳴り続ける。
──四回、五回・・・。
鐘の音に呼応して鳥たちがさえずりはじめた。
月が一瞬光を放つ。その光は彼女の涙で濡れた指輪の石──ムーンストーンに吸い込まれた。
指輪が輝き始めた。彼女も私も、驚いて指輪を見つめる。
指輪は一筋の光を地面に落とし、やがてその光は人間の形をとりはじめた。周囲はいつの間にかまた闇に包まれており、月が輝いていた。
光は完全に人の姿になった。その全身は淡い光に覆われている。男なのか、女なのか、どっちとも分からない不思議な顔だった。
その「人」は私をじろじろと眺めやった。
──お前が後継者か。
声は頭のなかに直接語りかけてきた。
「はい、そうです」
私の声は明らかに震えていた。
──また、えらく若いな。
「人」はちょっと驚いたように言う。
──先代も、そのまた先代も継承してから十数年かかった。お前は幾つになる?
「二十七です」
──継承してからは?
「およそ、一年」
ほう、と「人」は息をついた。
──余程、欲が少ないらしいな。
「そんな事はありません」
私は「人」に向かって言下に言い切った。
「欲が少ないなんて、私には当てはまらない。私はまだまだ生きていたいし、沢山のことを知りたい。それに、彼女を幸せにも……」
私は自分の顔に血が上るのを感じたが、構わず続ける。
「大体、まだ私には『遺産』の持つ意味が分からない。多分これがそうなのでしょうが、一体これは何なのですか」
「人」は愉快そうに笑った。
──遺産は、その時々に応じて後継者が欲するものになる。お前は、その指輪を欲しいと思ったのだ。違うかな?
私はその言葉が正しいことを認めざるをえなかった。私は彼女に結婚してほしいという意志を伝え、彼女がドミニコを殺してしまった罪を償い、帰ってくるまで待っていることを知らせたいがために、婚約指輪が欲しかったのだ。
なおも私は反論した。
「では、これが私の欲しいものだとして、どんな意味があるのか、私には分かりません。私は遺産を継承したことになるのですか?」
──それに答えるのが、私に課せられた義務。
「人」は人呼吸置いて言った。
──人は誰でも欲望を持ち、その欲望が叶えられればそれを守り、独占したくなる。この遺産は、そのとき後継者がいちばん欲しいものになる。当然それは一番大事なものになるだろう。
その一番大切なもの、独占したくなるものを他者に持っていかれてもいい、いや、「遺産」などより、大切なものが自分には有るのだということを見極められる、そのことがロイター家の後継者には求められている。
「人」は微笑んだようだった。
──代々の人間たちは皆、欲望にかられて遺産を探し、手に入れた。だが、そのとき手に入れた遺産の意味に気付くまでにはかなりの時間を要した。無論、気付かないまま死した者もいた。気付いても、理解できない者もいた。「知ること」と「理解すること」は違う。分かるかな。
その声は優しく私に語りかける。
「分かるつもりです。ですが・・・・・・」
──今はそれでよいのだ。ロイターの後継者よ。私のように、気付かないまま死んでしまった愚か者もいることだ。
「人」はやや自嘲的に言った。
──特に、自分の息子に、大切なこと、つまり守るべくは愛する心だということを教えられなかった私には、お前はあの月よりもまぶしい存在だよ……。
「人」は輝く月を目を細めて見上げた。
私の心に、幼いころの記憶がよみがえる。母が、無くなった日のことだった。父は仕事が忙しく、葬儀に参列しなかった。幼心に父は母よりも仕事のほうが大事なのかと恨みに感じたものだ。
母が亡くなり、数年して、祖父が亡くなって父はロイター家を継いだ。ちょうど親に反抗したい時期でもあり、私はしょっちゅう父の言うことに逆らった。だが父は、私を頭ごなしに叱りつけるか、そうでもなければ私の好きなままにしておいた。いいじゃないか、と言う人も在るかもしれないが、私はもっと父と語り合い、お互いに思うことを言い合いたかったのだ。──特に、母に関して。
結局父とはだんだん話をしなくなり、私は半ば飛び出すように家を出て、大学の寮に入り、そのまま卒業の報告も手紙で済ませ、勝手に就職も決めてしまった。
だがそんな行為は、父にいつか叱ってほしいという私の甘えでもあった。
そう考えて、再度私は目の前の「人」を見つめた。
「父さん?」
私の言葉に「人」は答えない。
──次の跡取りは、やはり遺産の意味を早いうちに見極めることだろう。何といってもお前の子供だからな。
人の形をしていた光は、次第にその形を崩しはじめた。辺りがだんだん朝の光に照らされていく。
「父さん!」
私は叫んだ。その光は私に笑いかけたようだったがすぐに消えてしまった。
「父さん──。有り難う」
父の生前、私は一度も言ったことがない言葉を口にした。そして言わなかったこと、言えなかったことを後悔もした。
私にとってあまり存在感の無かった父。
反感を持ち、一瞬とはいえ憎みもした父。
私は今やっと、父は父なりに私を愛してくれていたことに気付き、そして「理解した」のだった。
エピローグ
一人、また一人と来訪者が帰る馬車の音がする。
私とミス・ドレフュスは城の一室で黙ったまま座っていた。だがその部屋を包んでいる沈黙は緊迫したものではなく、暖かいものだった。
彼女が口を開いた。
「本当に私でよろしいのでしょうか。ロイターの家名に傷を付けてしまいます」
そういうと、指輪を外そうとする。
「私は殺人者です。代々のドレフュス家は首切り役人の家で、ドミニコ家も不当な手段で手に入れた土地により、多くの人を死に追いやりました。その両家の血を継ぐのは私一人です。私がいなくなれば──」
私は彼女の手を押さえた。指輪を外そうとする手が、微かに震えている。
「家に、そんなにまで囚われるのならば、自由にしてさしあげましょう」
私の言葉に彼女はうつむいていた顔を上げて私を見た。
「ロイターもドレフュスも、ドミニコも関係ない。私が必要とするのは貴女自身なのです。貴女にも分かってほしい、この遺産の持つ意味を」
「意味?」
私は彼女の手を強く握りしめた。
「そう、形ある物には限界があるのです。遺産しかり、家もまたしかりです。でも私が貴女を想う気持ちは家がどうとかによっては微塵も変わらない。例え、貴女がこの指輪を外しても、私の心は変わらない。ですが、最後は貴女の意志です。貴女が自分で選ぶのです。貴女の人生なのですから」
彼女の目から涙が溢れだす。だが幼いころのように、私は戸惑わなかった。何故ならその涙が、その晴れやかな笑顔とともに流れる涙が、悲しさや恐怖の故ではなく、未来に希望を得た喜びの涙だと「理解して」いたからだ。
彼女は椅子から立ち上がり私に一礼した。私も一礼し、片膝を付く。今度は彼女も止めなかった。
「お待ちしています。貴女が帰られるまでずっと──」
私は改めていい、彼女の指に輝くムーンストーンにそっと口づけをした。
「貴方様に、言い忘れたことが──」
門の前に立つ彼女が言った。
「何です?」
私は遠くに警察のサイレンが鳴るのを聞いた。
「いつかまた会えたら、ということです」
彼女は微笑んだ。
私は彼女との出会いを思い起こした。
「そう、聞くのを忘れていました。でも、また今度でも……」
私はそういったが、彼女は首を振った。
「くだらないことなのです。きっと聞けば笑われるかもしれない」
彼女はちょっと赤くなった。
サイレンがいつの間にか近くなっていた。
「いつか会えたなら、今度は私が木の実をいっぱい拾って、おいしい料理を作ってあげるね、というようなことだったのです」
私は彼女の照れたような表情をいとおしく思った。
「だけど──」
彼女は付け加えた。
警察の車が視界に入った。
「それが、私の精一杯の気持ちでした」
車が止まり、中から数人の制服をまとった警官が下りてくる。私は行こうとする彼女を引き寄せ、抱きしめた。
「まだ、幼いころの約束を果たすチャンスはあります」
その中の一人が声高に言う。
「ミス・ドレフュス、通報により、参りました。御同行願います」
彼女は私から体を離そうとした。
「ぜひ、帰ってきたら私においしい料理を作ってください。約束を守るためにも、貴女は私のところに帰ってこなくてはいけません。──脅迫に聞こえますか?」
「いいえ」
彼女は即答した。
私たちは短いキスを交わし体を離した。
彼女は車に乗り込むまでのあいだ、私のほうを見なかったが、車が発車する前に視線を投げかけた。唇が幾つかの形を作る。
──あ・り・が・と・う。
車は、紫のガスを吐き出すとエンジン音とともに森のなかに消えていった。
私は最後に一台残った馬車に、手綱を持って乗り込んだ。
御者のいない馬車に乗って帰った私が家に着くと、執事が門を開けた。
「お帰りなさいませ、旦那様」
「ああ」
執事は別に御者がいないことを気にしていないようだった。
「御無事でようございました」
彼はそれだけ言うと荷物を持って家の中へ入った。
私は何があったかを彼に話そうとしたが、やめた。いつか、その機会も来るだろう。
だが、気が変わった理由はそれだけではなかった。
部屋に入るなり、執事が私に言ったのだ。
「旦那様。折角似合っていらっしゃったのに、いつの間にかそんな普通の格好になってしまって……」
The end.