扉の向こうは雑然としていた。散らかっているのはいつものことだが、コンピュータの前に座っているはずの博士がいない。全く朝っぱらから呼び付けておいてこれだものな。
「ああ、こっちだよ」
半開きになっているダンボール箱の陰から声がした。
「博士。何をやって……」
「見つけた!」
白衣を着た男が飛び上がった。髪は殆ど白髪でぼさぼさ。度の強い眼鏡の奥は獲物を狙う獣のように(とは言い過ぎだろう)鋭い光に満ち、背はひょろ高い。まず道で会ったら五人に四人は路肩に避けるようないかつい顔の博士が子供のように喜んでいる。
「君、覚えているかい? いつか話しただろう。もしかしたら私の仮説が正しいかもしれない」
「博士、話が見えないんですけど」
いらいらしたように彼は椅子にどかっと腰掛けた。古びたフロッピーを片手でくるくる回しながら。
「そのフロッピーは確かコンピュータウィルスのサンプルじゃないですか。僕が助手になる五年も前の話だから、ざっと八年前ですよね」
博士は得意げに語り出す。
「最近ウィルスの進化過程をシュミレートしていたら、あの頃やっていた研究の中にデータがあったことを思い出してな」
「ちょっと待ってください。進化、ってコンピュータウィルスは生物ではないのに、ですか?」
博士は肯きもせずコンピュータにすすけたフロッピーを挿し込んだ。
「は、博士。それはウィルスのフロッピーですよ」
感染したらどうするんですか、という言葉を僕は喉の奥でせき止めた。博士のコンピュータはそりゃ見た目は世代後れだけど、中身はこの研究所のどのコンピュータよりも優れているらしい。しかも噂ではあらゆる企業や様々な国家の政府が大金を積んでも喉から手が出るほど欲しがっているという。もっとも博士はそんなものにちっとも興味はないらしくて、今もぼろぼろの研究室でよく分からない研究を続けている。そして助手の僕の給料も全然上がらなくて……。
「これだ!」
僕の思考は博士の大声に中断された。コンピュータに駆け寄ってみると、画面上にはそのウィルスの分析結果、つまり「カルテ」が呼び出されていた。
赤と青と緑のわずか数ミリの球体が画面上にひしめきあっている。元来コンピュータウィルスは一つのプログラムであってそれが情報として回線を通じて広がって行くものだ。だからウィルスを見つけるためにはそのプログラムに反応する抗体を作っておく必要がある。すなわちウィルスに感染する前に情報をシャットアウトする機能を持たせるのだ。
点滅する三色の球体が作り出す一種の画像はこれがウィルスを具現化したものだということを除けば実にきれいで、こんな事博士に言ったら即刻首だろうか。
「美しい……」
半ば陶然とした呟きを僕は聞いた。無論僕以外のもう一人の人物── 。
「博士、今何て……?」
博士は僕など目に入らない様子で作業を続ける。
「君、思い出したかね、僕の言っていた研究のことだが」
はい、と僕は答えた。
それは、単なる夢物語だと当時僕も主張したものだった。コンピュータウィルスの存在は地球における人間と類似している、と博士は言った。そしてそれを研究報告会で発表したのだ。増殖の仕方、周囲に与える影響の波長、何よりもウィルス一つ一つが持つ固有の特徴。ウィルスは元々コンピュータプログラムのバグプログラムで、人間のミスが産み出した人工生命なのだ。そしてそれはあくまでもプログラム上の生命であって、プログラムが消えればその存在もまた消える。それ自体では存在できないのだ。
だが、ヒトもまた同じだ。結局は地球という母体が無ければ、その母体の持つ環境が無ければ、生きていくことはできない。かぎられた範囲内で、増殖し、進化しても結局は母体の死とともに消滅する……。
ヒトは、地球というコンピュータが環境という名のプログラムを作る際に生じたバグなのか……?
博士の当時の研究は、うやむやのうちに葬り去られた。人間がコンピュータウィルスと同等の扱いを受けるなど、世界を敵に回す行為であったのだ。博士の研究はそれ以来停止させられ、他の研究においてのみ認められた。
「私にとってはそれ以外の研究などゴミのようなものだ。大体ウィルスと同等であったとして一体何が悪いというのかね」
僕は点滅光を眺めながら博士に尋ねた。
「博士の仮説というのは『進化』のことですね」
博士はやっと肯いた。
「当時の研究ではウィルスそれ自体が進化することは人間が人工的に創り出したものである以上ありえない、と言われていたし、現に私も進化についてはあまりにも無知だったから、この研究が妄言だと言われても仕方の無いことだった」
博士の目はウィルスの発する光を映して怪しく光った。
「これを見なさい」
博士はうっとりとした目をしながら僕に言った。僕は呑まれるようにディスプレイを見つめた。
赤と青とのコントラストが僕の目の前で融合し始めた。
「色が、変わった……?」
更に博士はコンピュータ内の時間を進め、融合を加速させてゆく。それにつれて赤と青の混ざり合いが生んだ紫色が次第に画面の大半を占め、そして──。
「私は、このウィルスの美しさに魅せられて、今日まで研究を続けてきたんだ」
ぽつり、と博士が口を開いた。
「『進化』の事など、実はどうでも良かった。ただ、ウィルスに心を奪われた一人の科学者ともいえない男さ、私は」
もはや画面は紫一色のように見えた。途端に画面は緑色に反転した。先程、一色だけ融合せず、紫に押し潰され、姿を消したかに見えた緑が、だ。
「博士は、この実験の結果を御存知だったのではないのですか? それはつまりこういう事ですけど」
僕は画面の電源を落とした。
「君……?」
博士は暗くなった画面と、僕の顔とを交互に見比べた。
「この後画面上のウィルスは緑一色になり、緑同士で結合したウィルスからは新種が誕生し、やがてその新種が画面を埋め尽くし、その中から新たな種が淘汰していく。そういうことですよ」
博士は唖然とした後、僕を睨み付けた
「私の研究を盗んだのか?」
博士の顔は髪の毛と同じくらい白くなっていた。
「困りましたね。それは誤解です、博士」
電源を次々に落としながら僕は言った。
「僕は、この結果を知っているだけなんですよ。貴方と同じようにね。即ち、最後には全てが消滅することです」
僕は最後にウィルスのサンプル例の入ったフロッピーを取り出した。
「美しさ、強いて言うならそれに気付いたことが唯一の失敗かも知れません。博士、貴方はウィルスの美しさを追求するあまりに消滅することを恐れた。証拠ですか? 簡単なことです。貴方のこのプログラムのウィルスは色を変えながら生き続ける、つまり進化していくのですよ」
博士はよろめいて椅子に倒れこんだ。
「私は自分の仮説が間違っている、つまりやはりウィルスは進化せず、そして人間とは異なることを認めることができなかった。だから私は、進化するウィルスを創り出した。いや、もしかしたら……?」
「人間と、ウィルスは類似している。その仮説は恐らく否定できません。博士の研究は証明されます。ただ、進化については」
僕は話しながらフロッピーに自分が持っていた小型の磁石を近付けた。見た目に変化はないがフロッピーの保存機能は異常を来したに違いない。
「コンピュータウィルスについては人が創った物ゆえに進化しないのではなく、ヒトがそもそもウィルスと同じである以上、それと同様に進化などしない、と言ったほうがいい」
博士は呆然と僕の顔を見つめている。
「ヒトとは、やはり……」
「さあ、博士のほうがそれについては権威ですからね」
僕は自分の考えに沈み込み始めた博士に一礼し、研究室を出ようとした。
「君はどうやって気付いたんだ。つまりヒトが地球上におけるバグのプログラムだということを……」
博士は僕が磁気で駄目にしたフロッピーを手にして、ただ人形の様に口を動かしていた。
「ワクチンはバグを、つまりウィルスを撃退するために創られたプログラムですから」
「ヒトは君等のようなワクチンに駆逐される運命にあるのか?」
僕は後ろ手にドアを閉めながら言った。
「知りません。僕は対ウィルス用プログラムに過ぎませんし、それに」
扉の閉まる音が僕の呟きに重なった。
「……母体が倒れるとき、あらゆるコンピュータプログラムは全終了するのですから」
「博士、一体どうしたんですか。こんな埃っぽい所で居眠りなんて」
博士はぼんやりと目を開け、そして僕の顔を見た瞬間、幽霊でも見たように椅子から跳ねるように立ちあがった。
「な、何なんですか?」
博士はポケットからせかせかと黒いフロッピーを取り出した。
「ずいぶん古いフロッピーですねえ」
博士は僕の声などまるっきり耳に入らない様子で一心不乱にキーを叩いている。
《コノフロッピーハツカエマセン》
コンピュータの無機的な音が応答する。
「僕の古いコンピュータでやってみましょうか? 何せそのフロッピーも結構若くなさそうですから」
僕は博士のコンピュータからフロッピーを取り出し、自分の持ってきた小さなコンピュータに挿入した。
《ウィルスプログラム作動開始》
機械音が短く告げた。と同時に僕のアンチウィルスプログラムが動き始める。
《ワクチンプログラム作動開始》
コンピュータがフロッピーを読み込む音が続く。
《全ウィルスプログラムチェック完了》
僕は振り返って博士を見た。博士は自分のコンピュータを再確認している最中だった。そして声を上げた。
「異常なんて無い! 私のコンピュータに読み込めないファイルなど無いはずだ……」
《ウィルスを全て消去しますか》
僕は博士にコンピュータを手渡して言った。
「ワクチンの仕事は母体を殺さずに、ウィルスだけをこの世から抹殺することです。それが母体の、ウィルスもワクチンも産み出した『母』の、望みですから」
博士は放心したようにゆっくりと手をキーボードに伸ばした。
「博士、ここは貴方に一任します。一つの実行キーで消えてしまうウィルス。儚いものですよねウィルスも、そして……」
博士は最後に気付いただろうか。僕が単なる新たな種の
ウィルスダトイウコトヲ──。(了)