が携帯電話を嫌う理由





プロローグ



「高山さん、ケータイ持ってないんですか?」
 アルバイト先のレンタルビデオ店のスタッフルーム。
 計八時間の労働から上がり、椅子に座って一息ついている僕に、一緒に上がった木崎さんが話しかけてきた。
 彼女の目の前には壁に張られたスタッフリストがあった。一番上の列に「スタッフ番号」からはじまる「氏名」「住所」「電話番号」という各項目がつづいており、一番右側の「携帯電話」という項目で終わっていた。ほとんど空白がないそのリストの中、僕のところの携帯電話の欄の空白は妙に目立って見えた。
「別に必要ないから」
「え〜、でも不便じゃないですか? 待ち合わせのときとかどうするんですか?」
「別に大丈夫だよ。あらかじめ待ち合わせ場所を決めて落ち合うだけ」
 僕の答えに木崎さんはまた「え〜」と声を上げ、まじまじと僕を見つめた。言葉にこそ出さなかったが、その見開かれた目が「信じられない!」という木崎さんの心中の声を雄弁に物語っていた。
「高山さんってホント強者っスよね」
 隣でタバコをふかしていた岩野くんが笑いながら話に加わってきた。
「このまえの飲み会のときとかめっちゃ大変でしたよ。いいかげん持ちましょうよ、ケータイ。連絡つけらんないじゃないスか」
「普通の電話があるじゃん」
「なかなかつかまらないじゃないスか」
「留守電ついてるし」
「んなの使いませんって、今時」
「なんか理由あるんですか〜?」
 木崎さんが相変わらずの間延び声で尋ねてきた。
「う〜ん、持たない理由があるっていうより、持つ理由がないんだよね。なくて特に困ることもないし、使用料も馬鹿にならないし」
「やっぱ強者だ」
 岩野くんが天井を仰いで笑った。
「ま、そのうち持つかもね、必要になったら」
 僕はそれ以上の詮索を打ち切ると、この話題はおしまいというように日誌を手に取った。
 スタッフはアルバイトから上がって帰るときに、その日のアルバイト中に気づいた問題点を日誌に書いていかなければならない。だがそんな大層な問題などそうそうあるわけもなく、なかなか苦労する。すんなりと書くことが思いつけばいいが、思いつかないときは本当に思いつかない。
 僕の後ろでは、木崎さんと岩野くんの二人が今度は携帯電話の着メロについて話し込んでいる。二人でスタッフルームに置いてあった着メロの本をめくりながら、「これがいい」とか「これは恥ずかしい」とかいろいろと批評を加えている。
 二人の話をぼんやりと聞きながら、僕は日誌になにを書こうか考えつづけた。だがやっぱりなにも思いつかず、一昨日書いた内容を少しだけ変えてそのまま書いた。
 僕は日誌をテーブルの上に乱暴に放り投げると、狭苦しい更衣室に入って手早く自分の服に着替えた。やはり更衣室に置いてあった鞄を肩から吊るし、スタッフルームに戻った。スタッフ専用出入り口である裏口のドアを開け、まだ制服のまま話し込んでいる二人に声をかける。
「お疲れ様でした」
「あ、お疲れ様です」
「お疲れ様で〜す」
 岩野くんと木崎さんが少しばかり僕に顔を向けて挨拶を返した。
 僕は初冬の薄寒くなりはじめた空気を頬に感じながら、自分の自転車が置いてある駐輪場に向かって歩いた。
 駐輪場につくと、そこにはアルバイトの後輩がいた。本当なら僕たちが上がる前に来ていなければならない。つまり、遅刻だ。慌てているのだろう、苛立たしげにロックを原付の車輪にはめている。
「よ、どうしたの?」
 僕が声をかけると、後輩は、
「あ、高山さん。ちょっと途中で警察に呼び止められちゃって」
 頭を下げつつ答えた。
「うわ」
 僕が同情の表情を浮かべると、
「ついてないっスよ、二段階右折無視なんかで呼び止めるなっての。どうせポイント稼ぎたいだけなんだ、あいつら」
 後輩は悔しそうな表情で吐き捨てた。
 僕はすれ違いざま後輩の肩を軽く叩いた。
「気にしない気にしない。今日一日のバイト代がパーになるだけだって」
 僕の言葉に後輩が顔をしかめた。
「あ、高山さん、ひでえな」
「嘘々、冗談だよ」
 僕は笑いながらそう言いつつ、自転車の鍵を外した。
 後輩が不思議そうな顔をした。
「あれ、高山さん、原付はどうしたんスか?」
「ああ、なんかブレーキが効かなくなっちゃってさ。修理持ってくの面倒で放りっぱなし」
「オレでよければ今度見ましょうか?」
「お、それ助かる。頼むや」
「じゃあ、一龍のキムチチャーハン一回ってことで」
「はいはい。それより、急がないとヤバイんじゃないの?」
「あ、いけね。高山さん、今度いつ入ってます?」
「明日の遅番」
「あ、オレもそこ入ってます。じゃあ、詳しいことはそのときに」
「オッケ」
「それじゃ、お疲れ様です」
「うん、頑張って」
「ほーい」
 後輩は裏口へ向けて走っていった。
 僕はなんとなくため息を一つつくと、自転車にまたがってゆっくりとペダルを踏み込んた。
 五分ほどして下宿先のアパートに着いた。階段を昇って二階に上がり、自分の部屋のドアに鍵を差し込む。
 ――ガチャリ。
 暗がりの中、鍵の回る音がやけに響く。
 部屋に上がるとまず電気をつけた。次いでベッドの上に無造作に置かれていたリモコンを取り上げると、テレビのスイッチを入れた。
 途端、室内にバラエティ番組のどこか空々しい笑声が満ちた。チャンネルを変えるのも面倒なので、僕はそのまま放っておいた。
 ときどきテレビのスピーカーから湧き上がる、わざとらしい笑声をBGMに、僕は自分の身長よりも高い据付式の本棚に近づいた。
 本棚には雑多なタイトルが並んでいる。ほとんどは文庫本だ。僕はなんとはなしにそのタイトル名を追う。『とり残されて』『パラレルワールド・ラブストーリー』『極大射程(上)』『今夜は眠れない』『夜の蝉』『気まずい二人』『淋しい狩人』『クラバート』……。
 その本棚の一番上には写真立てが一つ置かれている。誕生日のプレゼントにと友人から貰った物だ。下のほうには、男一人の部屋には場違いなかわいらしい熊が数匹並んでいる。
 僕はその写真立てを手に取り、そこに収まっている写真をじっと見つめた。
 そこにはまばらな木立をバックに二人の人物が写っていた。
 一人は僕。
 そしてもう一人、ショートカットの女の子。
 僕はしばらく眺めた後つぶやいた。
「未練、なのかな」
 その言葉が引き金になって、僕の頭の中に一つの光景が浮かんだ。
 まばらな木立に囲まれたグラウンド。
(ヤバイ)
 僕は思った。この光景が浮かぶと、いつも止まらなくなる。想像力が僕の意志を越えて働き、彼女との思い出をすべてなぞってしまう。
「止まれ、止まれ――」
 口に出して念じたが、光景は僕の祈りを嘲笑うかのように次第にはっきりとしたものになっていく。
 僕は諦念に包まれ、ゆっくりと目を閉じた。
 あの日――すべてのはじまりの日――の光景が、色あせない色彩と確かな質感をもって眼前に甦った。



一 中学二年・春



「あれ?」
 いつもどおりのゆったりとしたペースでグラウンドの外周を走っていた僕は、今しがた見かけたものに注意を引かれ、思わず立ち止まった。
 意外さのため、乱れる息の中思わず声を上げる。
(あの子、もしかしてあの葉山緑じゃないか?)
 まばらな木立に取り囲まれたグラウンドの中を、コリーらしき犬を引き連れて闊歩している女の子。白いトレーナーに紺のトレーニングパンツという地味な格好をしていたものの、間違いない、あのショートカット、確かにあれは葉山緑だ。それほど会った回数が多いわけではないが、何故か自信を持って言えた。
(やっぱ印象深いからかな)
 そんなことを考えながら、左腕につけた腕時計をちらりと見る。時計の針は午前六時四十分を指している。たいがいの人なら、やっと起きはじめたばかりの時間だ。
 ほんの束の間躊躇したが、僕はそのままジョギングに戻ることにした。これだけの距離だ。自信があるとはいえ、もしかしたら見間違いもあるかもしれない。それに中学二年になったばかりの僕にとって、こんな早朝の公園で同年代の異性に話し掛けるというのは、なにかと気恥ずかしいものがあった。そのうえほとんど話したことがない相手ときている。
 しかし、止めた足をまた動かしはじめようとした瞬間、彼女がこちらを向いた。そのまま動きが止まる。こちらに気がついたのが雰囲気でわかった。
「おーい!」
 彼女が大きく手を振った。次いで軽やかな足取りでこちらに向かってくる。彼女の体が歩調に合わせて上下する度に、ショートカットの髪がさらりと揺れた。コリーは嬉しそうに彼女の周りを跳ね回っている。
 僕は身体の横で思わず拳を握りしめた。はっきり言って、僕は女の子と話すのが苦手だった。話したくないわけではないけど、女の子と向き合うと何を話せばいいのかわからなくなる。
 彼女は僕のすぐ近くまで来て立ち止まると、
「高山くん、だよね? おはよ」
 にこりと笑った。人懐こそうな笑顔だった。
「あ、お、おはよう」
 僕は思わずどもってしまい、焦って意味もなくランニングパンツをこすった。心臓の鼓動がやけに強く耳に響いた。
「こんな朝早くになにしてるの?」
「い、いや、ちょっと、ジョギング」
「なにかの練習? 部活入ってるの?」
「いや、練習とかじゃなくて……」
 僕はなにも考えられず、ほかの人に話さなくなって久しいほんとの理由をそのまま口に出した。
「特に理由はないんだけど、なんかときどき走りたくなるんだ」
 僕の言葉に、彼女は目をぱちくりとさせた。何か不思議な生き物でも見るような目つきだった。彼女の視線のもと、僕はこれ以上はないというくらいの居心地の悪さを味わっていた。
 彼女はきっと笑うに違いない。笑われたら、どんな態度を取ればいいだろう。
 僕の頭の中はそんな不安でいっぱいになった。
 だが意外なことに、彼女は再びにこりと微笑んだ。
「うん、なんか走りたいときあるよね」
 僕は拍子抜けすると同時に、彼女の予想外の賛同に嬉しくなった。同じ問いに心にもない答えを返すようになる以前、まだ僕がこの答えを返していた頃、受け取った人は十中八九、困ったような顔をした。そして「ふ〜ん、そうなんだ」とか「変わってるね」と申しわけのように返すのが常だった。
 勇気付けられて、僕のほうから彼女に話しかけた。
「葉山さんは犬の散歩?」
「うん、そ」
 そして、さっきから僕に飛びかかろうとしては、葉山さんが短く持ち替えた引き綱に阻まれているコリーに視線をやった。
「うちのジョン。ジョン、ご挨拶は?」
 ジョンは僕に向かって「ワン!」と一度、大きく吠えた。挨拶というより、喧嘩を売っているように見えたが、まあおそらく気のせいだろう。
「高山くんは、ここから家近いの?」
「うん、歩いて十分くらい」
「あ、そなんだ。私もね、あっちのすぐ裏にあるの」
 彼女は目の前に広がるグラウンドのちょうど向かい側を指差した。
「あ、そんなに近いんだ」
「そ。高山くん、しょっちゅうここで走ってるの?」
 僕はどきりとした。実はここしばらく走っていなかった。今日は、偶然いつもより早く目覚めたから走りに来ただけだった。
 でも気がつくと僕は答えていた。
「うん。結構しょっちゅう来るよ」
 そして余計にも付け加えてしまった。
「週四、五回くらい」
 葉山さんが不思議そうな顔をした。
 僕はハッとした。考えてみれば、ついさっきの「ときどき」という言葉とだいぶ矛盾している。
 僕は焦った。
 だが、彼女は深く考えないことにしたようだ。
「あ、そなんだ。じゃあ、これからしょっちゅう会えるかもね」
 あっさりと僕の言葉を受け止める。
 僕はほっとした。同時に「そう」と言わず「そ」と短く切る彼女の癖に気づいた。
 なんとなく嬉しかった。
「葉山さんは毎日散歩してるの?」
「う〜ん、実はね……」
 彼女は声をひそめると、僕のほうに顔を寄せてきた。
 つられて僕も顔を寄せた。そんな行動を自然に取っている自分がすごく意外だった。
「今日が初めてなの」
 彼女はニヤリと悪戯っぽく笑った。
 僕も思わずニヤリとした。
「じゃあ、これから頑張らないとね。毎日続けていけるように」
「そ。親孝行な娘としては、親をゆっくり寝かせてあげたいし」
 その後も、僕と彼女はしばらく話をした。
 不思議なことに、他の女の子に感じるような気まずさを僕は彼女に感じなかった。自然と言葉が口にのぼり、会話が弾んだ。
 僕自身の力ではもちろんない。かといって、彼女が話し上手というわけでもなさそうだった。相性が良かったということなのだろうか。僕はそんな都合のいいことを考えた。
 しばらくして別れるとき彼女が言った。
「じゃあ、また明日ね」
 僕もごく自然に答えた。
「また明日」



「じゃあ、自己紹介してみようか」
 担任である体育教師の大川が促すと、教壇の上に立っている女の子は頷き、皆に背を向けて黒板に向かった。
 白いチョークを手に取り、少し背伸びをしながら、黒板に一字一字丁寧に文字を書きつけていく。
 やがてすべて書き終わると、彼女はくるりと振り向いた。四十人が向ける八十の視線が、一斉に彼女に突き刺さった。
 黒板には大きく「葉山 緑」と書いてあった。
「え〜と、みなさん初めまして。葉山緑と言います。このたび父の仕事の都合でこちらに転校してきました。これからよろしくお願いします」
 彼女はみなの視線に臆することなく型どおりの挨拶を済ませると、ぴょこんと深くおじぎをした。担任の大川がその後を引き継いだ。
「じゃあ葉山さん、席はあそこの窓際の席ね。なにかわからなかったら周りの人に聞くこと。みんなも進んで葉山さんを助けてあげるように」
 彼女は大川が示した窓際の席に座った。大川が教室から出て行くと、さっそく前後左右の女の子たちが話しかけた。彼女はにこにこと笑いながらそれに答えていた。
 僕はそれを遠く廊下側の席から眺めながら、どこか彼女に不思議な雰囲気を感じていた。なんと表現すればいいのだろう。今こうして笑っているときも、どこかほかの子とは一線を画した雰囲気を彼女は有しているのだ。なにか研ぎ澄まされたものを発しているのだ。もちろんそれがなんなのか、僕にはわからなかったが。
 僕はぼんやりと外を眺めるふりをしながら、窓際の席に座る彼女を目の端で追いかけていた。
 その表情を、その仕草を、その行動を。
 決して彼女に気づかれないように。
 決して誰にも気づかれないように。



 それが葉山緑との出会いだった。
 僕が早朝の公園で初めて彼女と話をしたのは、その三日後のことだ。



二 中学二年・夏



 葉山緑と初めて話しをしたあの日から、僕の生活スタイルは大きく変わった。毎朝五時半に起きると、十分後には支度を終えて家を出る。そして近くの公園についた後、軽く準備体操を行い、適当に走って七時ぐらいに家に戻るといった具合だ。
 突然ジョギングに熱心になった息子に、母親は目を丸くしていた。小学生の頃一緒に走っていた父は、また一緒に走ろうかと持ちかけてきた。もちろん、僕はそれを固く断った。
 今日も今日とて、僕は公園でジョギングに励んでいた。
 ちらりと腕時計を見る。午前六時四十分。頃合だ。
 それまで走っていたグラウンドの外周から、まばらな木立につつまれたグラウンドの中へと入っていく。
 そこには、コリーに綱を引っ張られながら、少し速めのペースで散歩をしている女の子がいた。
 彼女がこちらに気づいた。
「おはよ、高山くん」
「おはよう、葉山さん」
 僕たちの周りでは、コリーのジョンがいつものごとくかまってほしそうに飛び跳ねている。
 ジョンの引き綱を近くの柵の鉄棒に止めた後、僕たちは並んで芝生に腰掛けた。
「あ〜、疲れた」
 僕はそのまま芝生の上に寝転んだ。
 彼女が眉をひそめた。
「汚れるよ」
「平気だよ。夏だから、芝生も土も乾いてるし」
 彼女は、朝は結構濡れてるもんだよ、などとぶつぶつ言いながら、結局自分も横になった。
 僕は空を見上げながら、春以来つづく彼女との不思議な関係のことをぼんやりと考えていた。それまで女の子と話すとしたら、せいぜい憎まれ口をたたき合うのが精一杯だった。それが、彼女だと違った。男の友人に話せないようなことも気軽に話すことができた。
 何故だろう。僕はいつも考えていた。そして、一つ思いついたことがある。
 それは彼女がどんなことに対しても真摯であるということだ。話すときも、人の話を聞くときも、決しておろそかにするということがない。ふざけているときでも、まじめなときでも、いつも真剣にこちらの話を聞いてくれる。
 だから彼女とは安心して気軽に話せるのではないか。そんな風に僕は考えていた。そして、彼女の持つどこか研ぎ澄まされた雰囲気も、そんな彼女の態度と関わりがあるのではないかと考えていた。
 もちろん、彼女に異性を意識していないといったら嘘になる。だがそれ以上に、なんでも気がねなく話せる友人という、今のこのポジションが心地よかった。
 グラウンドを囲む木立から響いてくる蝉の声が耳に痛い。もうすっかり夏になっていた。
「来週さ」
 僕は彼女に話しかけた。
「うん」
「プールがはじまるけど、もう水着とか用意したの?」
 僕たちの中学校は、学校指定の水着でなければならない。転校してきた彼女は当然持っていないはずだから、あらかじめ教えておいてあげようと思って出た言葉だった。
「…………」
 彼女の返答はなかった。
 僕は少しばかりうろたえた。もしかして、なにかエッチなことでも言おうとしていると勘違いされたのだろうか。この年頃は、とかく難しい。
 慌てて起き上がり横を見ると、彼女も同じように起き上がっていた。膝を抱えて、ひどく思いつめた顔をしていた。
「どうしたの?」
 僕が聞くと、
「私……プールの授業は受けない」
 彼女は吐き捨てるように言った。
 彼女の言葉に僕は戸惑った。それまで柔らかかった彼女の表情が、すっかり固くなっていた。
「受けないって……どうして?」
「どうしても」
「どうしてもって言ったって……」
 僕は頭をかいた。
「私、水が苦手なの」
「え、そうなの?」
「小さいころ溺れたことがあって、それでダメになっちゃったの」
 だから前の学校でもずっと休んでたの、と彼女は付け加えた。
 僕は曖昧にうなずいた。彼女の話にしては珍しく、どこか作り話めいたものを感じた。その証拠に、その日、彼女は僕と目を合わせようとしなかった。



 プール開きの日がやってきた。
 僕たち二年三組は、プール開きのすぐ次の時間に体育の授業が入っていた。
(葉山さんはどうするんだろう?)
 僕は気になってしょうがなかった。
 男子更衣室で着替えを済ませてプールに出ると、そこにはすでに彼女がいた。上が白い半袖の体操服、下が青い綿のジャージという格好だった。
 授業がはじまった。男子と女子に別れて、それぞれの担当の教師が出席を採る。
 女子の担当は、三組の担任でもある大川だった。
 僕は、はらはらしながら女子のほうの様子を窺っていた。大川は生徒が体育の授業を休むのを事のほか嫌がる。生徒が単にさぼろうとしているのではないかと疑っているのだ。
 だが僕の予想に反して、女子の側からはなんの騒ぎも起きなかった。去年と変わらぬ水泳の授業がはじまった。
 プールの横では、他の数人の女子と一緒に、彼女が授業を眺めていた。
 膝をかかえて無表情に授業を見学する彼女が、なぜか僕には、今にも泣き出しそうな子供のように見えた。
 葉山さんはその夏、一度も水泳の授業に参加しなかった。



三 中学三年・夏



 三年になってクラスこそばらばらになったが、僕と葉山さんの関係はあいかわらずだった。ほとんど毎朝のように公園で会っていた。彼女に会ってから一日がはじまる、そんな感じだった。
 変化があるとすれば、日曜日にときどき二人で遊びにいくようになったことだ。
 今日は、僕が彼女を誘って、近くの中戸川に釣りに来ていた。中戸川はこの辺りではポピュラーな釣りスポットだ。
 彼女に簡単な説明をした後、僕たちは離れたところでそれぞれに釣りをした。しばらく経って、僕はわずかばかりの成果を手に彼女のところに向かった。見ると、彼女は竿を放りっぱなしにしたまま、両手を合わせてなにかを捕まえていた。
「なに?」
 近づいて尋ねると、彼女は僕に向かって両手を開いた。
 彼女の手の中には、濃い緑色の小さなアマガエルがいた。 
 アマガエルは一跳ねすると、すぐに近くの草むらに潜り込んでしまった。
「あ〜あ」
 彼女が残念そうにそれを見送った。
「カエル平気なんだ。珍しいね」
 僕が笑うと、、
「だって仲間だから」
 彼女はぽつりとつぶやいた。
「え?」
 意味を問い質そうとしたが、彼女は霞んだ笑いを浮かべて首を振った。いくら聞いても答えてくれないように感じた。
 僕は気を取り直した。今日はほかに聞かなければいけない大事なことがあるのだから。
 今日、僕は一つの決心を胸に秘めていた。彼女が以前言っていた水嫌いの理由を聞き出そうと思っていたのだ。
 水嫌いというのが嘘なのは、あのときの彼女の態度からいって、おそらく間違いないだろう。問題は、何故そんな嘘をつくのかということだ。
 彼女は背伸びをしながら土手の上に寝転んでいた。川に沈めた仕掛けはぴくりともしていない。
「どんな感じ?」
 今さらながら僕は聞いた。
「さ〜っぱり。ぜ〜んぜん。ここほんとに魚いる?」
 大げさに両手を広げた彼女に向かって、僕は片手に持ったバケツを差し出した。
 彼女が起き上がって覗き込む。
 中では、彼女と離れたところで釣り上げた二匹の魚が力なく泳いでいた。それを見て彼女が目を輝かせた。
「なんて言う魚、これ」
「さあ」
「さあって……頼りないね」
「釣れりゃいいの、釣れりゃ」
「うわ、今の言い方、オヤジくさい」
「そ?」
「そ」
 いつのまにか僕は彼女の口癖が移ってしまっていた。
 彼女はそのまま口をつぐみ、ただ川を眺めはじめた。僕も隣に腰掛け、黙ってそれに倣った。
 こんな関係は、とても貴重なものだと僕は感じていた。彼女も同じように感じてくれているだろうか。
 そっと彼女のほうを見ると、彼女は飽きもせずに川面を眺めていた。その横顔は驚くほど優しげで、柔らかだった。
「あのさ……」
 僕は声をかけた。
「ん?」
「聞きたいことがあるんだけどさ」
「うん」
「前に言ったことあったよね、水が苦手だって……」
 僕はそっと彼女の表情を窺った。
 彼女はまったく表情を変えていなかった。だけど、心のどこか身構えたのが僕にはわかった。
「あれさ、ほんとなの?」
 彼女はじっと動かなかった。即効性の接着剤を身体中にかぶってしまったかのように、かちかちに固まっていた。
「ごめん、さっきから様子を見てたんだけどさ、川を眺めてる葉山さんの顔って嫌いなものを見るような顔じゃないんだよね。なんかほっとしてるっていうかさ。ほんとは、海とか川とか好きなんじゃないの? 水が嫌いなんかじゃないんじゃないの?」
 言いたいことを言いきると、僕は口をつぐんだ。たったこれだけの言葉なのに、物凄く疲れたような気がした。一つ一つの言葉が重く、口の外に押し出すのにえらく苦労した。
 二人とも黙ったまま動かず、重苦しい沈黙が辺りを包んだ。
(もしかしたら……今の二人の関係は壊れてしまうかもしれない……)
 僕はそんな覚悟までした。
 しばらく沈黙が続いた後、彼女がゆっくりと口を開いた。
「ごめん……」
 僕は黙っていた。ここで口を出したら、彼女がまた口をつぐんでしまうような気がした。
 僕はただ黙って耳を傾けていた。
「水が嫌いっていうのはね、うん、嘘。ほんとは海とか川とか好きなんだ。プールも。水が流れているの見るとね、なんかほっとするの。なんでか知らないけど」
 彼女は長いため息をついた。そうすることで、ともすれば閉じてしまいそうな口を開きやすくしているかのようだった。
「もう気づいてるかもしれないけどね、水が苦手っていうのはプールに入らないための口実。というより……水着に着替えないための……」
 彼女の指はさっきからずっとズボンの裾をいじっていた。
「身体にね……傷があるの。シャツとか制服とかだと隠すことができるんだけど、水着だと見えちゃうの。その……ひどい傷だから人に見られたくなくって……」
 最後のほうはほとんど泣き声に近かった。
「ごめん」
 僕は後悔していた。なんであんなことを聞いてしまったんだろう。予想していたことではあったが、それを話すときの彼女はとても辛そうだった。
 彼女は首を振った。
「学校にはね、別な理由を話してあるの……ちゃんと許可を取ってあるの……だからプールの授業のとき、なにも言われなかったの」
 彼女は僕が聞いていないことまでしゃべった。僕が疑問を抱いていたことを知っていたのだ。
「ごめん」
 僕はなんと言っていいかわからず、もう一度謝った。
 彼女は首を振っただけでなにも言わなかった。
 正直に言うと、「別な理由」というのがなんなのか気になっていた。だが、それは聞いてはいけないことだということは、さすがにわかった。
 その後、二人は家に帰るまでほとんどしゃべらなかった。
 彼女と別れた後、僕は考えた。
 彼女の体の傷にまつわる過去、それこそが彼女がどこか不思議な雰囲気をまとっている理由なのだろうか。僕が彼女に惹きつけられる理由なのだろうか。
 だとしたら、それはとても皮肉なことだ――と。



 その後、二人は別々な高校に進学したが、あいかわらずの関係だった。そもそも、今までだってあまり学校でしゃべることはなかった。朝ほんの十数分まじわす会話、それが二人の関係の基本だった。



四 高校二年・秋



「う〜、もう結構寒い〜」
 葉山はハーフコートの襟を立てると、少しでも風から身を守ろうと首をすくめた。はっきり言ってみっともない。
 隣を並んで歩いていた僕は、さりげなく風から彼女を守るように微妙に位置を変えたが、残念ながら彼女は気づいてくれなかったようだ。まあたいした効果も上がっていないから仕方がないが。
「こんな日は、やっぱり家でゆっくりしたかった」
「でもさ、来年は受験なんだし、遊べるの今だけじゃん」
「そうだけど、わざわざこんな寒い日に遊びに出なくてもいいと思わない?」
「しょうがないだろ。この映画、来週には終わっちゃうんだから。行きたいって言ったのそっちだろ?」
「ま、そうなんだけどさ」
 強い風が吹いた。
 彼女はよりいっそう首をすくめた。



 僕と彼女の関係はあいかわらずだった。朝公園で束の間の会話を交わし、休日にはときどき一緒に遊びに出かける。
 以前は、この関係に疑問なんかなかった。
 だけど今は……。
 映画がはじまったが、僕はぜんぜん集中できなかった。ずっと二人の関係のことを考えていた。
 来年は二人とも大学受験だ。結果がどうであれ、おそらく二人は別々の場所に別れることになるだろう。そうしたら、毎日の朝の出会いがなくなってしまう。この曖昧な二人の関係をつないでいる、ただ一つの絆が失われてしまう。
 そうしたら僕たちはどうなる?
 日々の生活に気を取られ、次第に連絡を取らない期間が長くなり、やがてはただの友人という関係へと、以前は特別仲がよかったというだけのただの友人へと、なってしまうのではないだろうか。
 違う、と否定してみる。
 だが、否定しても、否定しても、一方でその予測を肯定する自分がいる。
 わからない、わからない。
 多分、可能性はどちらにも均等にあるのだろう。
 今なんの行動も起こさなければ、僕はシリンダーに三発の弾が込められたロイヤルルーレットへ挑むことになるのだ。
 そうなる前に、何とかして彼女との間に確固たる絆を作り上げたかった。
 そう、僕は焦っていた。そして恐れていた。
 ちらりと横に座る彼女を窺う。彼女は静かにスクリーンを見つめている。そして、その手は……。
 強い衝動が込み上げた。
 僕は手を伸ばし、彼女の手にそっと重ねた。
(わかってほしい)
 ただそれだけを願った。
 彼女がハッと息を飲む気配が伝わってきた。僕はじっとスクリーンを見つめつづけた。ストーリーなんかぜんぜん頭に入っていないくせに、穴よ開けとばかりに強く見つめつづけた。
 そして、ただ待った。
 …………。
 長い沈黙が、あった。
 …………。
 お互いにぴくりとも動かない、長い沈黙。
 …………。
 息すらも押し殺す、沈黙。
 …………。
 やがて彼女の手が裏返り、二人の指が絡まった。



 映画を見終わったあと、僕たち二人は近くの喫茶店に入った。『モカ』という名前のその喫茶店は、駅前を一望できる位置にあり、そこそこ混み合っていた。
 二人が喫茶店に入ってから、もう十分が経とうとしていた。それまでの気楽な関係が嘘のように、ただ二人は黙りこくった。お互いどんなことを話せばいいのかわからなかった。
 ただ、僕は前から決めていた。いや、わかっていた。今までは、ただわからないふりをしていただけなのかもしれない。緑の傷、それにまつわる話を聞かない限り、僕は前に進めないことを。
 彼女が先に口を開いた。
「傷の話、聞いてくれる?」
 僕は黙っていた。だが、やはり聞きたかった。聞かなければならなかった。聞いて、彼女のすべてを受け入れたかった。
 首をわずかに縦に振り、その後は、ただじっと待った。
 彼女の決心がつくまで、ただじっと待った。
「私、ここにね……」
 おもむろに彼女が口を開いた。
 彼女は胸の中央──心臓の少し上の辺りを手で押さえた。
「長さ五センチぐらいの傷があるの。手術の痕なの」
「手術?」
「そ」
 彼女がその話をするのは相当辛いことのはずだ。それは、昔彼女がそのことについて少し話したときの様子から想像がつく。だが、彼女はそれを感じさせなかった。淡々と話しつづけた。
「心臓の病気なの。洞不全症候群って言うんだって。心臓が規則正しく鼓動を打つように管理している洞結節っていうところの機能が、発作が起きるとだんだん弱くなっていって、血液が身体にいかなくなる病気。発作が起きると、なんか胸が苦しくなって、頭が締めつけられるみたいになって、意識が朦朧とするの……症状がひどい人は失神したり……運が悪ければ――」
 彼女はそこで息を吸い、吐くと同時に言った。
「死んじゃったり」
 言葉もなかった。
 僕は、これまでたいした苦労もせずぬくぬくと暮らしてきた。そんな僕にかけられる言葉などなかった。僕ができることといえば、彼女の気が済むまでただじっと聞くこと、それだけだった。
「薬である程度は押さえることができるけど、普段から発作を押さえる努力が必要なの。規則正しい生活を送ることと、感情を高ぶらせないこと……」
 でもね、想像してみて。彼女は言った。
「夜遅くまで起きちゃだめ。十分な睡眠を取らなきゃだめ。お腹いっぱい食べちゃだめ。かといって空腹を感じてもだめ。笑ってもだめ。泣いてもだめ。もちろん運動をしてもだめ……これって生きてるって言えると思う? そのころね、私、なんにも面白いことなんてなかった。友達が声を上げて笑ってるの見ながら、自分がなんのために生きてるのかわからなかった……」
 彼女は一、二度まばたきした。 
「だからね、中学一年のときに手術して、ペースメーカーを身体の中に埋め込んだ。心臓の鼓動が遅くなったのを感じ取ると、電気を送って鼓動を一定に保ってくれるの。普通の人と変わらない生活ができるように、って。私の中には、数百万もする小さな機械が埋まってて、リード線で心臓とつながってる……監視、してる……」
 彼女はうつむいた。
「手術が終わって退院したばかりのときはね、そりゃ嬉しかったんだ。友達の家に泊りに行って夜更かししたり、ケーキの食べ放題のお店に行ったりしてね、親にそんなこと全部報告してた。『だからね――』って言うのがそのときの私の口癖だった……日課だった。
『だからね、夜更かしできるのが嬉しいの』
『だからね、お腹いっぱい食べられるのが嬉しいの』
『だからね、思いっきり笑えるのが嬉しいの』
『だからね──』
『だからね──』
 そう言って、なんでもないことでも親に報告してた。親もいちいち私の話に付き合ってくれた。そんな生活に疑問なんてなかった……疑問なんてない……ないはず……」
 彼女の目にうっすらと膜がかかった。
 もうやめたほうがいい。
 もうやめるんだ。
 もうやめろ!
 僕の心の中に、必死に制止する声が響く。だが、僕は制止の声を聞きながらも、質問するのを止めることができなかった。
「疑問?」
「ある日ね……急に思いついちゃった……理科の……実験……カエルに……電気流して……カエル死んでるのに……足がぴょんって動いて……」
 彼女の声が次第に震えはじめた。
「それ見てたら……わ、私も……あれと同じなんじゃないかって……ほんとは死んでるのに……電気の刺激で……い、生かされてるだけじゃないかって……」
 彼女はまともに語りつづけることができなかった。嗚咽を必死にこらえながら、でも止められず、涙で顔をくしゃくしゃにして、うつむいて、肩を震わせていた。流れ落ちた涙がテーブルに落ちて、刹那の水溜まりをつくっていた。
「私……私……いったん考えはじめちゃうと……も、もう止まらなくて……手術のこと知ってる人に……会いたくなくなって……おまえ……死んだカエルと同じだって……で、電気で動いてる、う、だ、だけだって……言われてる、うっ、みたいで……そんな……わ、わけないのに……耐え、耐えられなくなって……転校……して……ううっ……」
 僕は立ち上がると、向かいの席の彼女の隣に座った。そして彼女を抱き寄せると、ゆっくりとその髪を撫でた。彼女は声を上げて泣いていた。ただ、泣きじゃくっていた。そして、僕も泣きじゃくる彼女の髪をただ撫でつづけた。
 正直、周囲の視線が恥ずかしかったけど、それ以上に――。
 それ以上に、彼女が愛しかった。
 ただ、無性に愛しかった。
 僕は静かに言った。
「それでも、それでもさ、胸を張って生きなきゃ」
 彼女が全身で聞いているのがわかった。
「歯をくいしばって笑わなきゃ。だってさ……」
 少し逡巡した後、僕は一気に言った。
「緑が泣いたら、僕も悲しくなるだろ」
 僕はそのときはじめて彼女の下の名前を呼んだ。
 彼女が小さくうなずいたのが胸の感覚でわかった。



五 予備校・冬



「もしもし、あの、私、葉山といいますが、浩二さんはいらっしゃいますか?」
「…………」
「あ、あの……」
「……くくくっ、本人です」
「あーっ、ひっどーい!」
「息遣いで気づかなかった?」
「気づくわけないでしょ!」
 そう言いながらも、緑は笑っていた。
 大学受験の結果、彼女は志望校に合格して東京で一人暮らしをすることになった。一方僕はといえば、受けた大学はすべて不合格になり、自宅から予備校に通っていた。
「いよいよ来週だね」
「うん」
 彼女は不安そうな声で答えた。
 来週の日曜日に、彼女は二度目の手術を受けることになっていた。なんでも、ペースメーカーの電池が予定よりも早く消費されたため、取りかえる必要が出たのだそうだ。本来八年持つはずの電池が、わずか六年ほどしか持たなかったのだから、かなり予想外の出来事といえるだろう。
 ただ、交換自体は決して難しい手術ではなく、まず心配ないということだった。
「約束、ちゃんと守ってよね」
「わかってるって」
 僕は当日、手術が行われる東京の病院に応援に行くことになっていた。まあ実際は、手術をダシにして久々に会おうということだ。我ながら不謹慎だと思う。
 しばらくとりとめのない会話をしたあと、僕たちは電話を切った。以前とは段違いに明るい彼女の笑い声を思い出しながら、僕は部屋で一人、思わずにやにやと笑った。



 次の日、僕は予備校に向かう電車の中で、甲高い電子音を聞いた。振り向くと、制服姿の女子高生が鞄のなかから携帯電話を取り出していた。
(最近多いなあ)
 最近のPHSや携帯電話の普及の速度は異常なほどだった。街のあちこちで電子音が響き、また学生たちがところ構わずその小さな機械に向かって話しかけていた。中には電話しながら買い物をする人もいたし、常に手に持って何やらボタンを押しつづけている人もいた。
 僕は携帯電話を持っていなかったし、これから持つ気もなかった。必要がなかったというのがその理由だが、ほかの人が携帯電話を使っている姿にどこか不快なものを感じていたというのも、理由の内にわずかに含まれていた。ただ、いったいなにが不快なのかは、自分でもよくわかっていなかった。



 緑の手術の二日前、東京から電話があった。緑の母親からだった。電話を切ると、僕はすぐに家から飛び出した。
 東京へと向かう電車の中、僕の頭の中では先ほどの会話がぐるぐると渦巻いていた。動転していたため、その会話は断片的にしか頭に残っていなかった。
『――娘が――』
『――倒れて――』
『――駅――』
『――変な様子はなくて――』
『――普通――』
『――コール音――』
 大丈夫、大丈夫、と自分に言い聞かせながら、僕は震える身体を押さえようと必死だった。



 僕が東京に着いたとき、緑はみなに囲まれて静かに眠っていた。
 少なくとも僕にはそう見えた。
 ただ、彼女の体はとても冷たかった。
 とても。



 ペースメーカーは外部からのリモートコントロールによって設定を微調整する。動力源は主にリチウム電池。五年から十年の周期で交換する。埋め込み、電池交換、どちらも簡単な手術で済む。そのこともあり、ペースメーカーの利用者は数百万人を超える。
 最近、ペースメーカーの誤動作が社会問題になっている。必要以上の電気刺激が発生したり、電池が本来の期間持たなかったりと、トラブルが続出している。
 原因の一つに、携帯電話が発する電磁波が挙げられる。急速に普及した携帯電話による無秩序な電磁波が、ペースメーカーに限らない様々な医療器具に影響を与え、誤動作や電池の異常消費を誘発している。
 ペースメーカーと携帯電話の安全距離の一つの目安として、三十センチという距離が言われている。だが、絶対などあるわけがない。メーカー等の関係各所は、使用者に対して、人込みの多いところには行かないよう呼びかけている。しかし、都市圏で暮らす使用者にとっては無理な話だ。
 対策としては、防磁性のペースメーカーに変えることが考えられる。だが費用の問題から交換を見合わせている人は多い。
 中にはアルミの皿を常に持ち歩く人もいるという。周囲で携帯電話の音が鳴ると胸に当てるのだそうだ。
 少しでも死への可能性を下げようと。
 少しでも生への可能性を上げようと。
 アルミは防磁性だから。



 すべて後になってわかったことだ。



 決して忘れることのないあの日から数ヶ月が過ぎた。
 僕はこの数ヶ月間のことをよく覚えていない。
 ただ、泣かなかったことだけは覚えている。
 僕は、泣かなかった。
 通夜のときも、葬儀のときも、それから後もずっと――。
 起きて、朝食を食べて、ぼんやりとして、昼食を抜かして、夕食を食べて、風呂に入って。
 そして、寝る。
 布団を頭からかぶりぼんやりと、する。
 必死でなにも考えまいと、する。
 頭を空っぽにしようと、する。
 昼はいい。日の光に目を細め、木々の葉がさやけく音に耳を傾けていれば、余計なことを考えないで済む。
 夜は、努力がいる。
 静けさの中、一定の方向へ流れ込もうとする記憶の奔流を懸命に堰き止め、頭を空っぽにする、努力がいる。
 その単調な精神作業に疲れ、ようやく僕は眠りに誘われる。
 そして朝、起きて、朝食を食べて――。
 そうして僕はこの数ヶ月間を過ごした。
 だから、正確に言えば、この数ヶ月の間に覚えるべきことがなかったということになる。
 覚えていることと言えば、なにかを「した」という記憶ではなく、なにかを「しなかった」という記憶だったというだけのことだ。
 僕は、泣かなかった。



 そんなある日、僕の元に、小包みが送られてきた。
 中には小さな金属製の箱が入っていた。
 手のひらにすっぽりと収まってしまう小さな箱。
 ペースメーカー。
 こんなテレホンカードよりも小さなものが、彼女の命を支えていたのだ。今更ながら驚いた。
 小包みには短い手紙がついていた。
 僕は手紙を読んだ。



『前略

 ずっと気が動転していまして、伝えるのを忘れていました。遅くなりましたが、娘の言葉を伝えたいと思います。

 ――私に言ったあの言葉を忘れないで。

 以上です。
 私にはなんのことかわかりませんが、高山さんにならきっとおわかりになることなのでしょう。同封したペースメーカーは娘の使用していたものです。

 草々』



 とても短い手紙だった。
 僕は自分の部屋に行くと、一番上の鍵の付いた引き出しを抜いて、中身をすべて床に空けた。
 そして、送られてきたペースメーカーを引き出しの中心にそっと置くと、引き出しを閉めて、しっかりと鍵をかけた。
「…………」
 しばらく迷った後、
「それでも胸を張って生きなきゃ……歯を食いしばって笑わなきゃ……」
 小さく小さくつぶやき、僕は泣いた。



エピローグ



 ――僕は溢れ出た記憶の奔流から抜け出した。時計を確かめると、まだほんの数分しか経っていなかった。
 僕はため息をつくと、リモコンのボタンを乱暴に操作して、未だに空々しい笑声を発しつづけるテレビの電源を切った。
 部屋に再び静けさが訪れた。
 僕は写真立てを元の場所に置き、リモコンを放り投げると、ベッドに仰向けに倒れ込んだ。頭の後ろで手を組んで天井を眺めながら、溢れ出てくる記憶の奔流を再び受け入れる。
 あれから四年が経った。その間、いろいろと考えた。
 国内のペースメーカーの使用者は数百万人を越えている。
 今も、一年間に数万人のペースで使用者は増加している。
 極言すれば、道を歩く人々の中、百人に一人から二人、ペースメーカー使用者がいるという計算になる。
 路上でけだるげに携帯電話のボタンを押している少女は気づいているのだろうか。
 電車の中で無造作に携帯電話を取り出すサラリーマンは知っているのだろうか。
 自分たちが、それらの人々に死の恐怖を与えているかもしれないという事実を、わかっているのだろうか。
 わかっていても、なお携帯電話を使いつづけるのだろうか。
 僕は、もう一度ため息をついた。
 やはり、使いつづけるのだろう。
 そして、それはしょうがないことだ。
 携帯電話は、新たなコミュニケーションツールとして、画期的なビジネスツールとして、もうなくてはならないものだ。人々に不可欠なものだ。
 やがて改善が進み、安全性が高まるのを待つしかないのだろう。
 そう、今さら言ってもしょうがないことだ。
 でも――でも、正直わからなくなるときがある。
 なにが正しいのか、なにが間違っているのか。
 なにかが根本的に間違っている気がするが、その「なにか」がなんなのか、わからない。
 いや、わかっているのかもしれない。わかっていて、目をそらしているのかもしれない。「ほかの人も――」「綺麗事だけじゃ――」「理想論じゃなくて現実を――」。
 僕は目を閉じた。
 わからない、わからない。
 わからないことだらけだ。
 ただ一つだけわかること。
 それは、僕が携帯電話を嫌いだということだ。(了)




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