――逃げている?
そう。逃げている。
私は、逃げている。
夜の街を遠く離れて、人も訪れない枯れた原野の中。
息が荒い。
整えられていたタキシードは、とっくに汗と泥でぐしゃぐしゃだ。ぱりっとした蝶タイがつい二時間ほど前までは襟に巻かれていたはずだったが、いつの間にか消えてしまっていた。
引っかけてちぎれたか、全力疾走の最中、無意識にもぎとってしまったのか。
どうでもいいことではあった。今となっては。
しかしそんな「どうでもいい」ことでも考えていなければ、立ち止まってしまいそうになる。
体中を埋め尽くしている疲労と、頭の中を埋め尽くしている恐怖とで。
――恐怖?
そう。恐怖。
私は、恐怖している。「死」に怯えている。
追ってくる者が、もたらす「死」にだ。
私を追う者が、そこまで迫っているのがわかる。
足取りは、決して速くない。しかし遅くもない。止まることもない。
確実に逃げる私をとらえ、追いかけてきている。それがわかる。
精神的なものを度外視すれば、私とそいつの関係はひどくシンプルだ。
そいつが私にもたらすものは、たったひとつだけ。
「死」。
聞いて確認したわけではない。そんなことを聞く余裕もなく逃げた。
ただ、そいつが私が勤めていたハードロック・カフェの薄暗い階段を昇ってくるのが見えたとき、私は直感的に恐怖していた。厨房にある非常階段をまろび出た頃には、理由もなく私たちの関係を確信していた。
――何故、私は逃げているのか。
ふと、そんなことを考えてしまう。汗と泥にまみれて走りながら、あえぐ呼吸のなかで。
ひょっとしたら、すべて私の妄想にすぎないかもしれないのだ。振り向いて立ち止まると、しばらくたってから男が追いついてきてこう言う可能性だってある――「やあ、何処に行くんだ、君! せっかく儂が、君のものに違いないパスケースを拾ってあげたというのに!」
違うと直感する。直感が否定している。足が止まらない。
立ち止まれば、間違いなく殺される。そう思う。
だから、逃げている。
――何故、私は殺されなければならないのか。
そうも思う。
命の危険は感じる。しかし理由はわからない。命を奪われるほどの何か――たとえば罪になるようなことだ――を、したというのか?
身に覚えはない。そもそも罪を犯したこと、それ自体がない。
子供の頃によくありがちな、注目を集めようとしての幼稚な悪さをはたらいたこともない。
ケンカをして誰かを傷つけたことも、いや口論の経験さえも私にはない。逆に言えば、妬みを買うような優れた行いをしたこともなかった。
誰とも、誰ひとりとも、肩を合わせず生きてきた。今まで。
――何のためか?
疑問に思う。「何のため」。
何のために、私は生きているか。
疑問に思ったこと自体、馬鹿げたことだと言う他はない。人生に明確な目的がないからといって人生そのものを疑問に思うことはないし、そもそも今考えることではない。それに平凡に争いを望まない生き方の何処が悪いのか――。
ところが、私は考えてしまう。答えが出ないことを、さらに疑問に思う。
目的も何もなく、今日までただ生きていた。
何故、と。
――「このため」に?
足が止まってしまっていることに、その時、気付いた。
愕然とはしかし、しなかった。荒れた呼吸も激しく鼓動していた心臓も、恐怖に怯えていた心も、いつの間にか穏やかな状態に戻っていた。
――「この時のため」に。
唐突に。私の中で。
もうひとつの意志が、「目覚めた」。
「……諦めたか」
時を同じくして背後から声。ゆっくりと振り向くと、そこにいた。
ボロボロのトレンチを身にまとった、おそろしく歳を取った男だった。
だが、そのどっしりと構えた肉体は岩のようだ。吐き出す呼気に乱れはない。目は炯々とこちらを見据えている。その中の闘志はいささかも揺るがない。
何度も見た。何度も感じた。そして初めて、今夜対する。
我が――「敵」だ。
「何処へ逃げても、逃がさん。魔界の先兵よ」
声は自身の実力に対する誇りと、私への怒りとでたぎっていた。絶対の「死」を連装させた。
だが私は額の汗をぐいとぬぐい、薄く笑った。
「――逃げる?」
汗はまがいもの。
この身体、血と肉と精神までも、すべて。
「いや、確かに逃げていた。逃げているつもりだったが――」
今、真のそれは目覚めつつある。
血肉と精神はあるべき姿に戻り、記憶は成すべき目的を取り戻し。
目的は――「この男を殺す」こと。
「人知れず」、「秘密裏に」。
次の『侵略』の準備が整うまでに、「障害となる者」を誘い出して始末すること。
恐怖に怯え、狂った「人間」の妄想か?
否。
「違ったらしい。……ここなら、人の目はない」
思い出しつつある。徐々に。
私が、「人間」ではないことを。
「そうか」
男も、それにとまどうことはなかった。
あるべきこととして、受け止めた。
「追ったつもりが罠とは侮れぬ。しかし、結末は同じだ」
――そうかもしれない。
私は心の中で同意する。
わずかにまだ残っている、まがいものの思考の片隅で。
『小癪な。塵芥に等しき、矮小な人間風情の言いぐさか』
出かかった言葉と浮かべかけた嗤いは、私の――「我々」本来の思考に基づくもの。
私はそのふたつを押しとどめる。そう言い切ってしまっていいのか、一瞬躊躇した。
どちらが正しいのか。
私という存在本来の考え方に準じるならば、私という存在が発するべきは当然後者だ。
だがひょっとしたら、「正しい」のは前者かもしれない。そうも考える自分がいる。
そう考えるのはまがいものの思考だ。私が人間の世界にとけ込めるよう何者かによって構成された偽りの精神、擬似的なものにすぎない。
なら、それが生み出す結論も、ことごとくまがいものなのだろうか?
――おかしな考えだ。
自嘲する。
「自嘲」などという感情が、果たして本来の私にあっただろうか? 本来の私であれば、ここは「自嘲」するようなところだったか?
――そうだ。まったくおかしな考えだ。私はどうかしている。
おそらくは。
これまで生きてきた中で、私がこのように感じたことはない。
「自分自身で気付かない」ほど巧妙に、『人間』になりすましていた頃はもちろん。
本来の生命を、生きていた時ですら。
今この瞬間だからこそ、この感情は芽生えたのだろう。
今の私の精神は、おそらく『人間』のものでも『本来の姿』のそれでもない。
拮抗してはいないにせよ、いわばふたつの精神構造が同時に存在する状態になっているはずだった。
『人間ごときに、負けはしない』
『この人間には、負けてしまうかもしれない』
同時に、そう考えている。
勝利を確信すると同時に、敗北を予感している。それに恐怖すると同時に高揚し、怒ると同時に怯えているのである。
おそらく私にこの役目を命じた御方は、このようなことが起きるとは予想もしていなかっただろう。その御方が、どんなに恐るべき力を持っているとしても。
「――ひとつ、聞きたいことがある」
私はたたずむ男に向かって、口を開いた。
男は小さく目を細めただけだったが、構わないということなのだろうか、そのまま動かない。
私はその結果に満足して、尋ねる。
「私に、勝てると思うか」
男が、その質問の真意を図りかねているのがわかった。
しばらくの沈黙の後――。
「……『悪魔』は、みな滅ぼす」
ただそれだけを、ぼそりと答える。
「なるほどな」
私もうなずいた。
男は、「勝敗」について頓着していない。
つまり今から始まろうとしているこの戦いについて、男には何の気負いもなく、さしたる感慨も抱いていないということだ。おそらくとてつもない数の修羅場をくぐり、幾度となく命の危険にさらされて慣れてしまったのか、心が麻痺してしまったのか。
もっと先の未来を見据えているがゆえに、今現在のことなど単なる通過点であり、気にする余裕はないということなのかもしれない。
どちらにせよ、私とは大きな違いだった。
男の精神はただひとつの結果を目指して到達できると疑わず、ましてや迷いなどないのだろう。そしてその目的の前ではここでの「勝敗」など、些末なことに過ぎないのだろう。
私は違う。私にとっては。
私は今から始まる、この戦いのためだけにここにいる。この戦いにすべての力を注ぎ、目的を達成することこそが、今私がここにいる存在理由すべてだと言ってもいい。
そしてこの瞬間ですら、まだふたつの意志は混在している――。
どうでもいいことだろうか?
そうは思わない。
思えない。まだ。
「承知した。……はじめよう」
返事はなかった。
男はただ、何も持たない右手を振った。オーバースローだった。
投げつける腕が振りきられるまで、その手には何も――。
私は全力で跳びすさり、身をかわさなければならなかった!
数瞬遅れ、その場所には巨大な鉄塊が突き刺さる。
――知ってはいた。「思い出して」はいた。
しかし何という!
鉄塊の正体は、槍だった。
男の身長ほどもある、鋼鉄製の騎馬槍。男はそれを右手のひと振りで虚空から生み出し、軽々と投擲してきたのである。
知ってはいた。しかしなるほど人間とは思えない異能だった。
我が眷属が、ことごとく敗れたのもうなずける。
次の槍は、すでに投擲されていた。
跳んで逃げ続けるのは無理。喰らえばひとたまりもない。
ならば。
――ならば――「飛ぶ」。
ふたたび後方に跳躍する。凄まじい速度で槍が追ってくる。
命中する刹那――私は「本性」を解放した。
ぐい、と身体が上に持ち上がる浮遊感。重力と真後ろに働いていた運動エネルギーが抗えたのは、わずかな時間に過ぎなかった。
背中から飛び出した私の――「本性」の一部であるところの――翼は、一度羽ばたくだけで私の身体を高速で地上十メートルの高みまで引き上げた。
そう――私は「飛んだ」。
人間が決して持つことの出来ぬ能力を行使した!
槍がはるか下を通り過ぎていく様に、にんまりと嗤う。
「その槍が私に届くかな? この高さまで、威力を殺さずに?」
余裕をもって、男に告げてやった。
無風だった原野にかすかな風が巻き起こり、草と見上げる男の髪を揺らしている。
私の起こした風だ。
背中から生えた赤い蝙蝠様の翼が、ふわり、ふわりと揺らめいている。そのわずかな微風だけで、私は空中にとどまったままでいることができる。
地上の生物では、こうはいかない。
「たとえ届いても、威力も速さも減じていることだろうな。私がかわすのも訳のないこと――」
調子に乗った私の言葉も、男には効果はなかったようだ。狼狽の色を見せず、残った左手を引きつける。
アンダースローの構えが、私の余裕に冷水を浴びせた。
投げ「上げる」構えから生み出された武器は、旋回しつつ猛速でせまる大鎌だった。
――槍だけではない!?
必死で身体をひねる。ひねりながら、降下する。
きわどいところで鎌をかわした。そのまま男に向かって低空すれすれを疾る。
再び「変性」。両手を戻す。
元の姿に――鉤爪の生えた、赤く大きな手に。
すれ違いざまの、すくい上げる爪の一撃。
鎌を投げ終わった男の左手が、応じるように振り戻る。
その手にはいつの間にか――ひと振りの剣が握られていた!
爪の軌道を無理矢理変える。額目がけて落ちてくる剣の軌道と併せた。
火花が上がった。同時に翼を思い切りうち振り、距離を取る。
五メートルほどを置いてふたたび対峙した。追撃はない。
にらみ合う。
――槍に鎌、そして剣……いや。
おそらくは、もっと。
その状況に応じて、あらゆる武器を。的確に、冷静に。
恐るべき相手だった。だがそれも当然だ。
かつてひとつの村を呑み込んだ悪夢を、たったひとりで打ち払った英雄。それがこの男。
村を包んだ異界の法則は切り崩され、いくつもの致命的な罠はあっさりとかいくぐられ、そこに巣くった何百という魔物も殺し尽くされ――。
魔物たちを統べる異界の「貴族」たちすらも、ことごとくこの男ひとりの前に敗れ去った。
『首刈り将軍』、『地獄の番犬』、『食い尽くす霧』、『虫たちの母』、『蠅の王』。
そして、『大王』も。
――『大王』でさえも。
身体が思い出したかのように、ぞっと背筋が凍った。男の実力に、私の中のもうひとつの感覚が恐怖を感じたためだとわかった。
まがいものの感覚。
そう自分に言い聞かせても、背に貼り付いたそれは一向に剥がれ落ちてはくれない。
頭の中のもうひとつの精神が、消えてくれない。
――『大王』を破ったほどのこの男に、どうして私ごときが勝てると思うのか。
――たかが人間相手に破れるとは、『大王』とはその程度の存在であったか。
――私も滅ぼされる。殺されるのだ。幾百の同胞たちと同じように。
――私は違う。私はやつらとは違う。負けはしない。人間ごときには。
ふたつの意志が叫び合う。
ひとつは怯えと恐怖ゆえ、ひとつは絶対の自信と不遜ゆえ。
私が本性を現しつつあるいま、本来なら消えていくはずの前者――「まがいもの」の意志はしかし、何故かもうひとつの意志に拮抗しつつあった。ふたつの意志は今やせめぎ合い、ともに互いを呑み込まんと膨れあがっていた。
それは初めて感じる感覚だ。
奇怪な、不安定な、今にも破綻しそうできわどく拮抗を保つ、ひどく危うい……。
まるで。
まるで?
戦いの中で、私はあろうことか戦いを忘れた。
思考に没入しようとしたその瞬間を狙って、男が両手を振りかぶる。一挙動で投じられたふたつの鎌が、それぞれ左右から私を挟み込んで飛来する。
反応が、遅れた。
――死にたくない!
叫びにならない叫びを上げて、正面に飛んだ。おぼつかない羽根の動きに失速しそうになりながらも、ふたつの刃の間を何とかすりぬけた。
待っていたと言わんばかりの鉄槍。
――死にたくない!!
きわどいところで、きりもみが間に合う。背中すれすれを過ぎていく。
もう一本。反対の手で投じた一本があるはず。
眼前だった。
――死にたくない!!!
肩をかすめた槍の感触。
無我夢中だった。もう一度やれと言われても無理だろう。
反撃も忘れて、ひたすらに男の攻撃をかわし続ける。怒りに恐怖が勝りつつあった。
対して男は冷静に、おそろしく正確に攻撃を加えてくる。
まるで機械だ。目的に向かって邁進する、冷徹にして強力な機械。
――これでは、どちらが――。
「…………!?」
私は、突然に「答え」を見つけた。
霧が晴れたかのごとく。
本来の自分が目覚めたときと同じか、それ以上の明解さでもって。
強引に急上昇する。しながら哄笑した。
笑わずにはいられない。
「わかった。わかったぞ。今わかったぞ――我々が何なのか!」
男は構えをそのままに、じっとこちらを見据えている。
私は空中で腕を組み、すっと身体の力を抜いてリラックスしたような素振りをみせてやった。おそらくそんな余裕はないのだろうが、奇妙なほどに、今の私には――。
「私は今まで、おまえを人間として見ていた。だが、違うのだ」
自分でも驚くほどに、余裕がある。
そして確信もだ。思いついたばかりのこの持論だが、絶対の自信があると言っていい。
私は男に向かって、それを告げる。
「おまえはもはや、人間ではない」
男はさすがに、面食らったように構えをといた。
目を細め、こちらの様子を探るように数歩さがる。
ほんのわずかな沈黙の後、ぼそりと「儂は人間だ」と呟くのが聞こえたが――。
「いいや、違うね」
間髪入れず、それを否定した。
「おまえの能力も思考も、今や人間のそれとは大きくかけ離れている」組んだ腕から手だけで男を指さし、「その姿形、それだけだ。それだけがおまえを人間として見せている。だがそれは『見せている』だけで本質まで顕してはいない。おまえの本質はどちらかと言えば、我々のものに近いのではないのか?」
言葉は返ってこない。
自覚があるのか、それとも答える必要もないと思ったのか。ただこちらを睨め上げるだけの男に仰々しく頷いたあと、私は説明を続けてやることにする。
「『人間は悪魔に勝てない』という。しかしその一方で、『悪魔に勝てるのは人間だけだ』ともいう。
これは明らかなる矛盾だが、事実でもある。何故なら私たち悪魔は数え切れないほどの人間を殺しているが、同時に幾度となく人間によって滅ぼされてもいるからだ。現におまえは凄まじい数の同胞を滅ぼしている……」
私は一度言葉を切って、「『大王』でさえもな」と付け加えた。
「人間には武器がある。集団で戦うと侮れない。何より『不屈の意志』とやらを持つに至った連中はしぶとく、厄介極まりない!
だがおまえの強さは明らかにそれとは違う強さだ。どれほどの多勢とどれほどの武器をもってしても、我らの貴族や『大王』を滅ぼすのは至難の業のはず――なのにおまえは、たったひとりでそれを成し遂げてしまった。
……何故か? 何故そんなことが可能なのか?」
私の、たどり着いた結論。
男の、異様な強さの理由。
「それはお前が、人間ではないからだ。存在自体は人間という体裁を取っていながら、その能力と意思は――本質的な部分は我々のそれだ。
『悪魔に勝てるのは人間だけ』という伝承と、『人間は悪魔に勝てない』という事実。
その相反する言葉を合理的に、矛盾無く抱え込める存在……それがお前なのだ。
あの村から生き延びるためにそうなったのか? それとも生まれたときからお前はそうであるのか?
どちらにせよ、何ということはない。お前は我々と対等であり、互角以上に戦えるのも当然だということだ」
男は――何も言わない。ただじっとこちらを見据え、佇んでいる。
「さて、ところでお前は、今対峙している私をどう見ているね? 先程の受け答えから推し量るに、今までお前が倒してきた同族とおなじバケモノくらいにしか見ていないだろう?」
返事はない。先刻と同じ応えが返ってくるとばかり思っていたが。
構うまい。むしろ有り難い。
今からぶち上げようとしているもうひとつの理屈は、自分でも嗤ってしまうほどに、無茶苦茶な屁理屈であるのだから。
「ところが違う。説明は難しいが、私の精神はちょっとした、……何らかのアクシデントで、いまだ人間であった時――人間になりすましていた時の精神構造を内包している。
正直に言おう。お前が恐ろしい。お前が私にもたらすかもしれない『死』が恐ろしい。
悪魔はこんな考えを持たない。ただ機械的に、論理的に、極論すればシステマチックに思考し行動する。ところが今の私は不安定で、二律背反のような状態に苛まれつつお前と対峙している……。
まるで、人間のようだと思わないかね?
今の私は、お前と真逆の存在なのだ。存在自体は悪魔だが、本質の一部に人間の要素が紛れ込んでしまっているんだよ」
それは言葉の上だけでの遊びに過ぎない。暗喩と言い伝えの、ねじ曲がった混合物だ。
説得力など無い。しかし私は口にした。
今の私にとっては、それが何より意味があるように思えた……。
「さあ。これで私は、あらゆる意味でお前の天敵だ。
お前の『悪魔』の本質に勝てるのは私の『人間』の本質。
お前の『人間』という存在に、私の『悪魔』という存在は絶対有利。
どちらが勝つだろうな? 『生きたいと足掻く人間の強さ』、私も今知った。
なかなか凄いものだな」
少しでも生き延びるための、単なる時間稼ぎなのだろうか?
少しでも精神的優位に立とうとするための、方便なのだろうか?
構わない。
醜い足掻きで、それでいい。
この男に勝つ。勝って生き延びる。
生き延びて、そして。
そして? 生き延びて、それから?
何と刹那的な欲求。
何と――人間的な欲求!!
「……悪魔は、みな、滅ぼす」
男が、ちぎって捨てるように宣言した。
男の手の中に、鉄槍が顕れた。
「ああ、それなら私はこう応じよう――」
私は全身を「変性」させた。
真紅の、有翼の悪魔。
精神をふたつに断ち割られたまま、姿だけは完全な『悪魔』になった。
「ならば今、お前もここで滅べ。『悪魔』」
私は翼を打ち振って、男に向かって突っ込んだ。
壮絶なる決意と生への執着に後押しされ、二列に並んだ牙を強くつよく食いしばり。
高速で迫る男の顔は、無表情のままに見えた。
私の中の「何か」が、快哉と悲鳴を放った。
――死にたくない!
了。