夕焼けの






《一つの計画を練っている》
《それは人として許されないことだろうか》
《そうとばかりも思えない》
《きっと必要なことなのだ》
《心の霧を晴らすために――》



一 屋上



 僕は屋上の外周を囲む手すりに肘をつきながら、ぼんやりと夕焼けを眺めていた。屋上には僕のほかに誰もいない。それはそうだ。こんな夕方まで学校に残って、屋上に一人ぽつんと立ちつづけようなんて奴、そうそういるわけない。それだからこそ、僕もまたここにいることができる。
 眼下から威勢のいい掛け声が聞こえる。視線を転じると、十数メートル下のグラウンドを、野球部の連中が列を作って走っている。たかだかそれだけの距離のはずなのに、僕には彼らが地面を這い回る蟻に見える。そういえば、昔は蟻をひたすら踏んで遊んだりしたっけ。ぷちぷちぷちぷち、無残に死んでいく蟻。なんであんなことを夢中になってしたんだろう。よく覚えていない。なんとなく絶対者の感覚を味わいたかったのかもしれない。
 僕がそんな風にとりとめのないことを考えていると、

 ――ガシャン。

 突然屋上に鈍い金属音が響いた。その音で僕は思考の海から現実の世界へと引き戻された。だがそれでも僕はぼんやりと夕焼けを眺めつづけた。どこの誰かは知らないが、僕がいるのに気づけば引き返すだろう。屋上に知らない奴と二人きりなんて、僕だったらごめんだ。ほかの奴だって、きっとそう感じるに違いない。

 ――カッ、カッ、カッ。

 だが予想に反して、甲高い足音が僕に近づいてきた。そして僕のすぐ後ろまで来るとぴたりと止まった。
「やっぱりここにいたんだ」
 どこか呆れたような声。振り返ると、同じクラスの高倉美郷が僕の顔をのぞき込んでいた。セミロングの髪からのぞく耳が、夕焼けに包まれて赤く染まっていた。
「どこにいようと僕の自由だろ」
 僕はそっけなく言った。高倉は確かにクラスメイトだが、別に仲がいいというわけではない。三年になってもう二ヶ月経つが、片手の指で数えられる程度にしか喋ったことがなかった。
「あらら、なかなか冷たいね、君」
「なんか用」
「べーつにー。あたしもちょっと夕焼けでも眺めようかと思ってね。そしたらたまたま君がいたってわけ」
「さっき、やっぱり、とか言わなかったっけ?」
「君、細かいところにこだわるねえ」
「あのさ」僕は苛立ちを隠さずに言った。「その『君』ってのやめてくれよ。なんか鼻につく」
 高倉はきょとんとした顔をした。だがそれも一瞬で、次の瞬間には、
「それはそれは失礼しました、相葉正様」
 そう言って深々と頭を下げた。
 これだよ、まったく。こいつのこういうエキセントリックなところが苦手なんだ。
 そう、僕はこの高倉美郷が苦手だ。いや、こいつを得意な奴なんて、同じ学年の中には一人もいないに違いない。違う学年にだったら一人だけいたが。
 その子の名前は相葉朋子。
 僕の妹だ、いや、だった。
 自殺したのだ。つい一ヶ月前に。
「それで、なんの用。用がないんだったら、僕は帰るけど」
「つれないねえ」
 高倉は酔ったオヤジみたいなことを言うと、僕の脇に来てゆっくりと手すりを撫でた。僕が黙ってそれを眺めていると、高倉はぽつりと呟いた。
「ここから朋子が飛び降りたんだね」
 その表情は、いつもの高倉とはうってかわって神妙なものだった。それはそうだろう。自分をあれだけ慕っていた朋子が自殺したのだから。
 どうやって知り合ったのか、生前の朋子はえらく高倉を慕っていた。ときどき僕のクラス――それはひいては高倉のクラスだということだ――に来ては、高倉にまとわりついていた。僕は三年になって高倉と同じクラスになって、はじめて朋子と高倉の仲がいいということを知った。
 僕が朋子に「あの高倉のどこがいいのさ」と聞いたとき、朋子はにこりと笑って答えたものだ。「自分に自信を持っていて、実行力があるところ」と……。
 僕が感傷に浸っていると、ふと視線を感じた。見ると、高倉がじっと僕のことを見つめていた。間近で見つめ合う格好になり、僕は慌てて視線を夕焼けに戻した。
「相葉くんさ」
「ん?」
「朋子が自殺した理由に、心当たりないの?」
「……それ、出会う奴みんなに何回も聞かれた」
 僕はため息をついた。
「そして何回聞かれても答えは一緒。さっぱり見当がつきません、さ」
「……そう」
「あのさ」と僕は言った。「朋子に関すること、もう聞くのやめてくれないか。聞かれるたびに、僕が朋子のことなんにもわかってなかったってことを再確認させられるんだ。もうやなんだよ、そういうの」
 それは、ここ一ヶ月の質問攻めから僕が編み出した自衛手段だった。こういえばみんな申し訳なさそうな顔をして引き下がる。
「……ごめん」
「わかればいいけどさ」
「ううん、そうじゃないの」
 高倉は首を振った。
「今の『ごめん』は、『これからも聞く。だから先に謝っておく。ごめん』の『ごめん』」
「…………」
 僕はじろりと高倉を睨んだが、怯む様子は一向に感じられなかった。
「もう一度聞くけど、本当になにか心当たりはないの?」
「いい根性してるよ、おまえ」
「ありがと。で?」
「……ない」
「そう……なら別な質問。朋子と相葉くんが本当の兄弟じゃないってほんと?」
 僕は驚いて高倉を見つめた。
「朋子から聞いたのか?」
「ううん、噂で聞いたの」
「まじかよ……」
 僕はうめいた。確かに僕と朋子は実の兄妹ではなかった。五年前、はじめて兄妹になったのだ。僕の母さんと、朋子の父さん、離婚した同士が再婚したことによって。
 でもそのことを他の人に喋ったことはない。朋子と話して、ほかの人には言わないでおくことに決めたのだ。一つ違いの兄妹が、実は血が繋がっていないなどと知れたら、どんな噂を立てられるかわかったものではないと考えたからだ。それに再婚と同時に朋子の――相葉の家に引っ越したから、僕の昔からの知り合いが学校にいるということもなく、朋子は朋子で大丈夫だと言っていた。いったいどこから話が漏れたというのだろう。やっぱり朋子の昔の友達からだろうか。本人がいなくなったからもういいだろう、とでも考えたのだろうか。だとしたら、嫌な考えだ。
「それ、誰から聞いたんだ?」
「誰だろう。忘れちゃった。誰かが話しているのを聞いたんだと思うけど……。で、どうなの?」
「……そうだよ。親同士が再婚したんだ。僕と朋子は義理の兄妹で、血は繋がってない」
 今更隠しても無駄だと思い、僕は答えた。
「そうなんだ」
 高倉はうなずいた。
「それで、もう質問はございませか、探偵さん」
 いけない、どうも高倉の口調がうつっているような気がする。僕は言ってから後悔した。
「なら……」高倉は言った。「相葉くん、警察はどうして自殺と断定したんだろう」
「どうしてって……調べた結果そういうことになったんだろ」
「そうかな」
 高倉は意味ありげに言った。
「あたしはそうは思わないな」
「どういう意味だよ」
「新聞読んだけど、たいした記事が出てなかったわ、朋子の自殺。あからさまに扱いが小さかった。いじめがあったわけでもなし、社会への不満を表明したでもなし、遺書が残されてたわけでもなし、家族には自殺の心当たりがなし……ないないづくし。言ってみれば、高校二年生の十六歳の女の子が学校の屋上から転落しただけ。なにも書きようがなかったのね」
「…………」
「そう、転落しただけ。なにも自殺と断定する根拠はない。事故かもしれない。でも警察は自殺と結論した。どうして? なんか進学苦かもしれないとかそんなことを発表したらしいけど、曖昧でどうとでも取れそうな言い方だわ。あたしはこう考えてる。つまり、警察は警察なりに、確かに自殺だと確信するなにかをつかんでいた。だけど、それを世間に公表することはしなかったってね。ねえ、相葉くん、本当に心当たりはないの? 警察が知っていて君が知らないなんて、不自然だと思わない?」
「……知らないものは知らないんだ」
 高倉が僕を見つめているのがわかった。僕はひたすら夕焼けだけを見つめつづけた。
「……そう、残念」
 高倉はそう言うと、くるりと踵を返した。
「帰るのか?」
「うん、相葉くんは?」
「僕はもう少しここに残るや」
「そう」
 高倉は軽くうなずくと、屋上のドアに向かって歩いていったが、ドアの前のところで立ち止まり、振り返った。
「相葉くん、明日もここにいるよね。ここ最近ずっと屋上通いだもんね」
「……多分ね」
「わかった、それじゃ」
 鈍い金属音が響き、高倉の姿が屋上から消えた。
 僕は両手を上げて大きく伸びをすると、手すりに肘をついて再びぼんやりと夕焼けを眺めた。



 放課後の屋上から見る夕焼けは特別だと思う。
 屋上という特殊な空間もあいまって、どこか人を世界から切り離す力のようなものを持っている。グラウンドから聞こえてくる運動部のかけ声を低音のBGMへと変え、校舎の中へとつづく金属のドアを壁に書かれた色の薄いイラストへと変え、人を世界にありながら世界にあらざる希薄な存在へと変えてしまう、そんな力だ。
 それを見つめる者を別次元へと引き込む、そんな力。
 人にやわらかな孤独感を与えてくれる、そんな力。
 そんな夕焼けの力、その最大の要因は、あの色にあると僕は思う。
 それはしばしば茜色などと呼ばれる、あの赤だ。だが「赤」などという単純な言葉では説明しきれない色だ。燃えるような赤、とでも言えば、まだ少しは正確だろうか。
 たとえば夕焼けをじっくりと観察してみる。
 空がある。夕日に照らされ、その光を存分に吸収する赤い空。これが夕焼けの構成要素の大半だ。だがそれだけだったら、夕焼けはここまで人の心を捕らえはしないだろう。
 雲がある。太陽と空の光をさまざまな角度から反射し、吸収し、さまざまな色に照り映える雲。それは茶色であったり、焦茶色であったり、黄土色であったり、橙色であったり、黄色であったり、それこそ深紅であったり、さまざまな色を生み出す。
 これらが複雑に重なり合ってできた集大成、それこそが夕焼けであり、その燃えるような赤なのだ。だから夕焼けを「赤」だとか「茜」などという単純な色の言葉で表すことは、夕焼けに対する冒涜ですらあると僕は思う。だから僕は夕焼けの色を複雑な想いを込めてこう呼ぶ。そのどこか禍々しさを覚える色を正確に表現できるよう願いながら。
 赫(あか)、と。
 そして今、空にはどこまでも赫い夕焼けが広がっていた。
 それを眺めながら、僕は高倉のせいで中断されていた『問題』についての思考を再開した。
 だが、やはり今日も『解答』は見つからなかった。
(そういえば)僕は思った。(高倉の奴、また明日も来るつもりかな)
 だとしたらちょっと嫌だな。そう思った。



《これは恩寵》
《ゲームのつづき》



二 予兆



 ……。
 …………。
 ………………。
 ……………………。
 …………………………。
 なにか声が聞こえたような気がした。僕はつけていたヘッドホンを外すと、耳を澄ました。しばらくして、
「ねえ、お兄ちゃん、寝ちゃったの?」
 ドアの向こうから小さな声がした。朋子だ。
「起きてる」
 僕は小さな声で答え、机の上のパソコンのモニターを見た。右下に表示されている現在の時間。そこには「00:03」という数字が並んでいた。
「ドア開けていい?」
 再び朋子の声。
 僕は素早くパソコンの画面をチェックした。右下にはMP3プレイヤーが描くカラフルな曲線。左上には「マイ ドキュメント」というウインドウ。右上にはネットからダウンロードした壁紙の画像。朋子に見られて困るようなものはない。大丈夫。
「ああ」
 僕は答えた。
 かちゃりと静かにノブの回る音がした。ドアが開き、朋子が顔をのぞかせる。大きい瞳と、十六歳にしては少しあどけなさの残る顔。
「なんだよ」
「部屋、入っていい」
 朋子が言った。
「だめ」
 僕はそっけなく答えた。
「いじわる」
「なんの用だよ」
「うん、あのさ、なんか眠れなくってさ、面白い漫画かなんかあれば貸してもらえないかなと思って」
 僕は黙って書棚にいくと、一冊の本を抜き取ってドアのところの朋子に渡した。
「『イスラーム統治論 ムスリム同胞団とその思想』……ってなにこれ?」
「眠れないんだろ? それはいいぞ。読みはじめて三分で眠れること請け合いだ」
「こんなのそもそも読む気にならないよ。漫画貸してよ、漫画」
 僕は朋子の手から本を受け取ると、再び書棚から一冊の本を抜き取ってきて朋子に渡した。
「『ブラック・エンジェルズ』……ってなにこれ?」
「それはいいぞ。これまでとは違ったダークな視点で自転車を見れるようになること請け合いだ。自転車を侮ってはいけないことがよくわかるぞ」
 朋子はぶすっとした顔で僕に本を突っ返した。
「なんかダメそう。もういい。自分で探す」
 そう言うと勝手に部屋の中に入り、書棚の前に立つ。しばらくして朋子が選んだのは、『ベルセルク』だった。なかなかにいいセレクトだ。先が気になって眠れなくなること請け合いだが。
 漫画を選び終えた朋子は、その漫画を脇に抱えたままぼけっと立ちすくんでいた。
「なんだよ」
 僕が言うと、
「え、うん、いや……」となにやら不明瞭に口を濁す。
「まだなんか用か」
 僕がもう一度促すと、
「うん、あのさ……」
 朋子はなおもためらいを見せながら、きょろきょろと視線をさまよわせた。
「なに、なんか相談したいことでもあるのか?」
「……いい、やっぱなんでもない」
 朋子は部屋を出ていった。ドアを閉める間際、「おやすみ」という声がした。
「ああ、おやすみ」
 ドアが閉まる。
(しかし五冊も持っていったけど、全部読むつもりか?)
 明日の朝、朋子は確実に寝坊するに違いない。
 僕は自信を持ってそのことを断言できた。
 …………………………。
 ……………………。
 ………………。
 …………。
 ……。



 僕は目を覚ました。
 上半身を起こしてあたりを見回す。自分の部屋だ。天井の電気がつけっぱなしになっている。どうやらベッドに横になってそのまま眠り込んでしまったらしい。
 僕は書棚を眺めた。そこには『ベルセルク』が全巻そろって並べられていた。
「夢……」
 僕は寝ぼけた頭で呟いた。そして電気を消すと、布団に潜り込んだ。
 静寂があたりを包んだ。



《何もかも忘れられたなら》
《ここにいる理由さえも》
《考えるべき問題さえも》



三 理由



 ――ガシャン。

 突然屋上に鈍い金属音が響いた。その音で僕は思考の海から現実の世界へと引き戻された。

 ――カッ、カッ、カッ。

 甲高い足音が近づいてくる。そして、すぐ後ろまで来るとぴたりと止まった。
「やっぱりいた」
 振り向くと高倉が立っていた。その顔は夕焼けをバックに赫く染まっていた。
「また来たのかよ」
「まあね」
 高倉は僕の横で手すりに肘をついた。
 沈黙がつづいた。黙ったまま二人で夕焼けを眺める。
「ねえ、相葉くん」
 しばらくして高倉が口を開いた。
「君、どうして屋上に来るの?」
「どうしてって?」
「だってさ」高倉がちらりとこちらを見た。「妹が自殺した場所だよ。まだ一ヶ月も経っていないんだよ。お兄さんとしては、あまり近寄りたくない場所なんじゃないの?」
「…………」
「どうしたって思い出しちゃうでしょ? 普通は来ないんじゃない?」
「朋子が自殺した時点で」僕は言った。「僕はもう普通じゃなくなったんだろ」
「……そう」
「おまえこそ」僕は反撃した。「思い出したくないだろ、朋子と仲が良かったんだから。もう来るなよ」
 高倉は僕を見るとぽつりと言った。
「良かった、なんて言葉で片付けないで」
 それは淡々とした言い方にもかかわらず、僕を圧倒する力を持っていた。僕は口をつぐんだ。
「あたしと朋子は、そんな単純な仲じゃなかった」
「……おまえら、どこで知り合ったんだよ」
「……病院、かな」
「病院? おまえ、病気なのか?」
 高倉はふふと笑っただけで、それには答えなかった。
「まあだからこそ、ここに来て思うわけ。絶対に犯人を見つけるからね、待っててね朋子、って」
「犯人って、おまえ、朋子が殺されたみたいな言い方するなよ」
「うーん、なんていうのかな」
 高倉は困ったように髪をくしゃくしゃとかき回した。髪が照り返していた夕焼けの赫が、あたりに虚しく散った。
「定義の問題よ」
「定義?」
「そう、たとえば朋子が自殺だったとしても、朋子をそこまで追い詰める強い要因を作った誰かがいたとしたら……」
 高倉はこちらを向いてまっすぐに僕を見つめた。
「あたしはその人が朋子を殺したと考えるわ」
「…………」
 視線を夕焼けに戻し、つまりそういうことよ、と高倉は呟いた。
「それで、その誰かを突き止めるために僕から話を聴きたいと、こういうわけか」
「ま、そんなところ」
 高倉は両手で手すりをつかむと、その強度を試そうとでもいうかのように、ぐっと後ろに体重をかけた。
「でも御生憎様、僕に話を聴いたって、なにも出てこないよ。警察だってそう思ったんだから、確実だ」
「相葉くんがさ」
 高倉は今や手すりにぶら下がったような状態で腰を落としている。制服のひだスカートがくしゃりと乱れている。その乱れたすき間から、高倉の脚がのぞく。夕日に照らされた、赤い脚。
「この屋上に来る理由、当ててみようか」
「さっき僕が屋上に来る理由を聞いたのは誰だっけ?」
「だって相葉くん、教えてくれないから」
「……言ってみな」
「相葉くんは、朋子が自殺したという現実を受け入れられないでいるの。だから、その事実を再確認するために、あえてこの屋上に来ている」
「外れ」
「じゃあ正解は?」
「さあね」
「……言えないようなことなんだ」
「あのなあ」僕はうんざりした。「おまえ、僕にいちゃもんつけるためにここに来てるのかよ」
「別にそういうわけじゃないよ」
 高倉は反動をつけて立ち上がると、制服からなにやら取り出した。ショートホープの箱とライターだった。タバコを一本口にくわえ、火をつける。薄い煙が屋上に漂い、タバコの匂いが僕の鼻腔を刺激した。
「吸う?」
 高倉が僕に向かって箱を突き出した。僕は黙って一本抜き出し、口にくわえた。ライターを貸してもらうつもりで右手を差し出すと、高倉は火のついたタバコをくわえたまま僕に顔を近づけた。僕は高倉の意図を察し、やはりタバコをくわえたまま顔を近づけた。
 タバコとタバコの先が軽く触れ合った。僕が軽く息を吸うと、タバコの先に火が点った。目を上げると、すぐ前に高倉の目があった。その瞳の奥にある感情は読み取れなかった。
 僕たちは顔を離した。僕は思いきり煙を吸い込んだ。肺一杯にタバコの煙が満ちるのを感じた。うまかった。
「高倉にしては気が利いてるな」
「でしょ?」
 高倉はにこりと笑うと、空に向かって煙を吐き出した。
「しかし、これは結構スリリングだな。グラウンドに先生がいたら、一発でばれる」
「そのスリルがまたいいんじゃない」
「おーこえー。ふっふっふ、越後屋、おまえもワルよのう」
「いえいえ、お代官様にはかないません」
「ところで越後屋、上総屋の一件はどうなっておる?」
「はは、それはもう、天網恢恢疎にして漏らさず、結果は仕上げをごろうじろ、といった具合でございます」
「ふっふっふ、やはりおぬしはワルよのう」
「いやいや、お代官様にはかないません」
 僕と高倉はしばらく通り一遍のノリ突っ込みを繰り返した。
 なんだ、高倉もなんだかんだいって、結構面白い奴じゃないか。これで変な質問をしなければいいのに。そんなことを考えた。
 『問題』のことは、すっかり忘れていた。



《困惑と熱望》
《表と裏》
《知っているよ――》



四 困惑



 ……。
 …………。
 ………………。
 ……………………。
 …………………………。
 なにか声が聞こえたような気がした。僕はつけていたヘッドホンを外すと、耳を澄ました。しばらくして、
「ねえ、お兄ちゃん、寝ちゃったの?」
 ドアの向こうから小さな声がした。朋子だ。
「起きてる」
 僕は小さな声で答え、机の上のパソコンのモニターを見た。右下に表示されている現在の時間。そこには「00:02」という数字が並んでいた。
「ドア開けていい?」
 再び朋子の声。
 僕は素早くパソコンの画面をチェックした。右下にはMP3プレイヤーが描くカラフルな曲線。左上には「マイ ドキュメント」というウインドウ。右上にはネットからダウンロードしたアイドル写真。朋子に見られたらなにを言われるかわかったものではない。僕は慌ててウインドウの右上の「×」をクリックした。よし、これで大丈夫。
「ああ」
 僕は答えた。
 かちゃりと静かにノブの回る音がした。ドアが開き、朋子が顔をのぞかせる。大きい瞳。今、その瞳はわずかに翳って見えた。いつも感じるあどけなさも、今日はどこかに影を潜めている。
「なんだよ」
「部屋、入っていい」
 朋子が言った。
「だめ」
 僕はそっけなく答えた。
「いじわる」
「なんの用だよ」
「うん、あのさ、なんか眠れなくってさ、面白い漫画かなんかあれば貸してもらえないかなと思って」
 僕は黙って書棚にいくと、一冊の本を抜き取ってドアのところの朋子に渡した。
「『複雑系最新研究』……ってなにこれ?」
「眠れないんだろ? それはいいぞ。読みはじめて二分で眠れること請け合いだ」
「こんなのそもそも読む気にならないよ。漫画貸してよ、漫画」
 僕は朋子の手から本を受け取ると、再び書棚から一冊の本を抜き取ってきて朋子に渡した。
「『キャプテン翼』……ってなにこれ?」
「それはいいぞ。人間の身体能力の可能性について希望を持てること請け合いだ。なんせ小学生がゴールポストより高くジャンプするからな」
 朋子はぶすっとした顔で僕に本を突っ返した。
「なんかダメそう。もういい。自分で探す」
 そう言うと勝手に部屋の中に入り、書棚の前に立つ。しばらくして朋子が選んだのは、『火の鳥』だった。なかなかにいいセレクトだ。先が気になって眠れなくなること請け合いだが。
 漫画を選び終えた朋子は、その漫画を脇に抱えたままぼけっと立ちすくんでいた。
「なんだよ」
 僕が言うと、
「え、うん、いや……」となにやら不明瞭に口を濁す。
「まだなんか用か」
 僕がもう一度促すと、
「うん、あのさ……」
 朋子はなおもためらいを見せながら、きょろきょろと視線をさまよわせた。
「なに、なんか相談したいことでもあるのか?」
「……あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「なんだよ」
 僕はなにか嫌な予感がした。
「あのさ、わたしたちの今の状況って、やっぱり変じゃないかな」
 朋子の言葉が単純な疑問などではなく、僕の気持ちを確認するためのものであることに、僕はすぐに気がついた。だからこそ僕はとぼけて言った。
「今の状況?」
 朋子はわずかに悲しそうな顔をした。
「一緒の家に暮らしてること」
「そんなことか」
 僕は平静を装って答えた。
「別に変なことないだろ。法律的にはなにも問題ない。家族が一つの家で暮らして、なんの問題があるっていうんだよ」
「うん、そうなんだけど……」
 朋子は目を伏せた。胸まである長い髪がかすかに揺れている。天井の電灯に照らされ、その髪は蒼白く光って見えた。
「でもさ、わたしとお兄ちゃんって、もうすっかり兄弟じゃない?」
「そりゃ……そうだろ」
「でもさ……でもさ……ほんとは……」
「朋子」僕は言った。「これだけうまくいってるんだ。二人で決めたことだろ。それでいーじゃん」
 朋子ははっと顔を上げたが、僕と視線が合うと、またすぐにうつむいた。
「そうだけど……そうなんだけど……」
 細く肩を震わせる。なにかを言いかけては、思い直したように口を閉じる。
 まずいな、と思った。このまま朋子をこの場所にとどめておいては、なにを言い出すか知れない。
「おやすみ」
 僕は話の流れを無視して強引に言った。
 朋子が顔を上げて僕を見た。
「おやすみ」
 僕はもう一度言った。
 朋子は呆けたようにうなずくと、部屋を出ていった。ドアを閉める間際、「おやすみ」という声がした。その声はかすかに震えていた。
「…………」
 僕は黙っていた。
 ドアが閉まる。
 僕はパソコンの電源を切ると、ベッドに潜り込んだ。
 なんともいえない疲労感が身体中に広がっていた。
 これからこんな生活がずっと続くのだろうか。
 僕は憂鬱になるのを感じながら、ゆっくりと目を閉じた。
 …………………………。
 ……………………。
 ………………。
 …………。
 ……。



 僕は目を覚ました。
 上半身を起こしてあたりを見回す。自分の部屋だ。天井の電気がつけっぱなしになっている。どうやらベッドに横になってそのまま眠り込んでしまったらしい。
 僕は書棚を眺めた。そこには『火の鳥』が全巻そろって並べられていた。
「夢、か……」
 僕は寝ぼけた頭で呟いた。そして電気を消すと、布団に潜り込んだ。
 静寂があたりを包んだ。



《問題は一つ》
《解答も一つ》
《本当にそうなのだろうか――》



五 問題



 ――ガシャン。

 屋上に鈍い金属音が響いた。僕は開いたドアの間からそっと屋上の様子をうかがった。誰もいない。
 僕はほっと息をつくと、端に行って手すりに肘をついた。
「遅かったね」
 突然の声に、僕は思わず飛び上がった。
 振り向くと、ドアの陰に高倉が立っていた。

 ――カッ、カッ、カッ。

 甲高い足音を響かせながら近づいてくる。
「な、なんでそんなところにいるんだよ」
「君を驚かせようと思ってね」
 高倉はにやりと笑った。
 僕はため息をついた。
「おまえって暇な奴な」
「実際そうだから否定はしません」
「で、今日はなにを聞きたいんだ?」
「そうだねえ……相葉くん、朋子とはうまくいってたの? 義理の兄妹って、難しそうじゃない。ましてあれだけ歳が近かったら」
「仲が悪そうに見えたか?」
 僕は逆に聞き返した。
「ううん、めちゃめちゃ良さそうに見えた」
「そういうこと」
 僕は期待を込めた視線を高倉に送った。高倉が僕の視線に気づいた。
「吸う?」
 ショートホープとライターを取り出す。
「いいね」と僕は言った。
 数十秒後、僕と高倉は並んで煙をくゆらせていた。
「しっかしさあ、そんなに吸いたいんだったら、自分で買えばいいのに」
「ばーか、所持品検査なんてやられた日には、目もあてられないだろが。そーゆう無駄なリスクは負わない主義なの、僕は」
「それにしては、これはかなりリスキーじゃない?」
「まったく。なんでこんな無謀なことしてるかな。我ながら不思議だね」
 高倉は一瞬黙ったあと、ぽつりと言った。
「屋上、だからじゃない」
 どきりとした。
「こうやって屋上から夕焼けなんか眺めてるとさ、なんか現実感が希薄になってくるよね」
「あ、ああ、そうだな」
 高倉は訝しげに僕を見た。
「どうしたの?」
「いや、別に。なんとなくわかるなって思って」
「でしょ?」
「うん」
 しばらく黙ったまま僕たちはタバコを吸いつづけた。
「今日も挑戦してみようかな」
 高倉が言った。
「挑戦?」
「何故相葉くんは屋上に来るのでしょうか」
「…………」
「そうだな、今日はね……相葉くんはずっと考えている、一つの問題を」
「『問題』?」
 僕の心臓が跳ねる。
「そう。どうして朋子は十六歳の若さで自殺したのでしょうか、っていう問題」
「…………」
「だって、朋子が自殺した理由にさっぱり心当たりがないんだもんね。気になってしょうがないよね」
 高倉は探るように僕を見た。
「…………」
 僕は黙っていた。ただ、僕の中に迷いが生まれたのは確かだった。どうしよう、言ってしまおうか。ある、と。心当たりはある、と。警察と親には話した事柄。それを高倉に言ってしまおうか。そうすれば、少しは心が楽になるかもしれない。そんな気がする。でも一方で、そんなことはない、という声が心に響く。心の奥の奥、底の見えない谷間から。
 高倉が僕を見ている。なにか言わなければ。なにか、なにか。
 だがそう思えば思うほど、なんの言葉も浮かばなかった。
「相葉くん」
 高倉が声をかけてくる。
「どうしたの?」
「……なんでもない。ああ、そうだな、正解だよ。そんなところだ」
 高倉はふいを突かれたように二、三度瞬きした。
「そう……なんだ。言ってみるものだね」
 高倉は言った。その口調から、僕の言葉を信じていないことは明らかだった。



《はじまりのおわり?》
《おわりのはじまり?》
《いいえ》
《これはあくまでもゲームのつづき》



六 混迷



 ……。
 …………。
 ………………。
 ……………………。
 …………………………。
 なにか声が聞こえたような気がした。僕はつけていたヘッドホンを外すと、耳を澄ました。しばらくして、
「ねえ、お兄ちゃん、寝ちゃったの?」
 ドアの向こうから小さな声がした。朋子だ。
「起きてる」
 僕は小さな声で答え、机の上のパソコンのモニターを見た。右下に表示されている現在の時間。そこには「00:01」という数字が並んでいた。
「ドア開けていい?」
 再び朋子の声。
 僕は素早くパソコンの画面をチェックした。右下にはMP3プレイヤーが描くカラフルな曲線。左上には「マイ ドキュメント」というウインドウ。右上にはネットからダウンロードした卑猥な画像。朋子に見られたらなにを言われるかわかったものではない。僕は慌ててウインドウの右上の「×」をクリックした。よし、これで大丈夫。
「ああ」
 僕は答えた。
 かちゃりと静かにノブの回る音がした。ドアが開き、朋子が顔をのぞかせる。大きい瞳。今、その瞳の奥に暗い光が瞬いたような気がした。いつも感じるあどけなさも、今日はどこかに影を潜めている。
「なんだよ」
「部屋、入っていい」
 朋子が言った。
「だめ」
 僕はそっけなく答えた。
「いじわる」
「なんの用だよ」
「うん、あのさ、なんか眠れなくってさ、面白い漫画かなんかあれば貸してもらえないかなと思って」
 僕は黙って書棚にいくと、一冊の本を抜き取ってドアのところの朋子に渡した。
「『それはシュレディンガーの猫からはじまった 〜クォーク論争〜』……ってなにこれ?」
「眠れないんだろ? それはいいぞ。読みはじめて一分で眠れること請け合いだ」
「こんなのそもそも読む気にならないよ。漫画貸してよ、漫画」
 僕は朋子の手から本を受け取ると、再び書棚から一冊の本を抜き取ってきて朋子に渡した。
「『銃夢』……ってなにこれ?」
「それはいいぞ。人の業について考えられること請け合いだ。勉強になるぞ」
 朋子はぶすっとした顔で僕に本を突っ返した。
「なんかダメそう。もういい。自分で探す」
 そう言うと勝手に部屋の中に入り、書棚の前に立つ。しばらくして朋子が選んだのは、『トライガン』だった。なかなかにいいセレクトだ。先が気になって眠れなくなること請け合いだが。
 漫画を選び終えた朋子は、その漫画を脇に抱えたままじっと僕を見つめた。
「なんだよ」
 僕は言った。
「…………」
 朋子はただ黙っていた。
「まだなんか用か」
 僕がもう一度促すと、
「……あのさ、ちょっと聞きたいことがあるんだけど……」
「なんだよ」
 僕はなにか嫌な予感がした。
「あのさ、わたしたちの今の状況って、やっぱり変じゃないかな」
 朋子の言葉が単純な疑問などではなく、僕の気持ちを確認するためのものであることに、僕はすぐに気がついた。だからこそ僕はとぼけて言った。
「今の状況?」
 朋子はわずかに悲しそうな顔をした。
「一緒の家に暮らしてること」
「そんなことか」
 僕は平静を装って答えた。
「別に変なことないだろ。法律的にはなにも問題ない。家族が一つの家で暮らして、なんの問題があるっていうんだよ」
「それは法律の話でしょ。わたしが言ってるのは感情的な面だよ」
 朋子はじっと僕を見つめた。胸まである長い髪がかすかに揺れている。天井の電灯に照らされ、その髪は蒼白く光って見えた。その光はどこか誘蛾灯を思わせる怪しい雰囲気を発していた。
「感情……?」
 僕の口から掠れたような声が出た。
 なんだこれは? なんでもっとしっかりとした声を出さない?
「だって、わたしとお兄ちゃんは血が繋がっていないんだよ。不自然じゃない?」
「そんなこと言ったって……」僕は言った。「しょうがないだろ。おまえは父さんの連れ子で、僕は母さんの連れ子なんだから。別にいいじゃないか。血が繋がってなくたって兄妹であることには違いない。二人でそうしてこうって決めたんじゃないか。だいたいなんで今になってそんなことを言うんだ。もう一緒に暮らしはじめてから何年経つと思ってるんだ」
「五年」朋子はあっさりと言った。「その間、ずっとお兄ちゃんと一緒に暮らしてた」
「そうだよ。今さらなにが問題なんだ」
 言いながら、僕は自分の言葉にこれ以上はない空虚さを感じていた。僕だって朋子と一緒なのだ。ただ、僕は朋子よりわずかに多く耐久力があった。ただそれだけのことだ。
「今更じゃない。今更じゃないんだよ……」
 朋子は熱にうなされたような上気した顔で言った。
 黙らせろ。今すぐこの女を黙らせるんだ。
 女? 違う、妹だ。
「わたし、お兄ちゃんのこと……」
「やめろ」僕は言った。声が震えた。「おまえは妹だ。それ以上でも以下でもない」
「ほんとにそれだけ? それだけなの?」
 朋子の瞳の中に光が揺らめいていた。炎の揺らぎにも似た光。夕焼けの赫。
「わたし、ずっとお兄ちゃんの視線を感じてたよ。そして、それが嫌じゃなかった。本当に、妹だって割り切ってた? 割り切れた? わたしはだめ。ずっと同じところで生活して、毎日顔を合わせて……嫌いになってれば、まだよかった。でももう無理。そんなの、無理。わたし、ずっとお兄ちゃんのこと……」
 僕は朋子の言葉を制止しようとした。だが口が強張って、言葉が出なかった。
「お兄ちゃんのこと、好きだったよ」
 ああ、と僕は思った。とうとう聞いてしまった。きっと朋子のほうは、とうとう言ってしまった、と思っているに違いない。
 僕たちにとってその感情は自明のものだった。ただ言葉に出していないだけ、それだけのことだった。だがその「それだけ」こそが、最後の砦だった。防波堤だった。聞かなければ、言わなければ、単なる自分の妄想として片付けられる。それで自分を納得させられる。年々女らしい曲線を見せるようになった朋子の身体に対する欲望も、朋子が向ける視線になにか特別な意味づけをしようとしてしまうどうしようもない度し難さも、ぜんぶ自分の馬鹿さ加減ゆえと決め付けることができた。できたのだ。
 だが、それももう不可能になってしまった。
 朋子は言ってしまった。
 僕は聞いてしまった。
 どうしてなにもなかったことにできる?
「お兄ちゃん……」
 朋子が僕に近づいてくる。抱えていた漫画を床に落とし、ゆっくりと僕に近づいてくる。離れているのに、朋子からはっきりとした熱を感じる。僕はその熱に抗しきれず、腕を開く。
 その腕の中に、朋子がすっぽりと収まる。まるで計ったかのように、朋子の身体が、僕の腕の中に。柔らかく、熱く、夢の中で、妄想の中で、何度となく抱き、奉仕を強制した、その肢体。むせ返るほどの強烈な香り。眩暈を覚えるような触感。
 僕は朋子の唇に自分の唇を重ねる。朋子は抵抗しない。朋子の唇は甘く、柔らかい。歯と歯が軽く当たり、僕はそれに導かれるように舌を差し入れる。やはり朋子は拒まず、それどころかおずおずと舌を絡めてくる。僕たちは争うようにお互いの舌を求める。
 僕は朋子をベッドの上に押し倒す。一階にいる両親に聞こえてしまうだろうか、と一瞬考える。だが次の瞬間には頭の奥深く沈む。
 邪魔をする者はいない。
 僕は乱暴に朋子の寝巻きの前を開く。朋子は下着を着けていない。透き通るような白い胸が視界を渦巻く。仰向けになっているため多少つぶれているが、それでもなお十分な豊かさを備えている。
 だがそのとき、僕の頭に衝撃が走る。その怪しいまでの白さが、僕を強烈に誘惑し、同時に拒絶する。
 なにをやっている? おまえはなにをやっている?
 目の前にいるのは妹だ!
 僕はゆっくりと立ち上がる。背中をじっとりとした汗が流れていく。熱さと冷たさの両方を感じさせる不思議な汗。
「お兄ちゃん?」
 朋子が仰向けのまま目を開ける。そして部屋の中央で呆然と立ち尽くしている僕を見る。
「どうしたの、お兄ちゃん?」
 ぼんやりとした表情で僕を見つめる。その胸はいまだ露なままで、怪しいまでの白さが、僕を引き込むように、視界を覆い尽くそうとする。
 僕は目を閉じる。
「だめだ」
「なにが?」
「こんなのは、だめだ」
「…………」
「僕たちは兄妹だ。その事実はこれからも変わらないし、変えようとも思わない」
「お兄ちゃん……」
「部屋に戻るんだ。今あったことは忘れろ。なしだ」
「お兄ちゃん……」
「戻れ」
「…………」
 沈黙。息苦しい沈黙。あたりは静かなのに、頭の中ではガンガンとなにか鳴り物のような音が鳴り響いている。それが自分のこめかみの血管が脈動する音だと気づくまで、しばらくかかった。
「そうだよね……」
 やがて朋子が言った。
 朋子はゆっくりと寝巻きの前を合わせていった。
「こんなの変だもんね」
 立ちあがる。
「ごめん……」
「別におまえが謝ることじゃない」
「うん。でも、ごめん……」
 朋子はよろめくような足取りで部屋を出ていった。
 僕は大きく息をつくと、開けっぱなしのドアを閉め、ベッドの中に潜り込んだ。
 布団には朋子の熱がまだ残っていて、どうしようもなく熱かった。それはまるで僕の身体の奥深くに未だ残っている、欲望のあらわれのような気がした。
 …………………………。
 ……………………。
 ………………。
 …………。
 ……。



 僕は目を覚ました。
 身体中びっしょりと汗をかいている。気持ち悪い。
 ふと下半身に違和感を覚える。勃起していた。
 上半身を起こしてあたりを見回す。自分の部屋だ。天井の電気がつけっぱなしになっている。どうやらベッドに横になってそのまま眠り込んでしまったらしい。
 僕は書棚を眺めた。そこには『トライガン』が全巻そろって並べられていた。
「夢……なのか……」
 僕は電気を点けたままベッドに横になった。
 だが心臓の鼓動が頭に響き、うるさくてとても眠れそうになかった。
 あたりを包む静寂が、耳に痛かった。



《チャンスは一度だけ》
《望むものは一つだけ》
《失敗は許されない――許さない》



七 事実



 ――ガシャン。

 屋上に鈍い金属音が響いた。僕は開いたドアの間からそっと屋上に滑り出た。
 正面の手すりのそばに、高倉がいた。待ち構えるように、僕を見つめていた。
 僕は一瞬躊躇した後、大きく息をついた。高倉のほうに歩いていき、その脇の手すりに肘をつく。目の前にはあいかわらず見事なまでの夕焼けが広がっている。
「吸う?」
 高倉が僕にショートホープの箱を突き出した。
 数十秒後、僕と高倉は並んで煙をくゆらせていた。
「今日はなにが聞きたいんだ?」
 僕は高倉に向かって言った。
「そうだね」高倉は煙を吐いた。「そろそろ教えてくれないかなと思ってるんだけど」
「なにを?」
「君が警察になにを話したのか」
「…………」
 高倉に話せば、もしかしたら、今日はあの夢を見ないでぐっすりと眠ることができるだろうか。そんな考えが頭をよぎる。あの日以来延々とつづく、朋子の夢。じわじわと僕の精神の城壁を崩す、朋子の夢。僕に自分のことを忘れさせまいとするかのような、朋子の夢。
 僕は気がつくと口を開いていた。高倉に話せば、少しは心が軽くなるかもしれない。そんな馬鹿みたいな薄っぺらい理屈を心の中で唱えて。
「……僕が警察に話したのは、朋子が自殺した数日前に僕の部屋で起こったことだ」
「なにが起こったの?」
「……僕が」声が掠れる。「朋子を拒絶した」
「拒絶?」
 僕はうなずいた。
「僕と朋子の親同士が再婚したのは五年前だった。僕が中学二年で、朋子が中学一年だった。親は知らないけど、僕と朋子は子供なりに考えて、二人で決めたんだ。親に迷惑をかけないよう、心配をかけないよう、仲良くやっていこうと。変なことでいがみあうのだけは避けようと。だから僕たちは必要以上に一緒にいるようにした。親たちに見せつけるように。安心させるために。親が再婚のとき一番心配するのは、子供が新しい家族になじんでくれるかどうかっていうことらしい。そんな風に本に書いてあったから」
「…………」
「それだけ一緒にいるようにしていると、多分最終的に行きつくところは二つなんだと思う。とことん嫌い合うか……」
「とことん好き合うか」
 高倉が先を予測して言った。僕はうなずいた。
「僕と朋子がそうだった。僕と朋子は馬が合った。合いすぎた。そしてそのことがまずいということにも気がついていた。だけど、それを避けるために突然二人が距離をおけば、親が不審に思う。僕たちはジレンマに陥った。結局そのまま抜き差しならないところまで来てしまった。あの頃は、二人ともいつ爆発するかわからない状態だったんだ。そして朋子が先に爆発した」
「自殺する数日前に?」
「……朋子は、夜寝る前に、よく僕の部屋に漫画を借りに来ていた。多分口実だったんだと思うけど。そのとき、僕に言ったんだ。僕のことを好きだ、って」
「それで」高倉の声が緊張する。「それでどうしたの?」
「僕はなにがなんだかわからなくなって、朋子を抱こうとした。朋子もそれを拒絶しなかった。だけど、ぎりぎりのところで、僕は正気を取り戻した。そして、朋子に言ったんだ。これからもおまえは妹だし、それを変える気はないって……」
「…………」
「つまり」僕は喉から言葉を押し出した。「僕は朋子を拒絶したんだ」
 そこまで言ったところで、僕は身体を回して手すりにもたれかかった。そうしながら、ずるずると床に座り込んだ。
「…………」
「これがおまえが知りたかったことだよ、高倉」
「…………」
 返事がなかった。
「高倉?」
 僕は高倉を見上げた。高倉はあいかわらず煙をくゆらせながら、夕焼けを眺めていた。
「……タバコ、吸う?」
 唐突に高倉がショートホープを突き出した。
「……もらうよ」
 僕は座ったまま箱から一本抜き出し、口にくわえた。高倉が突き出したライターで火を点す。
「……言って、すっきりしたよ」
 僕は言った。
「そう?」
 高倉の声はどこか冷たかった。
「高倉?」
 見上げると、高倉が僕を見つめていた。
「相葉くん、そろそろ本当のことを言ってくれないかな」
 僕は戸惑った。
「本当のこと?」
「君は」高倉は夕焼けに視線を戻して言った。「嘘をついている」
「嘘? 僕が?」
「そう」
「嘘なんて……嘘なんてついてない」
「じゃあ、こう言えばいいのかな」
 高倉はあいかわらず夕焼けを眺めながら言った。
「それは嘘ではない。だけど、事実のすべてでもない」
「…………」
「君が今言ったことは、あくまで事実の一部。事実の全体を話してはいない」
「……なんでそんな断定ができる?」
「知っているから」高倉は言った。「朋子がそんなことで自殺するわけはないと知っているから」
 僕は高倉の頭の固さにかっとなった。勢いよく立ち上がり、怒鳴りつける。
「なんで、なんでさ! 朋子は僕に拒絶されて、それで絶望して、これからずっと僕と顔を合わせながら生活していくことに耐えられなくなったんだ! 警察だってそう判断した! その上で僕たち家族への配慮から事実をマスコミに公表しなかったんだ!」
「ほかの人はそれでごまかせるかもしれない。でもあたしだけは」高倉は固い声で言った。「あたしだけはごまかされない。知っているから」
「知ってる? なにを知ってるっていうんだ!?」
 僕はわめきちらした。このわからず屋にこれ以上なにを言えばいいというのだ。みんなこれで納得した。おまえもそれで納得すればいいんだ。納得しろ、高倉! この、いまいましい、生意気な女が!
「あたしは知ってるのよ」高倉は言った。「朋子が相葉くんに拒絶されたことを自分なりに解決しようとしていたこと」
「……なに? なんだって?」
「朋子が立ち直ろうとしていたことを知ってるのよ、あたしは」
 高倉は淡々と言った。
「そして、朋子が自殺する前日に相葉くんをここに呼び出したこともね」
 高倉の言葉を聞いた瞬間、目の奥で閃光が瞬き、僕は目を閉じた。



 目を開くと、空一面に広がる赫い夕焼けをバックに、高倉が立っていた。いや、違う。一瞬勘違いしてしまったが、こいつは――
「……朋子……」
 僕は掠れた声を出した。
 僕の目の前に立つ女――朋子は弱々しく微笑んだ。
「ごめんね、お兄ちゃん。こんなところに呼び出して」
「い、いや、いいけど……」
 僕は目を逸らした。そうしながら、心の奥では必死に叫んでいた。
 ――やめろ、やめろ。
 ――今すぐやめるんだ。
 ――ぶちこわせ、あのときとは違うことを言うんだ。
「その……この前はごめんね……あんな変なこと……」
 朋子の全身は夕焼けに包まれて赫く染まっていた。
 ――やめろ、やめろ。
 ――今すぐこの場所を去るんだ。
 ――せめて、せめて、違うことを、違うことを言うんだ。
 だが僕の口は僕の意志に反し、あのときとまったく同じことを口にした。
「いや……ああいうときがくるかなって思ってた……でも……なにもなくてよかった……」
 朋子は再び弱々しく微笑んだ。
「そうだね……」
 朋子はくるりと僕に背を向けた。背中まである長い髪が揺れた。今はその髪すらも赫かった。
「わたしね……同じクラスの人と付き合うことにしたよ……」
 突然の言葉だった。すぐには受け入れられず、僕はしばらくしてからようやく口を開いた。
「……なんだって……?」
「考えたんだ……考えて、そう決めたんだ……」
「……それは……自分一人で決めたのか……?」
 僕の問いに朋子は答えなかった。
「……とにかく……そういうことだから……もう迷惑はかけないから……」
 朋子の言葉を聞いて、僕は心からほっとした――そのはずだった――そうでなければいけないはずだった。
 だが実際は。
 だが実際は、そのときの僕の心の中には、自分でも理解不可能な感情がうねっていた。



 後悔。



 これは後悔なのか?
 そうだ、これは後悔だ。
 僕は後悔しているのだ。



 ――どうして――



 ――僕はあのとき――



 ――朋子を――



 違う、違う。



 ――あのとき――



 ――朋子にのしかかり――



 ――その足を開き――



 ――思うがままに蹂躙し――



 違うんだ、違うんだったら。



 ――そうしておけば――



 ――こんな思いは抱かずにいられた――



 ――まだ見ぬ男への――



 ――嫉妬に囚われることもなかった――



 ――あのときあの透き通らんばかりの白に怯えることがなければ――



 やめろ、違うんだ、それは違うんだ。



 ――白?――



 ――ならば今ならば?――



 やめろ、やめろ、違うんだ、違うんだ、そんなこと考えるわけない。



 ――なにもかもを赫く染めるこの場所ならば?――



 ――なにもかもを爛れた赫に染め上げる――



 ――この夕焼けの前ならば?――



 僕の前に立つ朋子の背中は、夕焼けに包まれて赫く染まっていた。
 なにもかもがすべて。
 僕は――


(………ん)
(……くん)
(…葉くん)
(相葉くん)
「相葉くん?」
 耳を打つ大きな声に、僕ははっとして顔を上げた。
 目の前には高倉が立っていた。
「相葉くん、どうしたの?」
 高倉は怖い顔をして僕を見つめていた。
 僕は頭を一振りして言った。
「いや、なんでもない」
「なんでもないってことないでしょ」
「いや、なんでもないんだ」
 僕は強く言った。
「なにかを思い出していたの?」
 高倉が僕の目を探るようにのぞき込む。
「だから、なんでもないって」
 僕は目を伏せた。
「……そう。まあいいわ、それより、朋子が自殺する前日、ここに呼び出されたでしょ? そのときいったいなにを話したのか教えて」
 僕は首を振って言った。
「いや、僕は呼び出されてなんかいない」
「嘘」
 高倉が僕を睨んだ。
「嘘じゃない。それよりなんでそんなことを考えたりしたんだ? 朋子が高倉にそうするとでも言ったのか?」
 僕は慎重に言葉を選んで言った。
 高倉はしばらく僕を睨んでいたが、やがてゆっくりと息を吐いた。
「そうよ」
「ほかには?」
 僕はさらに尋ねた。
「ほかにはなにか聞かなかったのか? 朋子はなにか言ってなかったのか?」
 高倉は、そのときのことを思い出すように、ゆっくりとした口調で僕の質問に答えた。
「朋子があたしのところに相談に来たの。相葉くんとのことで。それであたしが、いくら義理の兄妹でもやっぱりまずいんじゃないか、相葉くんのことを忘れるために、試しに別な男の子と付き合ってみればどうか、って言ったら、朋子は泣きながら、そうするってうなずいてたわ。相葉くんのこと、早く忘れるようにするって言ってた。そしてそのことを明日――自殺する前日に屋上で相葉くんに話すって……」
「なんで屋上なんかで」
 僕はうめくように言った。屋上でなければ――そんな思いが頭をかすめる。
「朋子があたしに聞いたの。学校で相葉くんと二人きりになれるところはないかって。ほかの人に話を聞かれないところはないかって」
「それで屋上と?」
「ええ。夕方の屋上にいく人なんてめったにいないし」
 僕は大きく息をついた。精神がとても疲れていた。高倉の顔にも、濃い疲れの色が見て取れた。
「高倉はつまり、こう思ってたのか? 僕がそのとき、朋子を自殺に追いやるようななにかをしたと。だから、このところ僕に付きまとっていたのか? なんにも知らないふりをして、僕の反応を試していたのか?」
「ええ」高倉は無表情にうなずいた。「そうよ」
「ならどうして、警察にそのことを言わなかった。言っていれば、僕は警察にもっと厳しい取り調べを受けていただろう。それこそが高倉の望むことじゃないか。僕が朋子を自殺に追いやったと思っていたんだったら、何故そうしなかった? 高倉のところにも警察が事情聴取に来ただろ?」
「ええ、きたわ」
「なんでそのとき、そのことを言わなかった。言わなかったんだろ? 僕は警察からそんなことは一言も聞かれてないからな」
「…………」
「どうしてだ?」
「言ったら」高倉は僕から目を逸らした。「相葉くんが逮捕されちゃうんじゃないかと思ったから」
「なんで、いいじゃないか」
 僕はおどけるように肩をすくめて見せた。
「朋子を死に追いやった奴を突きとめたかったんだろ? それこそ高倉が望むことじゃないか」
「…………仮にもクラスメイトを売るような真似はしたくなかったのよ」
「へえ、律儀なことだね」
「それよりも」高倉は僕の言葉を遮った。「屋上に呼び出されていないというのはほんとなの?」
「ああ」
 僕は力強くうなずいて見せた。
「そう……変ね」
「変? なにが」
「それじゃあ、どうして相葉くんはこの一ヶ月屋上に来ていたの? だって、朋子の自殺の原因は、相葉くんが朋子を拒絶したからなんでしょ? そう信じているんでしょ? だったら、なんで屋上に来る必要があるの? なにも理由がないのに、こんなところに来ているの?」
 うるさい女だ。
「追悼だよ」僕は静かに答えた。「朋子の」
「追悼? ほんとかな」
 高倉の言い方に、僕はかっとなった。
「高倉、おまえこそ、どうしてそこまでこだわるんだ」
「あたし?」
「そうだ。どうしておまえがそこまで首を突っ込むんだ? わざわざ関わりたがるんだ?」
「…………」
「おまえは、どうしてそこまでこだわるんだ、高倉。朋子と仲が良かったからって、そこまでするのは絶対に変だ。どんな理由があるっていうんだ」
 僕は一気に吐き出すと、気持ちを静めようと、大きく肩で息をした。いけない、いけない。冷静でいなければ。
「……吸う?」
 高倉が僕にショートホープを突き出した。僕はその手を思いきりはたいてやろうかと手を振り上げたが、途中で下ろした。
「……もらうよ」
 今日何本目のタバコだったろうか。もうなにがどうなろうとどうでもいいが。
 僕は乱暴にタバコを吸った。高倉はそんな僕を眺めながら、ぽつりと言った。
「あたしね、五年前までは違う名前だったの」
「違う?」
「うん。五年前までは、相葉美郷っていう名前だった」
「相葉……?」
 なんだ。なにがどうなっているんだ。僕は考えることを放棄しそうになる頭を叱咤するため、強くこめかみを押した。
「簡単なことよ。君も五年前までは、名前が違ったでしょ? 親が再婚して、父方のほうに姓を変えたんでしょ? あたしはその逆。親が離婚して、母方の姓に戻ったのよ。高倉の姓にね」
 ――おまえは父さんの連れ子。僕は――
 唐突に頭の中に光が差した。僕の瞳に浮かんだ理解の光に気がついたのだろう。高倉は大きくうなずいた。
「そういうこと。あたしは――」
 ――母さんの連れ子――
「朋子の実の姉なの」
 ふと、二日前の高倉の言葉を思い出した。
 朋子とどこで知り合ったのか、ということを聞いたとき、高倉は「病院」と答えた。朋子が生まれたとき、まだ一歳の高倉は、本人たちが覚えていなくとも、確かに病院で顔を合わせたに違いないのだ。
 二人は血の繋がった姉妹なのだから。
「そんなこと、ぜんぜん聞いたことなかった……父さんからも……朋子からも……」
「そりゃ言わないわよ」
 高倉は笑った。どこか捨て鉢な笑みだった。
「相葉くんと相葉くんのお母さんが気にするに決まってるんだから。でもね、あたしと朋子は、親が離婚して離れ離れになっても、連絡を取り合ってたわ。そして、二人で話して、同じ高校に通うことにしたの。疑問が解けた? 納得した?」
 僕はうなずいた。そう言われて見てみれば、高倉の顔はどこか朋子に似通っていた。いや、朋子が高倉に似た、というべきか。
「それでだったのか……」
「そうよ」高倉は言った。「あたしは朋子が死んだ理由を突き止めなければならない。それは朋子のためでもあるし、あたし自身の心の霧を晴らすためでもあるわ」
「…………」
「確かに度を過ぎてるかもしれない。でも、自分が大事に思う人のためなら、なんだってしてしまう。たとえそれが度を越えたものだったとしても。そういうものでしょ?」
 高倉の言葉に、僕はもう一度うなずいた。
 と、高倉が笑った。僕は戸惑った。何故ここで笑顔が出てくるのか理解できなかったから。
「よかった」
 高倉は言った。
「よかった? なにが?」
「納得してくれたんだったら、今からわたしがすることも理解してくれると思って」
 高倉はにこりと笑う。
「今からすること?」
「うん、確信が持てたから、いろいろと」
 なんのさ、と聞こうとしたが、聞けなかった。突然強い疲労感が僕を襲ったのだ。僕は屋上の床に座り込んだ。なんというか、とにかく疲れた。眠くてしょうがなかった。
「どうしたの」
 高倉の声がどこか遠くから聞こえる。
「なんだか」と僕は言った。「眠いんだ、とても」
「いいよ、眠って」
 高倉は優しく微笑んだ。その顔は朋子にそっくりだった。
「少ししたら、わたしが起こしてあげるから」
「うん、頼むよ」
 僕は目を閉じた。



《問題は一つ》
《解答は無数》
《そしてゲームのおわり》



八 解答



 ……。
 …………。
 ………………。
 ……………………。
 …………………………。
 なにか声が聞こえたような気がした。僕は机の上にうつ伏せになっていた身体を起こし、つけていたヘッドホンを外した。しばらくして、
「ねえ、お兄ちゃん、起きて」
 僕の後ろから、声がした。朋子の声だった。声の位置からして、どうやらベッドに座っているようだ。
「ああ、朋子か」
 そう言いながら、ああこれは夢だ、と僕は思った。
 何故なら朋子はもういないんだから。
 よく見る夢。あの日以来毎日つづく夢。
 朋子が生きていた頃の記憶の反芻。
 僕は振り返って朋子の顔を見ようと思ったが、何故だかできなかった。
 しょうがなく、僕は机の上のパソコンのモニターを見た。右下に表示されている現在の時間。そこには「00:00」という数字が並んでいた。
「ねえ、お兄ちゃん、聞きたいことがあるの」
「なにさ」
「どうして屋上であんなことしたの?」
 朋子の口調はひどく淡々としたものだった。
 僕は一瞬戸惑い、少し考えてから答えた。
「それが、自分でもよくわからないんだ」
「わからない?」
「うん」
 僕はうなずいた。
「どうしてあんなことをしてしまったのか、自分でもよくわからなかった。次の日、朋子が自殺したって聞いて、ますますわからなくなって、でもそれは、どうしても解かなければいけない『問題』のような気がしたんだ」
「『問題』?」
「そう、『問題』。でも、いくら考えてもやっぱりぜんぜんわからなかった。だから、ヒントが欲しかった。あのときと同じ場所にいれば――屋上から赫い夕焼けを眺めていれば、なにかヒントがつかめるかもしれないと思ったんだ。だけど、だめだった。毎日屋上に通って夕焼けを眺めたけど、さっぱりわからなかった」
「そう」
 後ろでベッドが軋む音が聞こえた。ベッドに座っていた朋子が立ち上がったようだ。僕は振り向いて朋子の顔を見ようと思ったが、何故だかできなかった。しょうがなく、僕は目の前のパソコンのモニターを眺めた。
 パソコンのモニターには、いくつかのウインドウが開いていた。右下にはMP3プレイヤーが描くカラフルな曲線。左上には「マイ ドキュメント」というウインドウ。そして右上にはなにか映像が映っていた。
「あれ?」僕は呟いた。「なんだろ、これ?」
 僕はその映像を見つめた。背後から、朋子がゆっくりと近づいてくる気配がした。
 そこには学校の屋上が映し出されていた。屋上の外側から撮られたかのような不思議な映像。
 夕焼けの下、赫く染まった屋上の床の上に、僕が倒れ込んでいた。意識がないのか、ぐったりとしている。その横には高倉が立っている。朋子の気配はあいかわらずゆっくりと近づいてきている。
「あいつ、なにやってるんだ?」
 僕は首をひねった。高倉は何故か白い薄手の手袋をしていた。そして制服のポケットから真新しいショートホープの箱を取り出すと、封を切った。
「なあ朋子、あいつ、なにやってるんだと思う?」
 僕が尋ねると、
「さあ」少し後ろから朋子の声がした。「なんだろうね」
 僕は振り向いて朋子の顔を見ようと思ったが、何故だかできなかった。
 映像の中の高倉は、封を切ったばかりのショートホープの中から五、六本のタバコを抜き出し、ポケットに収めた。そして、手に持った箱を、倒れている僕の指に押し付けた。そのまま床にそっと置く。灰は外に落としていたから、屋上の床に僕の吸殻とショートホープの箱だけが残されたことになる。
「なんだ、なんだ、なにやってるんだ、高倉の奴」
 僕は首をひねった。
「さあ」すぐ後ろで朋子の声がした。「なんだろうね」
 僕は振り向いて朋子の顔を見ようと思ったが、何故だかできなかった。
 映像の中の高倉は、苦労しながら僕の身体を手すりの上に持ち上げようとしていた。
「おいおいおい、あいつ、なにやってるんだよ。危ないじゃないか」
 そのとき、肩に朋子の手が置かれる感触がした。
「ねえ、お兄ちゃん」
 僕の頭上で朋子の声がした。振り仰いで朋子の顔を見ようと思ったが、何故だかできなかった。
「『問題』は解けなかったんだよね?」
 どうしてそんなことを聞くのかわからなかったが、僕はうなずいた。
「うん、解けなかった」
「解けなくて、それで、どうするの?」
「それで?」
「そう」と朋子は言った。「解けないまま?」
「いや、解けない限り、僕は前に進むことができないと思う」
 僕は答えた。
「そうだよねえ」と朋子は言った。「できないよねえ」
 映像の中の高倉は、僕の足を持ち上げていた。僕の身体は、布団が干されているみたいな形になった。だらりと力無く垂れ下がった腕が、なにもない空間の上を揺れた。
「ねえ、お兄ちゃん」
 耳元で朋子の声がした。横を向いて朋子の顔を見ようと思ったが、何故だかできなかった。
「わたしが『解答』を教えてあげる」
「わかるのか?」
「簡単だよ。考えるのをやめちゃえばいいの」耳に朋子の熱い吐息がかかった。「わたしみたいに」
 そのとき、映像の中の高倉が、顔を上げてはっきりと僕を見つめた。その顔にはゆったりとした微笑みが浮かんでいた。朋子そっくりのやわらかな微笑み。いや、だが、目に浮かぶものはなにか違う……瞳の奥に潜んでいるあの感情は……恐怖? 恐怖なのか? 何故?
 唐突に頭に浮かんだ。僕が屋上で眠り込む前の高倉の言葉。
 ――少ししたら、わたしが起こしてあげるから。
 わたし? 高倉が「わたし」? 「あたし」じゃなくて?
 そして僕は気づいた。高倉の視線の先。高倉が見ているのは僕じゃない。僕の横、つまり――
 僕の耳元でふふと楽しげな声がした。僕は悟った。これがあの日の後のできごとだということを。
 頬に朋子の髪があたった。べったりと濡れていた。
 悲鳴を上げようとした瞬間、首に細い指がからまるのを感じた。
「いらっしゃい、お兄ちゃん」
 映像の中の高倉が、僕の身体をなにもない空間へと押し出した。(了)

*「赫」という字には「あか」という訓読みは本来存在しません。あるのは「カク」という音読みのみです。




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