魚河岸の棒手振りだそうだよ、最初にそれを見たのは。新山河岸で仕入れた活きのいい秋刀魚が体のいい具合にさばけたってんで、降り出した雨の中鼻歌混じりに棒をかついでたらしい。そうしたら見ちまったってわけさ、黒い雨が降り注ぐ光景をな。黒い雨を知らない? そうかい、まあ、無理もねえさ、お伽噺の又従兄弟みてえなもんだからな。人を狂わせる邪気を含むってんで、瘴雨(しょうう)なんてけったいな名前で呼ぶ奴もいる。ん? ああ、いや、それは誰にもわからねえ。どこにでも降る、なんて言われてるみてえだがな。そう、決まってねえのさ。ある日突然、どこともしれぬ一つ辻に降り込めるんだと。そこだけ、闇に包まれたみてえに、真っ暗になるんだと。おっとろしい話だねえ。そうそう、瘴雨に関しちゃ、もう一つ言い伝えがあるんだ。瘴雨を浴びた奴だがな、話によるとどうも、狂うだけじゃないらしいんだ。

 時を置かずに死んじまうらしい。





雨が辻





 歌声が聞こえる。

 ――月のまあるい晩だとさ

 闇の中、囁くような歌声が。

 ――風がひゅうるり吹いたとさ

 まるで闇そのものを伝ってくるかのように、はっきりと。

 ――影が一筋差したとさ

 近づいてくる。

 ――村の童が泣いたとさ

 時は子の刻。世の多くの者が刹那の夢を貪っている、そんな時間だ。
 その静かな闇の中、囁くような歌声が響いている。歌声は女のものである。高すぎもせず、低すぎもせず、今にもかき消えてしまいそうでありながら、どこか力強い、鈴鳴るような歌声。
 声はしばらくの間つづき、やがて雲間からわずかな月光が差し込むと同時に唐突にやんだ。
 蒼銀の月光に照らされて、闇の中から二つの影が大路へと現れ出た。一人は女、一人は童女だ。
 女は髪を結っていなかった。腰まで届く長い黒髪を背中でゆるく束ね、桔梗をあしらった小袖を身につけていた。年は二十前後ほどだろうか、ゆるりと薄い笑みを浮かべたその面立ちは、はっとするような美女である。
 一方の童女は髪をおかっぱに切り揃え、いとし藤の着物に身を包んでいた。十に届くか届かないかといったところだろう。が、その瞳に湛えられた鋭い光はそんな外見の幼さをすべて打ち壊し、どこか老獪な雰囲気すら漂わせていた。常に絶やさない無邪気な笑みも、見る者が見れば、どこか造りものめいたものを感じさせることに気がつくだろう。
 二人は大路をゆっくりと歩みつづけ、ある屋敷の前まで来たところで静かに立ち止まった。幅のある二階建てのその屋敷は、周囲の建物と比べて段違いな広さを誇っていた。童女はゆっくりと屋敷を見上げた。屋敷の一階と二階の間に突き出る庇の上に、見事な紋様で縁取られた大きな看板が掛かっていた。中央には「扇屋」の二文字。
 女も童女につづいてその看板を見上げた。やがて静かに視線を戻し、屋敷の奥を透かし見しようとでもするかのように、鋭い視線を放った。
 しばらくの間、屋敷をその鋭い視線で貫きつづけたあと、女の唇がゆっくりと吊り上がった。

 ――みいつけた。

 先刻の歌声と同じ鈴鳴るような囁きが、刹那辺りの闇を揺らめかせた。

          ○

 ここから逃れられるだろうか。逃れて、逃れつづけて、新しい地に辿り着くことができるだろうか。
 できるような気がする。自分一人では無理かもしれない。でも二人ならば。

 あの子と一緒ならば。

          ○

 盛岡城下において扇屋の名を知らぬ者は、もぐりであるといってよい。でなければ、旅の者か年端もいかぬ童子といったところだろう。
 扇屋――盛岡城を挟むようにして流れる北上川と中津川の水運を利用して入荷する上質の菜種油だけを扱う上客専門の油問屋。主の籐兵衛はその面相が有名な能面を連想させるほど恐ろしげだというので、「男蛇(おとこじゃ)籐兵衛」などと呼ばれることもある。城下を歩く人々に「ご城下一の大店は?」と問えば、新穀町において「糸屋」の通称を得る呉服問屋の中村屋か、あるいは「男蛇籐兵衛」の扇屋か、ひどく迷うことだろう。それほどの評判を集めている盛岡城下屈指の大店、それが扇屋だった。



 お鈴! お鈴! お鈴はどこなの!
 その高く大きな呼び声を聞いたとき、ああまただ、とお鈴は思った。
 また、お嬢様の気まぐれがはじまった、と。
 お鈴は齢十三、扇屋の女中を務めるようになってからもうすぐ一年になろうとしている。奥向きの雑用がその主な仕事で、十人を越える奉公人たちの炊事と洗い物、屋敷内の掃除まで、みなお鈴とあと二人の女中で賄っていた。常に水に手をさらしているような状態で、お鈴の手はすっかりあかぎれに覆われ、荒れ果てていた。だがお鈴は痛みを訴える暇もなく、毎日毎日を忙しく過ごしていた。ただひたすらに、二人の女中と飯を炊き、膳を整え、井戸の水を汲み、冷水に手を浸し、洗い物を洗い、雑巾を絞り、そして夜、疲れ果てて布団の上に倒れ込むという毎日だった。
 だがお鈴には、これらのほかにもう一つの仕事があった。それは扇屋の娘であるお春の相手をすることだ。
 お春はお鈴より二つ年上の十五。一人っ子ということもあり、小さい頃から主夫婦をはじめとして、周りの人間たちにちやほやとされて育ってきたのだろうか、どうにも己のわがままさ加減に気づいていないといった具合で、些細なことですぐにお鈴を呼び寄せるという向きがあった。
 お鈴はお春のことが決して嫌いではない。いや、好きだといってもいいだろう。ほかに年の近い女中がいないこともあるだろうが、お春はなにかとお鈴に目をかけてくれた。お鈴、お鈴、と無邪気に話しかけてくる様子などはお鈴の目から見てもとても微笑ましく、年が下でありながらも、ついついからかってしまったりするのである。お鈴の言葉を受けてむきになるお春の様がまたかわいい。たまたまそんな様子を見かけた番頭の源吉などは、ああまたお嬢様とお鈴がじゃれあっているよ、などとのたまう。女中頭のお景に言わせると、お春があそこまで楽しそうな様子を見せるのはお鈴の前だけなのだそうだ。確たる理由がわからないながらも、お鈴は素直にその事実を喜んでいた。
 だが――だが、だ。ときどきお鈴の心の奥で、もぞり、と動くものがあるのだ。
 お鈴自身が決して認めたくない暗い想いが、もぞり、と。
 以前、扇屋の大黒柱、主の籐兵衛が夜半に廊下に倒れているのを発見されたことがあった。厠とも反対の方向で、籐兵衛が夜半にそこへいく理由もない。倒れた原因もまったく心当たりがない。さては気の病かと屋敷は騒然となり、いつものかかりつけの医者だけでは不安になったお内儀さんの言いつけで、奉公人たちが四方八方の医者を呼びに散った。もちろん、お鈴もそのうちの一人だった。
 お鈴は提灯の弱々しい灯りだけを頼りに、町の南東の外れ、中津川沿いにある町医者の家へと向かった。あたりは真っ暗闇で、ちょっと手を伸ばせば、伸ばした手の先が闇に飲み込まれて見えなくなってしまうのではないかと思うぐらい、それは真の暗闇だった。
 お鈴は時折後ろを振り向きつつ、なかば駆けるようにして提灯の灯りで闇をかきわけていった。そして、そのときに気づいた。本当に怖いのは真っ暗闇なんかじゃない。照らされるか、照らされないかといったぎりぎりの部分、光と闇の境界線、光に照らされてなにもいないように見えるその一方で、ゆらゆらと蠢く闇の中になにかがいるような気もする、そういう部分こそが怖いのだということを。
 お鈴が扇屋に医者を連れ帰ったとき、すでにほかの者が連れてきた医者が診察を済ませており、お鈴の医者は幾ばくかの金子をもらって空しく帰っていった。籐兵衛の病気は大したことはなく、少しの静養で直った。だがこのとき、お鈴の心には決定的な変化が生まれていた。言葉では説明できないなにかが変わった。
 お鈴の心の奥で、もぞり、と動くもの。それはまさにこのとき感じたものに似ていた。真の光の世界だったらなにもいないことがわかる。真の闇の世界だったらたとえなにかがいようともそれに気づくことはない。
 だが光と闇の狭間は違う。光に照らされて確たるものは見えない。なにもいないように思える。だがその当の光が闇を揺らめかせ、それによってなにかがいるのではないかという感覚をお鈴の中に呼び覚ます。相反する、しかし確かに存在する領域。
 お鈴の、もぞり、は、まさにこれだった。ないように思う、ないと信じたい、だがその一方で確かに、心の奥でなにかがもぞりもぞりと蠢いているようにも感じ、でもやはり、それが確たることかどうかはわからない。その曖昧さでお鈴の心を締めつける。
 この、もぞり、と動くもの、これはいったい何なのだろう、とお鈴は考える。だが答えは出ない。確かにあるかどうかもわからないのだから、あたりまえのことだ。



 そして、いつものあの呼び声がお鈴の耳に届いたのだ。
 お鈴! お鈴! お鈴はどこにいるの!
 自分の行為の正当性をまったく疑っていないような、力強い呼び声。お鈴は洗い物の腕を止めて、ちらりと女中頭のお景を見た。しょうがない、いってらっしゃい、というようにお景が軽くうなずいた。お鈴もうなずき返し、濡れた手を前掛けで拭うとすぐにそれを外し、なかば駆けるようにして屋敷の中庭に面したお春の部屋へと向かった。
 お春の部屋の障子は閉じられていた。お嬢様、と障子越しに声を掛けると、いいわよお鈴、入って、というお春の声が聞こえた。
 そっと障子を開けたお鈴の目を、無数の輝きが襲った。思わず目を閉じたお鈴をお春の笑い声が包んだ。どう、すごいでしょ、という声がそれにつづいた。
 ゆっくりと目を開いたお鈴の目を、ふたたび無数の輝きが襲う。だが今度は心と身体の準備ができていたので、お鈴は戸惑わなかった。軽く目をしばたかせつつ、輝きのもとを認めた。
 それは、無数の飾り物だった。色とりどりのかんざしや髪飾りが、畳の上に敷かれた紫紺の布の上に並べられていた。大きな玉が飾られたいかにも派手なものもあれば、簡素な、しかしどこか上品な雰囲気を漂わせるものもあった。
 どう、すごいでしょ。
 その向こうでお春が満面の笑みを浮かべていた。
 お嬢様、これは……。
 戸惑うお鈴に、お春は言った。
 今度ね、急にお出かけが決まったの。父さんとおつき合いのある商家の人たちと、八幡平に行楽にいくんですって。あたしそこで、琴を弾くように言われたの。そのときにどれをつけていったらいいかな、と思って。お鈴は、どれがいいと思う?
 これなんかどうかな、とお春は一つのかんざしを持ち上げた。先に精緻な細工が施されたそのかんざしは、日の光を受けてきらりと輝いた。お鈴の目に、それはとてもまぶしく映った。
 それに、とお鈴は思った。
 お嬢様の指先も、かんざしに負けず劣らずとても綺麗だ。透き通るみたいに白くて、すらりと細くて、すべすべと滑らかそうで、それに傷一つない。
 大違いだ。あかぎれでごわごわとした傷だらけのあたしの手とは大違いだ。いや、そもそも比べることが間違っているというものだ……。
 ねえ、お鈴、どれがいいと思う?
 焦れたようなお春の声に、お鈴ははっと我に返った。慌てて飾り物の山に目を通し、目を引いた一つのかんざしを選び出した。
 これなんかどうでしょうか。
 それは、先に大きな紅玉のあしらえられたかんざしだった。目にも艶やかなそのかんざしは、お鈴の目にとても魅力的に映った。自分には手の届かないぜいたくの象徴のように思えた。
 それ?
 お春はわずかに首を傾けた。お鈴の答えに満足のいっていない様子だった。
 ちょっと派手すぎない? 着物に合うかしら?
 お嬢様がお持ちの、あの赤い向鶴の袷なんかどうですか? 華やかな色合いがよく合うと思いますし、旦那様もきっと喜びますよ。
 …………。
 なにが気に入らなかったのだろうか。お鈴の言葉に、お春の表情がふっと翳った。
 そうね……うん、考えておく……。
 お春が気に入っていないのは明らかだった。かすかに眉が寄っている。
 だがお鈴は、不満げなその表情すらとても綺麗だ、と場違いなことを考えていた。そしてふと、かっての自分の境遇を思い出した。
 お鈴はかって、親から見放された娘だった。生活の貧窮のため、人買いに売られたのだ。いくらで売られたのかは誰も教えてくれなかった。だが、それほどいい値でなかったであろうことはわかる。
 何故なら、お鈴は「下女」だから。
 昔、人買いの男が言ったことがある。買われてきた娘は、たいがい遊女とするべく遊郭に売られる。遊女に一番必要なもの、それは器量だ。なにはともあれ、見目の良さだ。だから、買われてきた娘たちは、その見目の良さで三つの位にわけられる。
 器量の良い娘たちは「上女」とし、二両で売る。
 器量の程々な娘たちは「中女」とし、一両二分で売る。
 そして器量の悪い娘たちは「下女」とし、二朱で売るのだ。
 お鈴は「下女」だった。遊郭では受け入れられず、飯盛り女として旅籠に売られた。十のときのことだ。いずれ数年もすれば、客の男を取るようになっていたことだろう。が、ご禁制の品を扱っていたということで当の宿に突然お上の手入れが入り、そのときの与力によって扇屋の女中の職を世話された。なんとも運のいいことだった。「上女」として遊郭に売られた娘たちは、毎夜毎夜、見知らぬ男たちにその躰を開いていることだろう。羽振りのいい者もいるかもしれないが、そんな生活はまっぴらだとお鈴は思う。
 だが運が良かったと思う一方で、かって「下女」との判を押されたその記憶が、どうしようもなくお鈴を苛むことがある。お鈴、おめえは「下女」だ、いっぱしの幸せなんか望むんじゃねえ、毎日毎日ぼろきれになるみてえに働いて、そうして齢を重ねていきな、食えることだけに満足しながら死んでいきな――お鈴に「下女」と宣告したあのときの人買いの男の声で、心の奥底から囁き声が聞こえてくるときがある。
 今がまさにそれだった。
 お鈴は深く落ち込む心とは裏腹に、お春の問いに笑みとともに答え、お春が笑うとそれに合わせて笑った。
 だが心の奥では、どうしようもなく暗い疑問が渦巻きはじめていた。
 ねえ、お嬢様、どうしてお嬢様はそんなにいっぱい、お嬢様自身もわからないくらい飾り物を持っているっていうのに、あたしには飾り物一つないんでしょう。
 ねえ、お嬢様、どうしてあたしの手はあかぎれでごわごわなのに、お嬢様の手はこれまで一度も使ったことがないみたいにそんなに綺麗なんでしょう。
 いえ、わかりますよ、お嬢様は大店の旦那の娘さん、一方のあたしは田舎の水飲み百姓の子、かっての「下女」、たった二朱の娘、間引きを受けなかっただけ幸せってもんだ、ようくようくわきまえていますよ。
 でもね、お嬢様、ときどきあたしは思っちまうんですよ。
 あたしとお嬢様、人として、どれだけの違いがあるっていうんです?

          ○

 みんな、あたしを利用することだけを考えている。
 でもあの子は違う。あたしとおんなじ。だからみんなとは違う。

 違うはず。

          ○ 

 お鈴は音を立てないように、そっと障子を引いた。素早く身体を内側へと滑り込ませ、ふたたび慎重に障子を閉める。
 大丈夫、うまくいった。お鈴はほっと息をついた。
 お嬢様は今日、別な女中を供に琴の稽古へと出向いているし、ここまで誰にも見られなかった。今自分がお嬢様の部屋にいることに気がついているものはいない。
 お鈴は緊張を解くと、ゆっくりとお春の箪笥へと近づいた。下から二番目の引き出しをそっと開けると、途端にまばゆい光がお鈴を襲った。
 引き出しの中にあったのは、先日お鈴が目にした数え切れないほどの飾り物だった。その中には、あの精緻な細工の施されたかんざしもあった。
 お鈴はそっとかんざしを取り上げた。ひやりと冷たい感触がお鈴の身体を走り抜けた。お鈴はぞくぞくするような興奮を覚えた。
 ゆっくりと目の前にかざし、角度を変える。そのたびに光を受けて色鮮やかな変化を見せた。お鈴を虜にするに十分な、それは艶やかさだった。
 でもこれはだめだ、そうお鈴は考えた。お嬢様のお気に入り、これがなくなればさすがに気づく。もっと地味なものを、なくなってもお嬢様が気づかないような……あれ、そういえばあの……
 そのときだった。突然、部屋に面した廊下を駆けてくる足音が響いた。足音はお鈴に身動きする暇も与えず、障子の前で止まった。
 お鈴は凍りついたように動けなかった。
 障子が開いた。その向こうにはお春が立っていた。
 お鈴? こんなところでなにをやっているの?
 怪訝な表情と共に誰何の声を発したお春の目がお鈴の顔をとらえ、ついでその手の中にあるかんざしへと向いた。途端、それまで疑問の渦巻いていたお春の顔から、すっと表情が消えた。
 お鈴。こんなところでなにをやっているの。
 お春の口から発せられた言葉は先ほどと寸分も違わなかった。だがその調子は大きく変化した。百年もの間氷室に放り込んであったみたいに、どこまでも冷たくなった。
 お鈴は動けなかった。うっすらと汗の浮かんだ手のひらでぎゅっとかんざしを握りしめながら、何か言葉を吐こうと試み、だが言うべき言葉をなにも思い浮かばずすぐに口を閉じる、そんなことを何度も繰り返した。
 言うことなどないのだ。なにも言えるわけがないのだ。
 今日、お春の優しさにつけこみ、体の不調を訴えて供を見逃してもらったのはお鈴なのだ。女中部屋で休んでいなければならないはずなのに、今ここでこうしてかんざしを手の内に握り込んでいるのはお鈴なのだ。お春の誰何に応えられず、ただ身体を震わせながら、口をぱくぱくと空しく動かしているのはお鈴なのだ。
 すべてお鈴。お鈴の為したこと。
 お鈴、どういうことなの、これは。
 お春の言葉が、詰問へと変わった。ぴしゃりと鞭で打ちつけるかのようなその言葉がお鈴の硬直を解いた。
 お鈴は跳ね上がり、お春の身体を突き飛ばした。がたりと音を立て、お春は廊下に倒れ込んだ。お鈴はお春の身体を飛び越え、中庭へと飛び降り、裏口へと走った。
 お鈴!
 お春の声がお鈴の背中を打った。かすかに震えていた。
 もうおしまいだ、とお鈴は思った。なにもかもおしまいだ、と。
 お鈴は裏口から路地へと飛び出した。路地で遊んでいた長屋住まいの子供たちが、驚いたようにお鈴を見た。お鈴は数瞬あたりを見回し、ついで大路目指して駆け出した。
 あてがあるわけではなかった。ただ、扇屋の屋敷から遠く離れようと思っただけだった。
 ただ、お春から遠く離れようと思っただけだった。
 お鈴は大路へと抜けた。人馬の行き交う喧噪が一斉にお鈴を包んだ。
 お鈴がふと顔を上げると、一つの空間が目に入った。そこだけぽっかりと空間が空いていた。まるで川の中央に位置する大岩のように、その空間は人の流れをかきわけていた。否、人々が無意識のうちにその空間を避けていた。
 そこには、凄まじいまでの美貌を持った一人の女が立っていた。女は髪を結っておらず、腰まで届く長い黒髪を後ろで軽く束ねていた。桔梗をあしらった小袖がよく似合っていた。静かにこちらを見つめていた女とお鈴の視線が交わった。
 お鈴と目が合うと、女はまるでそれを待っていたかのように、ゆるりと極上の笑みを浮かべた。まとわりつくような女の視線がお鈴の身体を貫き、お鈴は刹那、痺れるような感覚を覚えた。だが、それも一瞬だった。お鈴は目を伏せて女の視線を外すと、ふたたび駆け出した。女はあいもかわらずゆるやかな笑みを浮かべたまま、その後ろ姿を見送っていた。
 往来を歩く人々の間を縫い、お鈴は駆けた。ひたすらに、駆けた。
 ぽつりぽつりと雨滴が落ち始め、お鈴の額を叩き、それはやがて勢いを増し、往来の人々はそれぞれ慌てたように散っていった。
 その中を、お鈴はただ駆けた。雨の中を、ただひたすらに。

          ○

 あの子も違った。あたしとおんなじじゃなかった。みんなとおんなじだった。あたしを利用しようとしていただけだった。
 みんなとは違うと思っていたのに。あたしとおんなじだと思っていたのに。そう信じたかったのに。
 これでなにもかもおしまい。希望は消えた。あたしはこれからもあの男に……ならば……だから……

 お願い、あたしを……

          ○

 お鈴は街道から一つ離れた中津川のほとりにほど近い辻の、久那土神(くなどのかみ)の社の下で膝を抱えてうずくまっていた。空はすっぽりと雲に包まれ、城下町は降り注ぐ雨の中、一面灰色に染まっていた。雨の向こうには盛岡城の三階櫓が霞んで見えた。さらにその奥には姫神山の陰影が遠く翳っていた。
 この辻をこのまま南へ進めば――お鈴はぼんやりと考えた。道の両側に榎が植えられた一里塚を抜けて、やがては黒沢尻の宿場町へと出る。だがそこに到るまでには、街道を挟んで同心屋敷が左右に広がる向御組町を抜けなければならない。今のお鈴にはどう考えてもいける場所ではなかった。かといって、北に戻ることはもちろんかなわない。
 なにも考えたくなかった。なにもかもが面倒だった。このまま、番太の町役人が自分を見つけるまでじっとしていよう、そう思った。
 そうだ、自分は捕まるのだ。お嬢様の髪飾りを盗もうとして見つかり、扇屋の屋敷から逃げた。あれから、お嬢様は旦那様に屋敷でなにがあったか伝えたことだろう。そして、旦那様は使いの者を番所へとよこしたはずだ。今頃は町役人たちがこの雨の中、自分の姿を探してさまよっているに違いない。ここでじっとしていればいい。あとは奉行様がすべて決めてくれる。もしかしたら、所払いに処せられるだろうか。
 お鈴は雨に濡れてほつれた後ろ髪をかきあげ――ふと気づいた。降り注ぐ雨で霞む辻の向こう、大路へとつづく道から、一つの影がこちらへと近づいてきていた。
 ああ、自分を捜している町役人に違いない。いや、それとも同心様?
 どちらも違った。霞の向こうから現れた人物、それは――
「お嬢様……」
 お春だった。番傘を差したお春が、供の者も連れず、ただ一人お鈴に向かって歩いてくるのだ。
 お鈴は動けなかった。膝を抱えて座り込んだまま動くことができず、かといってお春の姿から目をそらすこともできず、硬直したまま、近づいてくるお春の姿を見つめていた。やがてお春の姿は次第にはっきりとし、社の前、お鈴を見下ろすところで止まった。
 どうしてお嬢様がここにいるのか。
 いや、そもそも、どうしてあたしがここにいるのがわかったのか。
「お嬢様……」
 震えるお鈴の声にお春は応えなかった。無表情にお鈴を見下ろしていた。番傘から垂れる雫が、お鈴の着物に滴り落ちた。お鈴は動けなかった。
 しばらく、無言の見つめ合いがつづいた。静かな雨の音が二人を包んでいた。
 やがて、ゆっくりと、お春の口が、開いた。
「今日ね、琴を習いにいっても、ずっとお鈴のことが気にかかっていたの。お鈴、身体が丈夫で、寝込むなんてこと今までほとんどなかったじゃない。だからね、だめだったの。ぜんぜん琴に集中できなかった」
 お鈴は沈黙を保った。
「今度の行楽で、琴を弾くことになっていたでしょ。あたしこれでも張り切って練習していたのよ。自信もなかったから、もっと練習しようと思ってね、でも、今日は集中できなかったでしょ。それでね、思ったの。そうだ、お鈴のために弾こうって。琴の音で、お鈴を元気づけてあげようって。だから、部屋から練習用の琴を持って、真っ先に女中部屋に行こうと思ってたの。琴を聞いて、お鈴が元気になってくれたらいいなって思ったの。そうして障子を開いたら、あたしの部屋にお鈴がいたの」
「お嬢様……」
 お鈴の声が震えた。
「ねえ」低い、静かな、だが雨音を圧するお春の声。「どうして?」
 お鈴はお春の目を見たまま、身体を震わせた。
「お嬢様……あたし……」
 お鈴の次の言葉がつづこうかというそのとき、突然、お春がにんまりと笑った。
「でも、だからこそ、今のあたしがここにいる」
「お嬢様?」
「あたしね、お鈴に感謝しているのよ。お鈴がいたおかげで、今のあたしがいるんだもの」
 お鈴はお春の言葉の意味がわからなかった。身体を震わせながら、お春の言葉の意味を察しようと、その瞳を見つめた。
 お春の瞳の奥には、嘲りと蔑みの光が揺らめいていた。
「ね、お鈴、いいこと教えてあげる、あのね、あたしね――お嬢様なんかじゃないのよ」
「え?」
「あたしは父さんと母さんの娘じゃないのよ。母さんはね、昔子を流してしまったの。それ以来子ができなくて寂しい思いをしていたの。そんな母さんのために、父さんは流れた子と同じ齢の娘を買ったのよ、人買いから。それがあたし。新しく仕えたばかりのお鈴は知らなかったでしょうけど、古くからの奉公人たちはみんな知っているわ。値は二両だったって」
 二両――器量の良い娘は「上女」とし、二両で売る――
「でもね、父さんの――あの男の本当の目的はそうじゃなかった」
 お春の声が、がらりと変わった。低く、澱んだ声。
「お鈴、買われてきた娘がどうしてあれだけの飾り物を持っていると思う? 実の娘のように愛していたから? 違うわ。あの男は〈娘〉に買い与えていたんじゃない。〈妾〉に買い与えていたのよ。その気を惹くために」
「…………」
 お鈴の頭に、どろどろとしたものが漂いはじめた。
「みんな気がついていなかったみたいね。母さんも、源吉も、お景も。そうね、あの男はうまくやっていたみたいだから。夜半に一人あたしの部屋に忍んでいることに、誰も気がつかなかったみたい。一度、危ないときもあったけどね。あたしの部屋に忍んでくる途中で倒れちゃって、屋敷中大騒ぎ。みんなはおろおろしてたけど、あたしは嬉しくてしょうがなかった。このまま死んじゃえばいいのに、って思ってた。でも、そうはならなかった」
 あの日――一人で町医者を呼びに行かされた日、光と闇の挾間の世界に気づいた日――
「あの男はいつも言ってたわ。このことは誰にもしゃべるな。もししゃべったら、気の触れた娘として、山中に放り出すぞって。のたれ死にたくはないだろう、山犬に喰われたくはないだろう、なら、せいぜい明るい素直な娘を演じていろ、って。そうしていれば、生活はすべて面倒を見てやる、って。息を荒らしながら、あのどうしようもなく臭い口で、耳元に囁きかけてくるの」
 お春は両腕で抱え込むように自分の身体を抱いた。顔には、深い嫌悪の表情が浮かんでいた。
「逃げようと思っていた。いつか、必ず逃げようと思ってた。だけど、女の一人旅は許されない。関を越えられない。どうしようもないと思ってた。そこに、お鈴、あんたがやってきた。あたしと同じ、親に見捨てられた子、買われてきた子、きっとあたしと一緒に逃げてくれると思ってた……」
「お嬢様……」
 お鈴の言葉に、お春が弾かれたように叫んだ。
「黙れ! 黙れ! あたしはお嬢様なんかじゃない! それなのにみんなお嬢様お嬢様って、あたしのご機嫌を取ることしか考えてない! そんなんじゃないのに!」
 お鈴は口を挟めなかった。
「お鈴! あんたは違うと思っていたのに! あたしとおんなじだから、違うと思っていたのに! だのに、あんたもみんなとおんなじだった! 結局そうなのよ! あの男もほかのみんなも、あたしのことを母さんのご機嫌を取るための人形ぐらいにしか考えていなかった!」
 あたしとお嬢様がおんなじ? いいえ、違いますよ、お嬢様。どこか冷静にお鈴は思った。お嬢様は「上女」で、あたしは「下女」だ。二両と二朱ではぜんぜん値が違います。
「だから――だから――」
 顔を覆っていたお春の両手がゆっくりと開いていった。その顔には凄惨な笑み、目には歪んだ光。



 みんな喰ってやったわ。



 お春の言葉が終わると同時に衝撃が走った。お鈴の身体は社の下から外に弾き飛ばされ、雨に濡れた道の上を幾度も転がり、五間ほどもいったところでようやく止まった。
 お鈴は激しく咳込み、ついで軋みと悲鳴を上げる左腕の痛みに気がつき、苦痛の呻きを漏らし、ぬかるみの中なりふりかまわず悶え転がり、ふたたび全身を強烈な痛みが貫くのを感じ、こらえきれず仰向けになって絶叫した。
 雨が、お鈴の顔を打った。泥まみれになった着物が、肌に冷たく張りついた。
 わけがわからなかった。自分になにが起こったのか。お春がどうなってしまったのか。
 なにもかもが夢だと思いたかった。
 ふたたび左腕に衝撃。苦悶。絶叫。
 ぼんやりとした意識の中、ゆっくりと目を開くと、お鈴を見下ろすようにして、お春が横に立っていた。冷たい瞳と歪んだ笑みがお鈴の目に映った。
「痛い? ねえ、痛い?」
 無邪気な声。
「でもね、許してあげない」
 わずかに引かれるお春の足。
 まさか――
 雨中にふたたびお鈴の絶叫が響いた。灼熱が脳を貫き、身体には痙攣と重たい痺れが残った。
 左腕の感覚はもうなかった。
 お春はかわらぬ歪んだ笑みを浮かべながら、お鈴の身体にのしかかってきた。
「さあて、どうしようかしら。その身体を切り裂こうか、その喉笛を食いちぎろうか、それとも――」
 お春はからからと笑い、
「その脳味噌を思う存分すすろうか」
 その言葉の意味を理解したとき、ぼろきれのようになったお鈴の身体がぴくりと動いた。
「やっぱり若い娘の脳味噌は格段に美味なのでしょうね。もちろん、若くなくたって十分に美味しかったけど」
 美味しかった?
「美味し……かったって……」
「やあね、お鈴、さっき言ったばかりじゃない」お春は思い出すかのように目を細めた。「扇屋の連中よ。番頭の源吉も、女中頭のお景も、みんなみいんなあたしが喰ってやったわよ。それに母さんだって――あの男だって」
「喰って……」
「そうよ」お春はお鈴に顔を近づけ、にんまりと笑った。「そして、あんたもあたしに喰われるのよ、お鈴」
 お鈴は朦朧とする意識の中、ぼんやりとお春の顔を見上げた。
 喰った? なにを? まさか、そんな……
 そのときだった。
「そいつはどうかな」
 男の声がした。まるで雨粒の間をすりぬけたかのように、それは明確に二人の耳に届いた。
 お鈴は力無く首を傾け、そして見た。
 お春のやってきたのとは逆の辻から、一人の男がやってくる。一目見て旅の者とわかる姿だ。手には手甲、足には脚絆と足袋、そして草鞋。薄墨色の着物は歩きやすいように裾をからげてあり、頭にかぶった菅笠からは絶えず雨滴が垂れ落ちていた。
 そして男の左手には、一本の杖が握られていた。三尺ほどのそれは、旅の厳しさに耐えるためだろうか、かなりの太さを持っていた。
「どなた?」
 お春の訝るような声に対し、男はにやりと笑った。
「わかるだろう?」
 男は左手に握った杖を眼前に持ち上げると、その先端に右手をかけた。ゆっくりと右手をひねる。かちり、と音がして、杖の先端が抜け落ちた。男はそれを無造作に道端に投げ捨てた。
 そこには柄があった。男は右手で柄を握り、ゆっくりと引いた。灰色にけぶる世界の中、深い鈍色が現れ出た。
 それは、鍔のない打刀だった。男は残った杖を先と同じように投げ捨てた。
「そうか……わかった……わかったぞ……」
 お春の口から抑揚のない、しかし複雑な感情のこもったつぶやきが漏れた。
「あたしの躯に刻み込まれている記憶が告げる、おまえは危険だと。そして命じる、おまえを殺せと」
 お春の言葉を聞き、男の口元に浮かんだ笑みが凄惨さを増した。
「おまえは……我らの敵……かっての〈 牙の三 〉……『骸』より生まれし山『狗』……」
「俺の臭いに即座に反応できねえとは、おまえ、生まれたてだな?」
 男は右手に刀を引き下げたまま、無造作にお春との間を詰める。
「誰に作られた? 凶(まがつ)か? 焔(ほむら)か? それとも――」男の瞳に鋭い光が宿った。「奴か?」
「おまえに伝えることなどなにもない……」
 お春は雨の中、ゆっくりと身を沈めていった。やがてその手が雨に濡れた地についた。透き通るような白い指先が、ぐしゃりと泥を掻いた。
 次の瞬間、お春の喉から獣の咆哮がほとばしった。お春は大地に四つん這いになると、そのまま四つ足で男目がけて駆けはじめた。尋常ならぬ速度で男に迫り、三間ほどのところで躯をたわめると、地を這う影のように、まっすぐに男に向かって跳躍した。
 お鈴の目には、一筋の影が疾ったようにしか見えなかった。それほどの速度だった。
 男は慌てる様子もなく、両手で構えた刀を鋭く振り下ろした。
 だがそれよりはやく、お春の躯は地を蹴り横へと跳んでいた。跳んだ先ですぐにまた地を蹴り、まるで稲光のごとく、いまや鋭い牙を剥き出しにして男の喉目がけて飛びかかった。
 男は振り下ろした格好のまま、左腕を差し出してそれを迎えた。肉と肉がぶつかる鈍い音と共にお春の牙が男の左腕に食い込み、衝撃を受けきれなかった男の身体が数歩よろめいた。傷口から鮮血がしたたり落ち、お春の口許を濡らした。だが男は顔色一つ変えなかった。右手首を返し、刃の切っ先をお春の顔に定めると、素早く、そして力強く突き出した。一瞬早くお春は男の左腕から牙を抜き、後ろへと跳びすさった。刃が空しく宙を貫いた。三間ほどの間をおいて二人は睨み合った。
 お春は四つん這いの低い姿勢から、男の隙をうかがうかのようにゆっくりと躯を揺らしていた。
 雨に煙る中、お春の口から低いしゃがれた笑声が漏れた。
「かっての〈 牙の三 〉もたいしたことがないのね」
 男は応えなかった。紅く染まった左腕もそのままに、無表情に両手で剣を構え、鋭い視線をお春に向けていた。
 雨中、睨み合いがつづき――と、男がふっと笑みを漏らした。嘲るような笑みだった。
「躯が辛えだろう」
 二人を呆然と眺めていたお鈴は、男の言葉の意味がわからなかった。が、男の言葉にお春の躯がかすかに揺らぐのを感じた。
「おまえに噛まれた腕から確かに聞こえたぜ。ぎしり、ぎしり、ってな。傀儡となってから、一両日も経っていねえんだろう? 慣れねえ躯で激しく動き回るもんじゃねえ。これ以上、無理な動きをしてみな。あと少しもせずにおまえの躯は――」
 奥歯まで剥き出すかのような凄惨な笑み。
「はじける」
「黙れっ!」
 お春が声にならないわめきを上げながら、男に突進した。目にも留まらぬ速さで右腕を振るう。その指先には、刃物のような鋭い爪。
 強力な一撃――だが、どこまでも直線的だった。
 爪が届くより早く、男の身体が雨の中かき消えた。爪は空しく虚空を抉り、お春の表情に動揺の色が浮かんだ。慌ただしく辺りを見回す。が、どこにも男の姿はない。
「どこだっ! どこにいるっ!」
「ここさ」
 男の声の上がった場所――お春のすぐ真後ろ。
 考えるよりも早く、お春は大きく宙に跳び上がった。尋常ならぬ跳躍力を見せ、その高さは大地より五間ほどにもなった。眼下には、雨に煙る町と呆けたようなお鈴の顔。だが――
「無駄だ」
 男の言葉はやはりすぐ真後ろから聞こえた。
 お春の顔が恐怖に引きつった。
 お鈴は見た。
 男がまるでお春の影のように、その背後に現れ出たのを。
 お春が驚くような跳躍をみせ、しかし男もまたぴたりとそれについたのを。
 男が空中で振るった真一文字の斬撃が、お春の首を彼方に斬り飛ばしたのを。
 そして――



 お春の躯がはじけた。



 どこまでも深く暗いなにかがお春のいた空間から四方八方に飛び散り、降り注ぐ雨に溶け混じり、辻に降り注いでいた雨は一瞬にして黒い雨へと変化した。倒れていたお鈴は全身でそれを浴びた。恐怖と衝撃のあまり目を閉じた。先の細い針でつつかれたような痛みが全身に走るのを感じた。
 閉じていた目を開くと、前と変わらぬ灰色の雨景が広がっていた。ふと、なにかの直感に突き動かされ、お鈴は朦朧とした頭のまま、よろよろと立ち上がった。左腕がくたりと力無く垂れ下がった。お鈴は左右に揺れ動きながら歩をすすめ、しばらくいったところで立ち止まり、地面を見下ろした。
 そこに、一つの髪飾りが落ちていた。お鈴がお春にすすめた、あの紅玉のかんざしだった。
 お鈴は腰をかがめ、そっとそれを手に取った。一筋の鬢がからんでいた。
 雨がお鈴の頬を流れた。
 そのとき、背後でぱしゃりと音がした。振り返ると、あの男が近づいてくるのが見えた。
「お嬢様を……」
「ああそうだ」男は静かに言った。「俺が殺した」
 途端、身体の中で得体の知れない激しい憎悪がふくれあがるのをお鈴は感じた。
「よくも――よくも――」
 自分でも変だと思う。自分はお春の髪飾りを盗もうとし、お春は自分を殺そうとした。男はそんなお春を斬った。恨む筋ではない。だが、理屈ではないのだ。お鈴は、お春が好きだった。その髪飾りを盗もうとしたとしても、お春が自分を殺そうとしたとしても、やっぱり好きだったのだ。お春が買われてきた娘だと知って、自分と同じだと感じて、あの一瞬でどうしようもないほどの共感が生まれたのだ。あんな光景を見せられても、それが現実だとは信じられない――信じたくない。
 現実だとわかるのは、目の前の男がお春を斬ったという、その事実。
 だから、目の前の男が憎い。どうしようもなく、憎い。
「よくもお嬢様をっ!」
 お鈴は紅玉の髪飾りを逆手に構えると、よろよろと力無い足取りで男に近づいていった。男は表情を変えぬままそれを見つめた。やがて二人の間が狭まり、手の届く範囲にまでそれは狭まり、お鈴がかんざし持った手を振り上げ、それにも男の表情が変わることはなく、
 ――お鈴の振り下ろしたかんざしの先は、男の肩口に力無く突き立った。
「気が済んだか?」
 男の静かな問いに、だがお鈴は応えられなかった。男にかんざしを突き立てたところで力つき、ふたたび道上に崩れ落ちたのだ。
「どうして」お鈴は苦しげな自分の声を聞いた。
 どうして、よけなかったのか?
 どうして、自分は倒れたのか?
 二つの意味の込められた一つの問い。
「あの娘の躯は邪気で満ちていた。おまえはそれを全身で浴びた。もう間もなく死ぬ」
 男の声が頭上から雨と共に降り注ぐのをお鈴は聞いた。
「そう……だから……」
 だから、よけなかった。だから、倒れた。
 つまり、自分は情けをかけられたのだ。
「呪って……やるわ……」お鈴は自分の口が呪詛の声を放つのを聞いた。「わたしは……あんたを……呪ってやる……わたしと……お嬢様の呪いを……受け……て……」
 お鈴は最期の力をかき集めるために、一度大きく息を吸った。胸が苦しげに上下するのをどこか他人事のように感じながら、精一杯に言葉を吐き出した。
「そうして……どこかでのたれ死ね……」
「好きにするがいいさ」
 男の声は静かだった。
「この身に、これ以上の呪いを受け入れる余地があるとは思えねえが」
「呪ってやる……呪ってやる……」
 うわごとのようにつぶやくうち、お鈴の意識は暗闇に沈んでいった。

          ○

 目を開くと、雪が降っていた。
 あれ?
 お鈴は一瞬眩暈を覚え、軽く頭を振った。なにかが違うような気がした。それがなにかはわからないけれど。
 ま、いいか。
 お鈴が顔を上げると、そこにはやはり宙を舞う雪があった。それに、すっかり雪に飾られた中庭――そうか、ここは扇屋お屋敷だ。お屋敷の中庭だ。
 その中庭の雪の上で、お春が戯れていた。雪を手にすくって、天に向かって投げ上げる。一時宙に雪の華が生まれ、やがてはらはらと散っていく。
(ほら、お鈴も来なさいよ、楽しいわよ)
 お春の声はどこか遠かった。一瞬首をひねったあと、ま、いいか、とお鈴は思った。
 お鈴は雪の降り積もった中庭へと降りた。踏みしめた雪がさくりと軽快な音を立てた。雪が少ないな、とお鈴は思った。いつもなら、もっともっと積もるはずなのに。
 お鈴がお春のもとへと歩み寄る中途で、背後から低く通る声が聞こえた。
(まったく、今日は商売にならね)
 お鈴は慌てて振り向いた。いつのまにか主の籐兵衛が中庭に面する廊下に立っていた。「男蛇」と称されるその恐ろしげな面相をいかつくしかめながら、舞い降る雪を眺めていた。
 怒られる、とお鈴は思った。だが籐兵衛の口から出たのは、思いも寄らぬ言葉だった。
(これじゃあ、中も大してやることもあんめ。お鈴、ちょっくら、お春の相手をしてやってくれ)
 お鈴が驚いて固まっていると、籐兵衛はにやりと笑って歩き去っていった。そこでお鈴は気がついた。
 あれ?
 お鈴は首を傾げた。
(旦那様の頭、穴が開いてる)
 籐兵衛の頭には、大きな暗い虚(うろ)がのぞいていた。その向こうには、赤黒く爛れた肉。
 はて、旦那様の頭はもとからあんなだっただろうか。
 お鈴は一瞬首をかしげ、
 ま、いいか。
 すぐに考えるのをやめると、ふたたびお春のもとへと歩み寄りはじめた。
 あれ?
 お鈴は眉をひそめた。お春の喉に、一筋のの赤い傷痕が一直線に走っていたのだ。それだけではない、口元にもなにか紅いものがついていた。
 なにか変な気がする、それがなにかはわからないけれど。
 ま、いいか。
 お鈴は深く考えるのをやめた。
 と、突然頭から白いかたまりがかけられた。
 お鈴は悲鳴をあげ、ついで目をぱちくりとさせた。白く霞む視界の中、くすくすと嬉しそうに笑うお春の姿があった。
(お鈴、雪まみれよ)
(お嬢様がやったんじゃないですか!)
 お鈴はその場にしゃがみこむと両手で雪をすくい、お春目がけて投げた。お春が笑いの混じった悲鳴を上げて逃げた。お鈴も笑いながらそれを追いかけた。もちろん両手にはすくい上げた山盛りの雪。
 追いかけっこはしばらくのあいだつづいた。とうとうお春が雪に足を取られて倒れた。顔から雪に倒れ込む。お鈴は追いつくと、その上から雪をかけ――ようとして、自分も足を取られてお春の横に倒れ込んだ。ふたりは拍子で調子を合わせたかのように同時にもぞもぞと起きあがり、お互いの顔を見つめ合い、そして弾けたように笑った。笑うたび、お春の不安定な首がぐらぐらと揺れた。
 お鈴は首を傾げて言った。
(お嬢様、不思議です)
(どうしたの、お鈴?)
 お鈴は雪をすくいあげ、手のひらを返して落とし、お春の瞳を見つめ、
(雪がぜんぜん冷たくありません)
 そうなのだ。さっきから、雪空の下にいるというのに、まったく寒さを覚えないのだ。それどころか、身体の芯から、なにかぽかぽかとした暖かささえ伝わってくる。
(そんなこともわからないの)
(じゃあ、お嬢様はわかるんですか?)
(当然よ)
 お春はお鈴に歩み寄ってくると、その腕を伸ばしてふわりとお鈴を抱きしめた。身体の芯の暖かさが増した。
(それはね、心が温かいからよ)
 耳元に囁くようなお春の声。少しくすぐったい。
(心が温かいと、身体の寒さなんかぜんぜん気にならなくなるの)
 すぐ目の前に、お春の悪戯っぽくはにかむ瞳があった。
(お鈴は今、楽しい? あたしとこうやって遊べて、嬉しい?)
(はい!)
 お鈴は勢いよく、こくりとうなずいて見せた。
(あたしのこと、好き?)
(はい!)
 これまた、こくり。
 お春ににっこりと微笑んだ。
(じゃあ、あたしと一緒だ)
 お鈴の身体はこれ以上はないくらい暖かくなる――

          ○

 男は雨に打たれながら、もはや動くことのないお鈴を見つめていたが、やがて背を向けて町の外に向かって歩きはじめた。
 途中で一度立ち止まり、どこか恨めしげに灰色の空を見上げる。
 これじゃあ、臭いが残らねえ。
 舌打ちを共にした男のつぶやきは雨中へとかき消え、やがて男の姿もそれを追いかけるかのように霞んで消えていった。
 辻には、冷たい雨の中、お鈴がただ一人残された。その動かぬ頬の上を絶え間なく雨滴が流れていった。
 雨はいつまでも、いつまでも、お鈴の小さな身体を打ち続けていた。(了)




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