「婆様や。ようやく落ち着いたのう」
老爺はぐっしょりと濡れた簑笠を脱ぎ捨て、身体を端布でぬぐう。
「ええ、ええ、お前様。――ほんに、よう冷えること」
横で両手をこすりあわせている老婆も、老爺の言葉に何度もうなずいた。散々雨にうたれた身体はすっかり冷え切っていたが、もうこれ以上濡れることはないと思うだけで安心できた。
老夫婦は、越後の生まれであった。
生まれてから越後を出たことのないふたりだったのだが、遮二無二働いてきた身体が言うことを聞かなくなる前にと話し合い、遊山に出かけることにした。
湯治場に、天神の参拝を兼ねて。ふたりにとっては実に、人生で初めての長旅である。
ところが山道の真ん中で、突然の雨に降られてしまった。
困っていたところに、街道筋からそれほど離れていない廃れ寺を見つけた。
それでふたりはどうにかこうにか、春の冷たい雨から逃れることができたのだ。境内の空気は外と五十歩百歩だったが、屋根があるだけ雨に打たれずにすむのはなによりありがたい。
「……ご老体、そこでは寒かろう。ささ、もそっと火のそばに来よ」
入り口で身体を拭っているふたりに、大きな声がかかった。
老夫婦がここに来たときには、すでに何人かの人間がいた。みな格好、風体はばらばらだが、雨にうたれてここに逃げ込んできたのは間違いなかった。
声はそのうちのひとりである、四十過ぎの男がかけたものだった。武家の出らしく、恰幅のよい体に紋付きの陣羽織と袴をまとっている。
「羽目板を外しての即席囲炉裏とは仏罰ものだが、こう冷えてはいたしかたない――せめて現世にいささかの恵みよと、阿弥陀仏も目をつぶってくれることだろうて。さ、さ」
雨宿りの先輩たちは板張りの床を引き剥がし、がらんとした本堂の真ん中でたき火をしていた。
燃やしているのも羽目板や本尊の一部だが、火に当たっている者たちはあまり気にした様子もなかった。武家の男も普段はさぞや信心深いのだろうが、いまは身体を丸めて火に向き合っていた。
仏罰よりも、山の寒さの方が恐ろしい。
湿った木のばちばちと爆ぜる音は、いつになく魅力的である。ふたりは深々と会釈し、火のそばに並んで腰を下ろす。
「ご老体は、どちらから来られたか。……申し遅れたが拙者会津の藩士、板東宋三郎と申すもの」
「ご丁寧に、お武家様がもったいねえ。わしは――」
にこやかに語りかけてきた板東某と、老爺が名乗り合う。老婆はその間にちらりと他の人間たちを見回してみた。
火を挟んで老婆の正面にいるひとりはというと、こちらは一目でわかった。若い飛脚である。
おそらく帰りで、空荷なのだろう。走りやすいように裾をからげた着物から伸びた脚をしきりに揉んでは、ときおり外に耳をそばだてていた。
ふと老婆と目が合うと、黙ってちいさく会釈する。悪い人間ではなさそうでほっとする。
残るひとりは、奇妙な出で立ちであった。
顔を見られるのが嫌なのか、いまだ水の滴る網代笠と簑を取ろうともしない。話に加わらないところは飛脚と同じではあるのだが、火にあたろうともせずに本堂の隅で座っていた。
驚くほど小柄で、背丈は四尺たらず。子供のように小さかったが、網代笠から垂れ落ちた黒髪ははっとするほど艶やかだった。
ひょっとしたら女なのかもしれない。しかし得体が知れない。
老婆はいささか恐ろしくなって、目を他に移す。あまりじろじろと見て目でもあったら嫌だった。
「……なるほど、初めての遊山で雨にたたられたか。それはついておらぬな」
「へえ、まったくで。それにしてもこの寺があって、助かりましたで」
夫と板東は、話がはずんでいるようだ。昔から話下手な老婆は、それに黙って聞き入ることにした。
「参拝の行きで、風邪を引いたとは一大事よ。わしの起こした火ではないが、存分にあたっていくとよい」
「お武家様は、どちらに向かわれるので」
「拙者か。なに、小禄取りの小用でな――」
ふと板東の言葉を聞いて、この火は誰が起こしたのだろうと思った。飛脚がやったのか、それとも網代笠か。
どうにも後者に思える。仏像を燃やすのも、網代笠ならば躊躇なくやりそうだ。
老婆はそっと手を合わせて、朽ち果てた本尊に詫びた。
合わせた手は、ひんやりと冷たかった。
廃れ寺に男がやってきたのは、午後をいくぶん過ぎたころだった。
雨はまだ止まない。火は暖かいが、寒さがすこしづつ染みこんでくるように感じられる。
男は手甲と草鞋をつけ、薄墨色の着物をまとっていた。五尺六寸ほどのがっしりとした体躯の腰帯にさされているのは、見間違いようもなく刀鞘だ。
不思議な雰囲気の男だった。
老婆は男を、旅人らしくないと思った。
身なり格好だけは、それらしくしてある。着物の裾は歩きやすいようからげてあるし、刀鞘の反対側には水が入っているのだろう竹筒も下げていた。
だが、それだけだ。
旅人なら最低限持っていなければならないはずの荷物――薬や換えの下帯、火口、干し飯などをつめた括り荷――を、男は一切身につけていなかった。旅慣れてない自分たちでさえ、それくらいは持ち合わせている。
かといって、旅慣れていない風もない。おそらくずっと雨にうたれて歩いてきたのだろうに疲れた様子も見せず、飄々としていた。
「悪いが、俺も火に当たらせてくれるかい」
「おお、よいとも」
やはり真っ先に返事をしたのは、板東だった。人見知りしない性格らしい。
「外は、寒うございましたでしょう」
老爺もそそくさと脇へのいて、男を誘った。ちょうど老爺と板東のあいだに男が座るかたちになった。
「そりゃすまん。……ここも冷てえがな」
どかりとあぐらをかいて、そんなことを言う。
「屋根があるだけましよ。贅沢を申すな」
板東が苦笑した。咎める口調ではない。
「火も小さいが、こうしていればいずれ服も乾こう。雨も止むかもしれんぞ」
「かもな」
男は火に目をやって、それからぐるりと居合わせた面々を見た。
板東を、老爺を、飛脚を、網代笠の男を。
最後に、老婆を見た。
何故か老婆はぎくりとした。男の目に剣呑なものはなかったし、むしろ穏やかな色さえたたえていたというのに。
「婆さんは、寒くないのかい」
もっと火の近くに寄れと、手招く。低いがよく通る声だった。
「へえ、そうさせてもらうで……」
老婆は膝で火のそばまでにじり寄った。
あまり暖かさは変わらない。山の空気のせいだろう。
「拙者は会津の城詰めをしておる、板東宋三郎じゃ。そこもとは――」
「――『骸狗』」
板東が名乗ったところに、男はぽつりと一言で応じた。
『ガイク』、と聞こえた。
名前なのだろうか、と老婆は思った。姓名なのかそれとも渾名なのか、それさえはっきりとしない単語だった。
「……? 名前……でごぜえますか?」
「いやいや、それとも字名か。何か事情でもあるのか深くは聞かぬが、なんとも珍しい名よの」
板東も老爺も、同じことを思ったらしくめいめいに話しかける。
そんな中、男――骸狗は飛脚に向き直った。
「あんたは、何て言うんだい」
「へえ。あっしは――」
口は達者でなさそうだったが、問われるものを無下にもできないのか、飛脚の男は名乗った。
名を聞いた骸狗はふうん、と一言漏らし、老夫婦にも名を尋ねる。ふたりはそれぞれ答えた。
最後に、網代笠に同じ問いを発した。
「そいつは無駄よ、骸狗どの。何を聞いても答えようとせんのだ」
板東は渋面になる。自分たちが来る前に話しかけたのだろう。この見た目は重々しそうな侍が実はさぞ話好きなのか、と考え、老婆は忍び笑いをした。たしかにあの網代笠が嬉々として話に応じるようにはとても思えない。
ところが、網代笠が骸狗の問いに応じたのである。
「我らの内では、『埴』と呼ばれている」
ハニ。
骸狗に劣らず、それは奇妙な名前だった。
「……これまた、おかしな名前だな」
いささか今度は皮肉げに――自分の問いには答えなかったことを当てこすっているのか――板東が笑う。しかし骸狗は笑わなかった。
「どうして、俺には答えてくれたんだい?」
別な質問をした。それにも網代笠は答えた。
おそろしく、奇妙な答えを。
「興味がある。貴様の命には生と死、ふたつの色が見える」
『埴』は、そう言った。
「そうかい」
骸狗もまた、何ということもなさそうに同意したのだ。
しん、と沈黙が降りる。山の寒さがより強くなったように、老婆は感じる。
しばらくたって、ようよう板東は口を開いた。
「……何の話をしておるのだ。さてはその男、気でもふれておるのか」
呆れた口調だった。無理もない。
ところが骸狗が次に口にした言葉は、同意ではなかった。
「そんなこたあねえさ。そいつは人間じゃない。だから生と死の色とやらを見分けるくらいのことができても、ちっともおかしくはねえよ。
まあついでに言えば、そいつの言うこたあ間違っちゃいねえ。胸くそ悪い話だが」
「に、人間ではない? 化生だと申すか。狐狸かムジナか――」
「さあね。興味があればそいつに聞けばいい。……それに」
男はやんわりと首をふった。その仕草が否定を顕していると知ったのは、次の言葉からだ。
「『人間じゃねえ』ってんなら、あんたらだってそうだろう?」
全員が、奇妙な顔をした。何のことだかわからなかった。
――さてはこの男も、狂人なのだろうか? そういった目つきになっている。
しかしその穏やかな顔に、狂気など欠片も見えていない。いやいや狂人とは得てしてそういうものかもしれない。ともすればこのふたりは最初からぐるで、なにか企んでいるのかも――。
全員の共通した、その思惑が。
「だってあんたら、ひとりも『名乗ってなんかいねえ』じゃねえか」
たった一言によって、うち砕かれた。
名乗っていない? 先程何度も自己紹介したではないか。老夫婦も、板東も、飛脚も、『埴』も、この骸狗も。
疑問の渦巻く一方で、全員が思った。思ってしまった。
「そういえばそうか」――と!
それは頭の中に、自然と浮かんできた言葉。
理解はしていない。しかし納得している。してしまっている。
「こいつが誰の見ている『幻』か、もうわかってる」
そんな全員の心の内はおかまいなしに、骸狗は淡々と続けた。
「あんたじゃねえな、お武家さん。あんたは『間違われてる』。
会津の御紋は、それじゃねえ……。おおかたあんたの持っていた帳簿か書状か……なにかを見て、あんたを『会津の板東宋三郎』だと思ったんだろうな。あんたが仕えていたのは、本当は駿河の殿様さ」
板東の着ている陣羽織の紋を指さし、それからかすかに笑う。
「あんたはさぞや、独り言が好きだったんだろう。こっちがえらく無口なのに、あんたはよくしゃべる役だ」
次に顎をしゃくってみせたのは、飛脚の青年だった。
「あんたも違う。こちらが問うまで一言も喋らず、目を向けるまで無表情だった。この『幻』を見ていた人間にとって、あんたって人間が馴染みが薄い証拠だね」
一語一句、静かに。しかし確実に断じていくように。
突拍子もないことを言われたふたりは、呆けた表情のままだった。
いや、そうだろうか? 今ふたりが浮かべているその表情を、人は「呆けた」と言うだろうか?
開かれているわけでも、閉じられているわけでもない、力の入っていない唇。瞳はただ前に――骸狗に向けられた首の方向のままに――向けられ、なにも映さずなにも見ず。
今、骸狗が評したばかりではないか。
「無表情」と。
目を向けられたとき、老婆はびくりと身をすくませた。老爺に助けを求めようと首をひねり、そして愕然と凍り付いた。
「つまり、あんたらのどっちかさ。爺さん婆さん……いや」
老爺の表情も、骸狗に向けられたまま――。
「――あんただね。婆さん――これはあんたの『幻』だ」
違う。老婆はかぶりをふって否定しようとした。
これが幻であるはずがない。現でないはずがない。
自分には足がある。この寒さも本物だ。ぱちぱちと爆ぜる炎の暖かさも。
それなのに、声は出なかった。喉の奥に貼り付いたかのように、舌が動かなかった。
代わりに口を開いたのは、網代笠だった。
「見事だ。我が『朧絵図』にかからぬばかりか、絵図の『芯』を人に見抜かれたのは初めてだ」
もはやそれは、老婆に理解できる話ではなかった。
ただ、こう思った。「ああ、もう終わるのだ」と。
何が「終わる」のかも解らなかったし、それに対してどうという感情も湧かなかった。
しかし、もう終わる。この男が来たから。
生と死と。ふたつの色を、命に帯びる男が。
不意に、骸狗と視線があった。
「……俺にとっては、」骸狗は穏やかな視線を向けてくる。「どうでもいいことさ。わざわざ首を突っ込むことでもなかったし、他にやらなきゃいけねえこともあるしな……」
「ならば、ここを立ち去るか」
網代笠の声も、抑揚がない。
「我は蜘蛛のようなもの、網にかからぬ獲物を追うことはせぬ。かりそめの宿を出て、己が務めを果たすがいい」
ふたりともに、この場で起こっていることに何の関心もないような口調だった。
「ただ」と骸狗が漏らした、その瞬間までは。
「生者の営みってやつも、死者の見る『幻』にも興味はねえよ……ただ、な」
骸狗は、もう老婆を見ていない。
見つめているのは、網代笠の化生であった。
「その『幻』が、無理矢理に『見せられてる』ものだとすりゃあ――」
浮かべているのは、不敵な笑みであった。
老婆の心に鮮烈に焼き付く、爆ぜる炎のような怒りが浮かべさせた笑みが。
「話は……別でね!!」
――吠え猛る、炎!
がひゅっ! と空気が鳴った。
膝立ちの姿勢から、床を滑るがごとくの突進――腰の刀を抜きざまに網代笠に放つ、右逆袈裟。
誰にも見えなかった。見えたのは結果だけだ。
まっぷたつに前半分を断たれた網代笠と、その隙間から覗くふたつの赤光のみ。
「人が、我らに挑むか」
『埴』の目だとすれば、それは明らかに人の眼光ではない。
獣でも鳥でも、ましてや虫でもない。
化生の目――怪しの眼光と呼ぶのだろうか。
「ならば、応じよう。ふたつの色の命……大陸の『方相氏』どもも、かくあらんか」
それが戦いの合図。
ぐうっと『埴』の身体がたわむ。沈み込む。バネのように。
「――ふシャうっ――!」
放たれた呼気は山の寒気に白く濁ることもなく、一挙動で跳び上がった速度は猿をもしのいだ。
頭上で簑から飛び出したおそろしく長い腕が、空を切り裂く勢いで振られる。
とてつもない殺意に、骸狗は無我夢中で首を横にふった。
一瞬前まで頭があった空間を、うなりを上げて小さく硬質のなにかが通り過ぎていった。それは反対側の壁まで勢いを止めず、頑丈そうな漆喰の壁を木っ端微塵に粉砕した。
――飛礫、だと!
人ならぬものの放った「つぶて」だと看破する。その威力もまた、人の領域をはるかに越えている。
驚愕の暇すらあたえず、二撃目、三撃目が飛来した。
骸狗は最低限の動きでそれをかわす。かわしきれないものを、打刀ではじき飛ばす。
薄闇の中を飛来する飛礫を打ち落とせるのは骸狗にしかできないことだったろうが、たちまち刀には無数の刃こぼれが生じていった。
――刀が、保たねえか!?
そして、捕まえることも不可能。
床を蹴り、壁を蹴り、天井の梁を疾り、本堂すべてを縦横に跳ぶ体術。あらゆる方向から高速で襲い来る飛礫の技。
骸狗ははやる心を抑え込み、その時を待った。
冷静に、正確に飛礫をかわす。かすめる程度のものは捨て置き、急所を狙うものだけを打ち落とす。
頼るは自分の五感と、第六感。命を賭けた綱渡りだ。
――いや。化生といえども、焦れるはず――。
果たして、『埴』の動きがぴたりと止まった。梁の上で両手を懐に入れ、じっと骸狗を睨めおろしていた。
「我が出会った人間の中では――貴様はもっとも強い。頭抜けている」
息も詰まる戦いのさなかにあって、その声は静かだった。
「だが、これは防げない」
死の宣告においてすら。
『埴』の両腕が、だらりと落とされる。
骸狗は全身を緊張させた。『埴』は今まで一度も、両手を使っていなかった。
ふ、と霞んだ両腕が、胸元で交差され。
散弾のような無数の飛礫が、骸狗に殺到した!
――防ぎきれねえ!!
「ちいぃっ!!」
骸狗が初めて、身体を投げ出して飛礫をかわす。かわしながら、相手の真意を読む。
――「防げない」とぬかしやがったからにゃ、次の手が来る――。
読み通り、間髪入れずに『埴』の両脚が梁を蹴る。飛礫を投擲するため交差させた両腕をそのままに、両手を手刀へと変えて。
狙いは喉笛。膝立ちで体勢が崩れた骸狗が不利だ。
骸狗の上体が、思い切り反らされた。
『埴』の両手が、それを追うように伸びていく。鋏が噛み合うように交差した状態から開かれていく両の手刀は、骸狗の首を落とすまさにしなやかな、鉄の大ばさみ。
――ここだ!
生と死の狭間に、一瞬の勝機が閃いた。
骸狗の口から、裂帛の気合いがほとばしる。
まさに一寸、首を引き斬る一刹那――『埴』の身体が方向を変えて吹っ飛ぶ様を老婆は見た。下から加えられた一撃が腹を打ち、『埴』はしたたかに天井の梁に身体を叩きつけられた。
身体を反らしつつ、あの不自然な姿勢から、まさか蹴りを放つとは。
己の必殺の武器――交差させた自分の腕が真下の死角を作り上げるとは予想もできなかったか、敵を人間とあなどったか、その慢心が勝敗を分かち、床に倒れ込みながら投じられた骸狗の打刀は狙いたがわず『埴』の身体を梁に縫いつけた。
言葉にするも不可能な、絶叫があがった。
雨が降る音がする。
老婆はただ座して、それを聞いている。山の冷たさが津々と染みこんでくる、廃れ寺の中で。
「くはあっ……」
動かない『埴』に一瞥を投げ、骸狗は寝転がったまま大きく息を吐く。数瞬の攻防ではあったが、精根ともに尽きたように脱力していた。
「……本物の化生とやりあうなんざ、思ってもみなかったな」
大儀そうに独語してから、首だけ老婆に向け、
「余計なことだったかい、婆さん?」
話しかける口調は、戦いの前と同じく静かで、くだけたものだった。
老婆は骸狗に深々とお辞儀した。
「わしらが化生に囚われていたとはつゆ知らず……ありがとうごぜえましただ」
今となっては、それはもはや疑いようのないことではある。
廃れ寺の中に、たったふたりしかいない今となっては。
「爺様とふたりで、遊山の途中で雨に降られて……ここに来たときには、爺様は熱を出しておりました」
ばちばちと爆ぜるたき火も。
「流行病だったのでごぜえましょう。爺様は一晩、もちませんで」
それに温もりを得て、語らっていた者たちも。
「儂は爺様の亡骸を放ってもおけず、火をおこすのもひとりじゃできず、冷たい寺の中でじっとするうちに手が痺れ、熱が出てしまい――」
何もかもが、消えて。
「ここに、ここで……儂もおっ死んじまいましただ。
寒い寒い、山の廃れ寺の中で、爺様に置いてかれて、ひとりぼっちで」
あるのはひどく前に消えてしまったのだろう、火を起こした跡と本堂の床の穴と。
みっつの、ぼろをまとった白骨のみ。
「たった今、思いだしましただよ。たった、今」
ぽつぽつと語って聞かせながら、老婆は思いだしていく。
連れあいの死を、自分の死を、そしてその後のことを、次々と。
それは、化生に閉ざされていた記憶だったのだろうか。
「ここに折り重なって伏して、それからも儂はたったひとりでここに……」
どのくらいの間だっただろう? 数年か、十年か、数十年か?
「あの化生が、ここにやってくるまで、ひとり」
そうしてあやかしの術に囚われて、訪れる旅人をひとり捕らえ、ふたり捕らえ。
ねえお侍様、それがどんなもんか、わかりますか? それを思い出してしまった、儂の気持ちが?
どんなに哀しかったか、どんなに冷たかったか、どんなに辛かったか、わかりますか?
「そうかい」
骸狗のいらえはそっけなかったが、もはや涙も流れなかった。
それなのに。
「そりゃ、寂しかったろうな。婆さん」
その一言が、ぽっかりと開いた穴をわずかに埋めた。
大きな大きな穴に、たったひとつかみの砂を投げ入れた程度のものではあったが。
「安心しな。釈迦のもとでも、閻魔のもとでも……ここよりゃあずっとましなはずさ」
そうだ。寂しかった。何よりも。
投げ入れられた砂は、たったひとつかみ。それでもひとつかみ、穴が埋まった。
「へえ。左様でごぜえます」
老婆はもう一度、深々とお辞儀した。
「左様で…………ごぜえます…………」
降り落ちた涙を、あたたかく感じて。
雨が止み、ひとりの男が廃れ寺を出た。
雨後の山の空気は清く、冷たく、澄み切っている。
男は振り返ることなく、山を下りていった。
澄んだ冷たい山の稜線だけが、後に残った寺を見つめていた。
雨と涙が流れていった、その寺を。
了
――罔両(もしくは魍魎)は中国の伝説に端を発する食屍鬼である。
当時の日本の資料には「形三歳乃小児の如し 色ハ浅黒し 目赤く耳長く 髪うるハし」つまり赤黒い肌と赤い目、長い耳と美しく伸びた髪を持つ三歳児ほどの大きさをしており、死者の肝や脳を喰らって生きる鬼、とある。なお鳥山石燕が一七七九年に発表した『今昔画図続百鬼』では、ねじれた二本の角と鋭い爪が描かれている。
中国では忌むべき怪物として書かれているこの罔両であるが、これが日本に伝わってくると川に住む水神――いわゆる祟り神だが――としての一面が追加される。雨の中現れるという逸話も存在し、「魑魅魍魎」という言葉はもともと、山精が集まってできる妖怪と信じられていた「魑魅」とこの「罔両(魍魎)」のことを指していたと言われる。
中国の罔両は幻を操り、墓を荒らして人に害をなす。しかし「方相氏」と名乗る祓い師たちが何処からともなく現れ、中国に巣くう罔両をことごとく滅ぼした。
「方相氏」たちは、「人にありながら鬼神を宿す」者として伝えられている。
【幻獣辞典】より