後の願い





1.序



 僕は闇雲に走り出していた。振り返りたい衝動など有るはずもない。
 何度も「奴」の呼気を首筋に感じた気がした。それが錯覚であろうと現実であろうと、僕はただひたすら前に向かって走り続けるしかなかった。
 あのときは後も見ずに逃げ出した。そして引き返すなど思いもよらなかった。それなのに、ぽっかりと空いた黒い穴が今また、僕の目の前にある。 
 ―――恐怖。
 初めてそれを間近に感じたこの洞窟へ今日再びやってくることになったのは、決して単なる好奇心ゆえではない。
 震え出しそうな膝にぐっと力を込めて、僕は入口の錆びた鉄格子をゆっくりと左右に押し開き、埃っぽい空気を大きく吸い込んだ。



 あれは十五年前のある夏の日の事だった。物語に出てくるような冒険に夢中になるような、まだほんの十歳の子供だった僕は、崖から格好良く飛び降りる映画の俳優のまねをして自宅の二階の屋根から飛び降りたりしていた。何度目だったか、空中でバランスを崩し、着地し損ねた僕は右足の骨を折った。
 同情などされなかった。母親にはこっぴどく叱られ、父には怪我が治った一ヶ月後、馬鹿なことをやって周囲に心配をかけた罰として庭の草むしりを命じられた。庭なんていったって隣の家まで車で何分、市場まで一時間かかるというような田舎だったから、庭なんて有って無いようなもので、つまりとてつもなく広く、どこまでむしればいいのかなんて、勿論父は顎をしゃくるだけで教えてくれなかった。
 泣きべそをかきながら僕はあのひどく蒸し暑い午後、ちまちまと草をむしりながら家から少しずつ離れていき、父が家に入った瞬間を見計らって草原の中へ逃げ込んでしまった。
 どれだけ走ったのか、気づくと今まで来たことのない遠い場所まで来てしまっていた。
「ま、いいや」
 僕は大の字に寝ころんで青く澄み渡った空を眺めた。きれいだ、雲一つない。
 いつしか僕は最近村に流れている奇妙な噂のことについて考えながら、うとうとと眠り込んでしまった。



「おい、あれ聞いたか?」
 こんなふうに始まる噂には大抵ろくなものがない。一体誰が言い出すのかその出所ははっきりしないし、どうせ嘘に決まっているとかいいながらも皆面白がって騒ぐから結局は村中に広まる。
 逃げてしまった犬が半年後子犬になって帰ってきたとか、腰の曲がった老人が行方不明になって二週間経って草原の真ん中で見つかったときには、背筋もちゃんと伸び、走り出せるほど丈夫になった姿で花を摘んでいたとか。人々の噂としてはこうだ、どこかに若返りの泉か何かがあるに違いない、と。
 そんなもの元気になって帰ってきた老人に尋ねればすぐに分かりそうなものだ。しかし老人はにこにこ笑うだけで、一切言葉を発しなかった。後になって彼は以前までの記憶をきれいさっぱり忘れてしまっていることが判明した。
 若返りの泉? そんなもの僕は当然信じなかった。行方不明なった犬のどこかでできた子供ということだってあり得るじゃないか。よく似た犬はたくさんいるし、例え同じ足の同じ場所に同じ傷跡があったということを聞いても、全くの偶然だ、と取り合わなかった。
 年寄りが突然若返るなんてもっと馬鹿馬鹿しい。転んで筋を変なふうに違えたかなんかして、今まで曲がっていた足とか腰がたまたま治っちゃったんだ。しかも転んだときに頭を打ったりして記憶を無くしたんだろう。何せ年寄りだもんな。
 こんな具合に僕は噂という噂に理屈を付けて片づけた。
 そのときは分からなかったのだ、噂にもある種の真実が含まれることがある、ということを。



 すっかり眠り込んでいた僕が目覚めたときには、いつのまにか太陽は暗い雲に覆われていた。周囲は薄暗く、時間の判別も容易ではなかった。
 突然の閃光。そして一瞬の静けさの後、耳をつんざくような雷鳴が鳴り響き、雨が滝のように降り注ぎ始めた。
 僕は走り、近くにあった大きな木の下に逃げ込んだ。生い茂る葉っぱが雨滴を防ぎ、僕はほっと息をついた。と同時に父の言葉が頭に浮かんだ。
「雷は大きな木に落ちるもんだ。特にただっ広い野原にいるときは、木を雨よけにしようなんて考えないで、ただ黙ってその場に身を伏せて、地面に這いつくばるように……」
 ああ、それを実行する暇はもはや無かった。再び光が上空に鋭く走ったのを僕は見た。こちらへ向かって真っ直ぐに―――。



2.破



 開いた門をそのままに僕は歩を進めた。
 深く奥まで続いてる通路は昔のものだ。歴史の教科書に出てきたような石造りの柱が両脇に連なり、狭い通路をより狭くしていた。
 僕は躊躇いながらも歩き続ける。前に一度通ったときはこんなに狭くは感じなかった。肩が柱を何度か掠った。
 穴の奥の方から吹いてくる湿り気のある風が頬を撫でていった。
 僕にはそれが「奴」の呼気だと分かった。僕がやってくるのを待ち構えている。十五年前と同じように。
 また足が震え出す。冷たい汗が背中を滑り落ちていく。洞窟の中の空気は真夏の今でも涼しい。それでも気づけばシャツはぐっしょりと濡れていた。
 それでも。
「行かなければ」
 僕はそう口に出し、逃げたい衝動を唇を強く噛むことで無理矢理押さえつけた。



 稲光が目の前で炸裂し、僕はいつの間にか気を失っていたらしい。気づいたときにはずいぶん周囲は暗くなっていた。雨は上がり、夕闇が空の端から迫ってきていた。
 僕は体を起こすと立ち上がった。何ともない。目に見える傷は一つもなかった。左の足首が少し痛む。どこかで捻ったのだろう。
 ここはどこだ。
 折しも空には満月がかかり、ぼんやりと見渡せる風景はさっきまでいたはずの草原とは違うようだ。
 雷で遠くまで吹っ飛ばされる、なんてことがあるのだろうか。
 とりあえず僕は痛む足をちょっと引きずりながら歩き始めた。とはいってもどちらに向かっていいかなんて分からない。家は? 大体ここは現実の世界なのか? 心なしか満月も浮世離れしておぼろげに見えた。
 うろうろと十分も歩いただろうか。かき分ける草はだんだん僕の背丈よりも高くなっていった。これ以上は進めない、と思ったとき、急に目の前が開けた。
 そこは広場のようだった。緩やかに盛り上がった丘があり、そこを中心にして半径十メートルほどは草がなかった。丘の斜面の中央には人が一人入れるぐらいの穴が開いていた。そこには古びた鉄格子がはめ込まれている。
 少し手をかけただけで、何の前触れもなくその鉄格子は鈍い音を立て左右に開いた。中から湿り気のある埃っぽい風が吹き抜けてきた。水を浴びせかけられたように僕の胸に警鐘が鳴り響いた。
 ―――引き返せ。
 僕は立ちすくんだ。これ以上進んでは、駄目だ。そう僕の心が叫んでいた。
 途方もなく、恐ろしい何かが……、中にある―――。
 そう。僕は分かっていたのに。



 あのとき、十五年前の夏、僕は絶対に立ち去るべきだったのだ。
 歩きながら僕は考えた。立ち去っていれば、二度とここには来なかった。
 だんだん風は強く吹きつけ、湿り気も増したようだ。洞窟の中はほのかに明るい。光る苔が壁面いっぱいに生えているせいだ、と今なら分かる。
 大学を卒業した後、一流企業に就職し、この間付き合って三年の彼女と婚約をし、周囲の人間が「順風満帆の人生」と声を揃えて言うのを僕は当たり前のように受け流していた。そう、僕は幸せ者だったのだ、今日のこの日までは。
 彼女の顔が瞼の奥にちらついた。僕は首を振る。もう今は引き返せない。あのときに引き返せなかった僕には、もう今は進むしかない。



 僕は分かっていたのに、前を向いて歩き続けていた。
 子供の好奇心は容易に抑えられるものでもなかった。洞窟のぼやっとした明かりは僕を未知への世界へと誘う夢の扉のようだった。
 湿り気のある風は先に進むにつれ強く顔に吹き付けるようになり、僕の心の中では警鐘が絶えず鳴り響いていた。
 ―――引き返すんだ。まだ、間に合うかも知れない。
 僕はその胸のうちの声に首を振って答えた。いや、進む、進まなくてはいけないんだ。そう、呟きながら。
 それは好奇心とはもはや呼べなくなっていた。僕を前へ前へと突き動かしていた力。抗いようのない、それは―――。



 『誘惑』だったのだ。
 甘く、どろりとした触手が僕の心に絡みついていたようだった。早く先に進みたい、何があるのか知りたい、この洞窟のずっと奥……、奥へ……!
 僕をそう促し、二度と戻れない場所へと引き寄せた、力。
 ここを曲がればそう、在ったはずだ。あのときの場所。そう、この、場所。
 今まで背中をかがめて歩いていた道が急に広くなって、白い光の中、目の前に石造りの巨大な建造物が現れた。



 白い光の中、目の前に石造りの巨大な建造物が現れた。僕は立ちつくし上を見上げた。燦々と降り注ぐ月光。月明かりがこれほどまでに明るいものだと、幼い僕は初めて知った。
 心に鳴り響き続けた警鐘は、もう鳴らない。既にここまで踏み込んでしまった僕に、警鐘などもう必要なかったのだ。
 耳元で声がした。地の底から響くようながさがさとした声。
 ―――ワガネムリヲオカスモノ。
 僕は身動き一つできない。息一つ吐けない。足が痛い。さっき捻ったんだ。さっき、いつ……?
 ―――チノケイヤクヲ……。
 チノ……、血の? ケ・イ・ヤ・ク……。
 湿った息が背中にかかった。僕は動かない身体を意識しながらも、必死で振り向いた。そして、「奴」がそこにいた―――。



 「奴」はこの場所にまだいる。僕は知っている。なぜなら僕は契約を果たしていないからだ。あのときに交わした契約を、腰の曲がった老人や、老犬とは違って。
 ―――ワガネムリヲオカスモノ。
「僕は契約を破棄しに来た」
 ―――チノケイヤクヲカワシタモノ。
 声が建物に反響して一体どこから聞こえているのかわからない。
「どこにいる、姿を見せろ」
 本当は見たくなどなかった。過去、少年だった僕が感じた凄まじいまでの恐怖と、今ここにいる僕の感情が、交錯する―――
 そして、「奴」がそこにいた―――。



3.急



 僕は自分の悲鳴を随分遠くで聞いたように思う。
 目の前ににっこり笑う美女。瞳は黒く冷たく輝きを放ち、長い黒髪がうねるように足下にとぐろを巻く。美貌の奥に感情の欠片すらなかった。笑顔は、言うまでもない、作り物の仮面だ。
 ―――ケイヤクノヒダ。
 顔にそぐわない、老人のような声。僕は震えながら声を発した。出てきた声はまるで吐息のようだった。
「契約を……、破棄したい」
 僕の心を見透かすような目で「奴」はいった。
 ―――ワレハ、ナンジノネガイヲカナエルモノ。
 僕は叫んでいた。
「頼む! 僕は、僕はほんの子供だったんだ。馬鹿な願いだった。どうしたらいい? どうしたら契約を破棄してくれる!?」
 奴は必死な僕の顔を、冷たい視線で睨め付けた。
 ───アタエタダイショウヲカエセ。
 代償、だって? 何を、僕は代償に払ったんだ……?



 僕は自分の悲鳴を随分遠くで聞いたように思う。
 目の前ににっこり笑う美女。瞳は黒く冷たく輝きを放ち、長い黒髪がうねるように足下にとぐろを巻く。美貌の奥に感情の欠片すらなかった。笑顔は、言うまでもない、作り物の仮面だ。
 ───ナンジノネガイハナンダ。
 少年だった僕は「家に帰りたい」そう言おうとした。
 ああ、だが奴は僕の心の奥底を見透かすような目で、にやりと笑った。
 ───ナンジノネガイ、タシカニハタソウ。
 僕の心は凍り付いた。今、僕は何と心に願ったんだ……?
「ちょっと待って、違う、僕はそんな、恐ろしいこと望んでなんて───」
 いない、と言う前に僕の舌は奴の視線の前に回転を止めた。
 ───ヤメルナラ……。
 僕はそのとき自分でも驚くほど冷静に応えていた。
「や、やめる訳じゃないけど、せめて十五年、待ってよ」と。
 十五年経てば責任が消える、とでも幼かった僕は思ったに違いない。奴は笑った。あの顔で。奴の黒髪が僕の首筋をそっと撫でた。生暖かい液体が首から胸へ流れ落ちる感触。僕はぼんやりと赤い染みが薄汚れた一枚の紙を染めていくのを見ていた。
 おもむろに美女は僕が今来た道を指さした。
 ───ナンジノネガイ、キキトドケタ。
 僕は闇雲に走り出していた。振り返りたい衝動など有るはずもない。
 何度も「奴」の呼気を首筋に感じた気がした。それが錯覚であろうと現実であろうと、僕はただひたすら前に向かって走り続けるしかなかった。
 気づいたときには家の前だった。僕は契約の事なんて、すっかり忘れてしまっていた。どうして家の扉の前に立っているのか、全く見当も付かなかった。
 白く冷たく輝く月。
 その輝きとは異なる暖かい灯りが扉が開くと共に僕を包んだ。
 父が飛び出してくる。僕を押し潰さんばかりにがっしりと抱きしめて、何度となく僕の顔を大きな手のひらで包んだ。
「あんな嵐が来るなんて知っていたら、お前を一人でなんてやらなかった。雷が落ちたのを見た。お前が無事で、本当に良かった……、良かったよ」
 電流が、僕の心の中を駆け抜けた。



 ───ナンジノネガイハナンダ。
 僕の、願いは、家に帰りたいこと……、いやそうじゃなくて
「こっぴどく僕を叱りつけた父さんなんて、死んでしまえばいい」
 ───ナンジノネガイ、キキトドケタ。
 汝の願い、聞き届けた……。



4.終



 ───ダイショウハ、セイ。
 セイ、生、か。
 ───アタエタセイヲカエセ。
 与えた生を、返す?
 ───ナンジハジュウゴネンマエニシンダ。
 死んだ? 僕が?
 ───ココハシシャノクルバショ。
 死者が来て、最後の願いを叶える場所。声はそう続けた。
 そう、死者は願いをいい、それが聞き届けられた者は、その願いが成就するのを見届けるまで、偽りの生を与えられるのだ。
 子犬になったという犬は、ある日池のほとりで息絶えていた。老いた犬は若返りを望み、その願いが成就したことを池に映った自分の姿を見て、知ったのだろう。そして、元通り、死んだ。
 老人はどうだ。
 彼は記憶を全く失っていた。自分の腰が曲がっていたことだって忘れてしまった。きっと願い事だって。かつて自分は老人であり、健康な体を手に入れたいという願い事をした、ということを思い出すまで生き続けるだろう。何年でも、何十年でも、ずっと、ずっと……。
 そして僕は……。
 ───ケイヤクヲハキスルカ。
 もし今日、ここで契約を破棄しなかったら、父は死ぬ。そしてそれを見届けた僕は願い事が成就したことを知り、やはり、死ぬのだ。いやもともと僕は死んでいたのだ、15年前のあの日。やり残したこともある。恋人。彼女は悲しむだろう。でももう終わりだ。父が死ぬだけ無駄なことだ。僕が偽りの生を放棄すれば、全て終わる。そう、僕はもはや死んでいたのだ。死者が生者に干渉するなんて、あってはならないことだ。偽りは、ここで終わりだ。
 自嘲が僕の顔をかすめるのを見て、奴はにっこり笑う。
 あのとき、僕が言葉を発する前に心を見透かした、あの笑い。
 ───ヤスラカニ。
 月光が雲に隠れ、周囲は闇になった。どこまでも深い……漆黒の……。(了)




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