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2004.6.26Sat〜27Sun |
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| 前夜、21時前に就寝しただけあって、朝5時の起床でも何ともない。朝風呂に入り、6時前に出発。天気予報とは裏腹に青空が広がっている。まず沼田公園の沼田城跡へ向かう。沼田城は関ヶ原の時点では真田昌幸の長男、信之が城主。移築再建された鐘楼があるが、群馬県はどうも景観ばかりに気が向いて史実をおろそかにしてしまう傾向が強いように感じる。 沼田IC近くのコンビニで朝食を調達。月夜野ICまで関越道を使って目指すは名胡桃城。秀吉の裁定を反故にして北条方が急襲したために小田原征伐につながった秀吉の天下統一のきっかけとなった城だ。連郭式の縄張りで本丸、二の丸、三の丸が直線的に並び間に堀が走っている。へんてこな構造物のないなかなか趣のあるたたずまいの城だ。近くに塩原太助馬つなぎの松もあったのでちょっと寄り道してみた。 そのまま県道を渋川まで突き抜ける。晴天が広がっていたのになにやらかき曇ってきて渋川あたりでは、小糠雨が降り出した。榛名山麓を回って箕郷町の箕輪城。上泉伊勢守が仕えた長野業政の居城だ。群馬県内の城の中では名城の誉れが高い。関東7名城の中には含まれないが、関東8名城には数えられている。真っ先に本丸に向かったが、なんと工事中。それとも発掘中なのか。以前訪れたとき発掘調査中だった三の丸方面から大手に当たる虎韜門跡まで下ってみた。現在搦手とされている方が長野氏時代は大手門だったという。天気も今ひとつだし、またいずれ訪れることとしよう。 次は群馬郡の奥地の倉渕村。お目当ては小栗上野介忠順の墓だ。目指す東善寺はすぐに見つかった。かつて正月に倉渕温泉に入りに行ったとき前を何度も通っていたのだが、興味のなかったときは素通りし続けていた。郷土の偉人として上泉伊勢守ともども、もっともっとPRしてほしいものだ。銅像と墓は本堂の脇奥にある。 倉渕から高崎に向かうと再び小糠雨が降り出す。気になっていた私の出身小学校近くの忠霊塔に寄ってみた。何の案内もない。忠霊塔は日清・日露・大東亜の3つの戦争の戦没者名が記されていた。たいした数ではない。累々と屍を連ねた203高地の戦死者はこんなものではないはずだが…。そのわきにひっそりと佇む忠魂碑には「希典」の名を発見することができた。彼の揮毫による碑らしい。 高崎市内で用を済ませたあとは、特別史跡の上野三碑をチェックして回る。地図に載っていない金井沢碑は現地の表示がわかりやすかったが、地図に載っている山上碑は現地の表示が不親切。金井沢碑は国分寺建設15年前の民間における仏教の普及を物語る碑文内容。山上碑は古墳脇の墓碑に類するもので埋葬者を特定できる貴重な事例という。覆屋で保護されている。上野三碑だけでなく日本三大古碑にも挙げられる吉井町の多胡碑にはなんと撮影禁止の表示が。前回来たときにはそんなものはなかったのに。(証拠はこちら)多胡碑記念館内のレプリカも撮影禁止。あまりもったいをつけるのはやめてほしい。多胡碑記念館で求めた絵はがきに天守様建物があったので、山道を上って攻めてみる。すっかり霧に包まれていた牛伏山展望台。天守閣とは謳っていないが、歴とした模擬天守だ。歴史ある山城跡にこういうものを建てるのは本当に感心しない。山を下りてからモスバーガーで昼食。 昼食をすませて隣の甘楽町へ。「剣の天地」に出てくる長野業政の娘婿、小幡信貞に縁があるかと小幡の甘楽町歴史民俗記念館に寄ってみた。果たして信貞の赤具足があり居城の国峰城の想像図などもあった。信貞は信玄に通じ、一度は国峰を落ち延びるが、後年、箕輪落城に功をなす。そして上泉伊勢守は諸国を流れて新陰流を柳生石舟斎に伝えることになるのだ。「剣の天地」の中の重要な城、国峰城に意を決して向かう。しかし半端な悪路ではなかった。折れた枝や竹で車体はこすられ、落石すらある未舗装でヘアピンカーブの道。頂上の本丸を目指して御殿平も抜けていく。頂上まで325mの表示。ここから先は車は無理。雨もかなり強くなってきたので引き返すこととする。捲土重来を期したいとは思うが、甘楽町にはもう少し整備してもらわないと。整備されすぎても趣がなくなるがここまで手つかずだとちょっとおいそれとは踏み込めない。要害堅固な山城だということはよくわかった。 雨の為、早々に帰路につく。富岡ICから上信越道で八風山トンネルを抜けると道は乾いていた。ところが国道142号ではすさまじい土砂降り。へんてこな天気の一日だった。 |
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